6.戦慄①

 目の前に広がるのは、寂寞じゃくばくとした白の世界だった。


 木々の影も、空の雲も、今が夜か昼かさえも見通せないほどの、纏わりつくような白色が埋め尽くしている。

 鈍色にびいろの空から絶えず降り続く雪が、容赦なくリファの全身に吹きつけた。白い粒に触れた素肌がひりつくように痛む。冷たいという感覚さえもおぼろげになってきて、だんだんと足が重くなってくる。

 また一層、風が強まって、リファは思わず足を止めそうになった。それでも歯を食いしばり、次の一歩を踏み出す。

(立ち止まるな、私……!)

 地面に深く積もった雪に足を取られそうになりながら、倒れ込まないように己を叱咤して前へ進む。どこにいるのか、どこへ向かっているのかすら定かでないとしても、諦めるわけにはいかない。

 自分に言い聞かせながら、少し泣きそうになる。滲んだ涙も凍りそうだ。


 

 ――時は少し遡る。



 フューエンの王都までは約四日の道のりだと、旅の始めに商団長から告げられた。

 ハシェルからデンミまで行くよりも時間がかかる。その理由は、実際に馬車の荷台に乗り込んでみて分かった。

 ハシェルとその周辺は広大な平野で、点在する森以外に障害となる地形がない。しかし、スリン山脈は近づくほど傾斜が多くなり、整備された道も減っていく。

 交通の不便さもさることながら、この土地にはもう一つ、旅人を苦しめる大きな要因があった。

 

「ああ、やっぱり降ってきやがった」

 夕飯の支度のために火を起こしていた料理長が、空を見上げて舌打ちまじりにぼやいた。斧で割った薪を抱えて立ち上がったリファも、一緒に頭上を仰ぐ。

 重く垂れ込めた灰色の空から、無数の白い綿毛のようなものが、ふわりふわりと落ちてくる。肌に触れると一瞬のうちに消えてしまうそれは、〝雪〟と呼ばれるものだった。

 ハシェルでは雪が降らない。冬になれば気温は下がるが、それだけだ。北方地域では、霜が降りたり、湖が凍ったりすることもあると、リファは料理長から聞いて初めて知った。


 この商団とともに旅に出て、初めて本物の雪を目の当たりにしたリファは、思わず目を輝かせた。

「これが雪かぁ……! すごい、本当に冷たいんだ」

 次々と落ちてくる雪の粒を手のひらで受け止める。一方、小さな姿のままで隠れているサラは、疎ましげに雪を払っていた。

「まったく、これのせいで寒くてしょうがないわ」

 ぼそりと呟くと、それきりサラはリファのコートのポケットに引っこんでしまった。予想はしていたが、花の精霊は寒さに弱いらしい。


 初めは目新しい現象を楽しんでいたリファだったが、翌日の朝、料理長が文句を言っていた理由を理解した。

 一晩のうちに雪が馬車や荷物に積もり、ただでさえ険しかった道も真っ白に覆い隠されていた。しかも、身体の芯が凍りそうなほど寒い。

 デンミを出てから、少しずつ気温が下がっていくのを感じていたが、朝にかけて眠れないほどに身体が冷えるのは初めての経験だった。

(ヤナギくんを連れてこなくて正解だったかもしれない)

 支給された毛布にくるまりながら、リファは思った。こんな環境にいては確実に弱ってしまう。


 結局、道中で何度も大雪による足止めをくらうことになった。

 馬車の外は極寒の世界だが、料理長の小間使いとしてせっせと動き回っている間は気が紛れた。

 問題はサラのほうだ。人前に姿を出せないサラは、リファの鞄の中に籠もるか、毛布にくるまって過ごしている。ときどき、湧かした湯を注いだカップを持って行くと、それにくっついて暖をとっていた。

 それでも、徐々に厳しさを増していく環境に順応できないようで、小さな身体を縮こまらせ、口を開くことすら億劫なのか、いつもの饒舌さも失われつつあった。


 意気込んでデンミを発ったものの、早くも大きな障害にぶつかってしまった。じわじわと当初の予定から遅れていく旅程にも、過酷な環境にも焦りを覚え、たった一日がずいぶんと長く感じられる。

 そして四日目。雪による遅延がなければ、本国付近に到着している予定だったが、商団の馬車はまだ集落すらない山道を走り続けていた。


 懸念していたハシェルからの追手は、未だに現れる気配がない。ここまで平穏無事だと、なんだか拍子抜けしてしまう。

 石ころだらけの道を、がらがらと車輪を鳴らして馬車が駆けていく。石を踏んで弾くたびに荷台が大きく揺れ、積み上げた荷物や乗っているリファたちも跳ねる。お尻が痛くなることにも慣れてきた。できれば床に毛布を敷きたいが、寒さをしのぐことが最優先なので、多少の痛みは諦めるしかない。


「お嬢ちゃん、育ちが良さそうだから、絶対どこかで泣き出すと思ってたよ。意外と我慢強いよなぁ」

 同じ荷台に搭乗している料理長が、眠たげな目をさらに細くして、感心したように言った。

「俺なんて、初めてここいらの行商に来たときは二日で音を上げたよ。それまではナサニエスのほうで働いていたもんでな。寒さとは無縁の世界だった。お嬢ちゃんは確か、ハシェルの出身だったか」

「ハシェルも雪が降らないから、寒さはやっぱり堪えます」

「ここまでついてこられてるだけでも、大したもんさ。それにしたって、なんでまたフューエンなんぞに行こうとするかねぇ。正直、これといって大したもんはないぞ」


 料理長は、商団と一緒に何度かフューエンを訪れているらしかった。

 リファは、せっかくなので情報を集めておこうと、フューエンがどんな国なのと料理長に訊ねた。


「どんな国かと言われてもなぁ。ただの雪深い田舎さ」

 料理長は、あごひげを撫でながら馬車の天井を見上げる。

「何十年か前に王都で災害があって、国自体がかなり弱っちまったらしくてよ。今の王都は災害の後に新しく作ったんだと。しかも再建する間にキアグと揉めて、領土をぶんどられたって聞いたな」

「そんなに大変なことがあったんですね……」


 世俗から切り離された森で生活していると、数年程度の情勢にも疎くなる。キアグ帝国に領土を取られた、という話はヤナギから聞いていたが、フューエンは想像以上に厳しい状況に置かれているようだ。


 話していて気が重くなってきたのか、料理長は大げさに嘆息する。ふわりと白い息が暗がりに浮かんだ。

「そんな国に好き好んで行こうなんて、よく分からんなぁ。なんか年のわりに苦労してきた感じもするしよ」

「えーっと、あはは……」

「ま、あまり根掘り葉掘り聞くのも野暮ってもんだな」

 

 料理長は、苦笑いで誤魔化すリファを見て、深入りせずに引き下がった。仕事のときは厳しいが、彼のさっぱりとした性格をリファは好ましく思っている。

(苦労、か)

 現状もけっして生易しいものではない。だが、己のあずかり知らぬところで母が傷つけられ、国を追われたあの日を思えば、どうということはなかった。


 どれだけ厳しい状況にあろうと、まだ自分たちは前に進んでいる。すべてを失いかけた悪夢の夜から、こうして次の日々を生きている。

 ハシェルにはカルミアを、デンミにはヤナギを残して、リファたちは先へ進まねばならない。どんなに後ろ髪を引かれようと、後戻りはできないのだ。


 とりあえずフューエンに着けば、一旦は腰を落ち着けることができる。その後、どう動くのか、デンミを発つ前にサラと相談していた。

「フューエンに着いたらまず、〈使者〉について調べましょう。デンミでは有力な情報を得られなかったし、行く先々で当たってみるしかないわ」

「でも、ヤナギくんをずっとデンミで一人にしておけないよ。フューエンに拠点を作って、ヤナギくんを迎えにいくべきだと思う」 

 〈使者〉探しか、地固めか。二人の意見が割れた。

 しばらく話し合った結果、サラのほうが折れた。

「分かったわよ。でも、〈使者〉の情報集めもできる範囲でやってよね」

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