第2章
1.離別①
宿屋の裏口にある水場で、きらきら光る透明な泡が浮かんではじけた。
昼下がりのまばゆい太陽の下、長い髪を三角巾で包んだ少女が、汗みずくになりながらせっせとシーツを洗っている。井戸から汲んだ冷たい水もすぐにぬるくなりそうなほどいい天気だ。
五枚目のシーツを物干し竿にかけ、しわを伸ばしたところで、少女は背後から声をかけられた。
「おおい、ちょいと手を貸してくれんかね」
振り向くと、腰をさすっている老女が控えめに手招きをしている。
「布団を二階に運びたいのだけど、最近ずっと腰が痛くてねぇ……」
「分かりました。すぐに行きます」
小柄で細身なうえに腰を痛めている老女一人では、布団を抱えて階段を上り下りするのは厳しいだろう。少女は元気よく返事をして、洗濯桶とは別の桶に汲んでいた水で手をすすいでから宿屋に戻った。
紐で縛られている真っ白で清潔な真新しい布団を、「よいしょ」と持ち上げて二階の部屋へと運び込む。
ぎしぎしと音を立てる古い板張りの廊下と階段を何度か行き来し、途中で通りかかった部屋のタオルをついでに補充していく。
ようやくすべての布団を運び終わって息をついたところで、老女がやや慎重な足取りで階段を上り、二階へとやってきた。
「ありがとう。やっぱり若い子は体力もあるし力持ちね」
お疲れさま、と水の注がれたコップを差し出してくる。
「洗濯の続きはやっておいたから、少し休憩しましょう」
「えっ、いいんですか? 女将さん、夕方から新しいお客さんが来るって……」
「夕食の下拵えはできているし、掃除も終わってるから大丈夫よ。エナちゃんが一生懸命に働いてくれるおかげで、仕事が早く終わって助かるわぁ」
そう言って、この宿屋の女将はにっこりと笑った。
エナと呼ばれた少女は、わずかに固い笑顔で「いえいえ」と手を振った。
思わず表情が引きつりそうになったのは、面映ゆさのせいではなく、その名前を呼ばれ慣れていないからだ。
〝エナ〟というのは偽名である。
しかも、つい数日前から名乗り始めたばかりの。
「こちらこそ、ここに滞在する代わりに働かせてもらって、すごく助かってますから。このくらいのことなら、いくらでも頼んでください!」
「ふふ、ありがとう。頼りにしてるわ」
それからしばし雑談した後、少女は「一旦、部屋に戻りますね」と告げて、そそくさと女将のもとを離れた。
二階の北側、廊下の突き当たり。『入室中』の札が掛かっている扉を開けて中に入ると、少女は肩の力を抜いた。
ふぅと息を吐くと、「お疲れさま」と声をかけられる。
「休憩時間かい、リファちゃん」
声の主である青年は、ベッドの上で枕を背もたれにして、上半身だけを起こしていた。
「うん。夕方に次のお客さんが来たら、お使いに行ってくるよ。ヤナギくん、調子はどう?」
「大丈夫だよ。だいぶ痛みも引いてる」
そう言って笑うヤナギの顔は、昨日よりも心なしか血の気が戻って見える。
リファは「よかった」と安堵の笑みを浮かべて、ベッド横の椅子に腰掛けた。
シェンと別れ、ハシェルを離れたリファたちは、予定していたとおり『デンミ』という街にたどり着いた。
街に入る直前までは、いつ検問に引っかかるか、ハシェルから追っ手が来るか、とひやひやしていた。
しかし大きな障害はなく、一行は商人の馬車の荷台に乗せられたまま、デンミの門をくぐった。
ハシェルの王都セペリカほどではないが、デンミも
多くの住民と、さまざまな装いの商人たちが行き来する街中では、リファたちのような
デンミに着いたからといって、まだ安心はできない。
とにかく腰を落ち着けられる場所を見つけなければ、ヤナギの怪我を悪化させてしまう。そうでなくとも、乗り心地が良いとは言えない、狭い馬車の荷台にずっと押し込められ、ひたすら振動に耐えなければならなかったのだ。ヤナギでなくとも疲弊する。
「まず、ゆっくり休める場所に行かないと。どこかにいい宿屋さんないかな」
「安宿でもなんでもいいから、人目を避けられるところがいいわ……ずっと隠れていると息が詰まるのよ」
リファがきょろきょろと辺りを見回して宿屋を探していると、鞄の中から顔を半分だけ出してサラがぼやいた。
魔力不足で眠っていたサラは、デンミに向かう途中で目を覚ました。まだ本調子には程遠いようで、声にも表情にもいつものような覇気がない。
デンミに来てからは人目を避けて鞄に隠れていたが、その窮屈さに辟易しているようで、輪をかけて元気がなかった。
「ごめん、なんとか日が落ちる前には探すから……ヤナギくんは大丈夫?」
「今はなんとか。だけど、あまり長くは歩けないかな」
傍から見ればヤナギは自力で歩いているようだが、実際はリファに片側から支えられて、なんとか歩いている状態だ。それでも違和感なく見えるのは、ヤナギの精神力と身体能力の高さのおかげである。
(これだけ外の人間が出入りしている街なら、宿屋はたくさんあるはず)
よし、と気合いを入れ直し、リファは通りすがりの人に宿屋の場所を尋ねようとした。すると、「待って、リファちゃん」とヤナギが袖を引いてくる。
「宿を探すなら、小さめだけど安すぎない宿にしよう。あと、できればお年寄りが経営しているところだとなおいい」
「どうして?」
ヤナギの提案にリファは首を傾げた。
サラも言っていたとおり、リファは手持ちの金で数日しのげそうな安宿を探すつもりだった。そうでないと落ち着いて滞在できないと思ったのだ。
「僕らの潜伏先として、追手が真っ先に疑うのは素泊まりできそうな古い安宿だろう。だから敢えて、ちゃんとした宿にしたほうが捜索の目を少し欺ける」
「な、なるほど……でも、何日も泊まれるほどお金がないのは本当だよ」
リファは、雀の涙ほどの金額しか入っていない小さな布袋を取り出す。
手持ちはアグ鉱貨十枚と銅貨十枚、銀貨五枚。しめて六百十ヘズ。
こんなことになるなら、もっとちゃんと貯金しておくべきだった。
森暮らしをしていたとき、ほとんど金銭を必要としていなかったリファは、そもそもお金を貯めるという意識に乏しかった。
「確かに、それだけじゃ二日も滞在できないな。お金がないなら増やすしかない。でも、僕らは売れるようなものも持っていない」
つまり、とヤナギが言葉を切ったところでリファは手を打った。
「……働いて、お金を稼ぐ?」
「そういうこと」
合理的かつ、もっともな考えだ。しかし、リファは「うーん」とうなる。
「働くといっても、知らない街ですぐに仕事を見つけられるかなぁ……」
すると、リファの服の袖をサラが小さく引っ張った。
「リファ。だから〝年寄りが経営してる宿屋〟がいいって、この腹黒野郎は言ってるのよ」
呆れたように顔をしかめたサラの言葉で、リファはやっとヤナギの意図を察した。
「できれば、情に訴えやすそうな優しい人だと楽だね」
サラの暴言を笑顔で受け流したヤナギは、まったく悪びれることなくそう言った。
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