29.望む者③
肌がひりつくような緊張感に、リファはごくりと息を飲む。
しかしその静寂は、ヤナギがふっと肩の力を抜いたことで簡単に解かれた。
「……いえ。やはり、先ほどの疑念は撤回します」
申し訳ない、とヤナギは深く頭を下げる。
はらはらしていたリファはもちろん、シェンも拍子抜けしたように目をぱちくりさせた。
「お、なんだ。わりとあっさり引き下がったな坊主?」
「坊主はやめてください。……あなたのような高位の魔法士を、王宮側がこんな回りくどいやり方で利用する意味などありませんから」
ヤナギの目から懐疑の色は消えていた。対して、意図が読めないリファは困惑する。
「ど、どういうこと?」
「もしも彼が僕らに害なす者なら、今頃ここは敵に囲まれているだろう。だけど周辺に敵の気配はない。人避けの結界が張ってあるのも事実だし……しかも、かなり高度なものだ」
人避けの結界。リファが目を覚ましてすぐに、シェンがそんなことを言っていた。
窪地の底から見上げるようにして周囲を見回してみる。
「聞いたことはないかい? 結界というのは、それが緻密で高い完成度であるほど、術者以外の人間には感知しにくいものなんだ」
「あ、そういえば……」
以前、カルミアとサラから結界や封印について教授されたことを思い出し、納得する。
と、そこでリファは「あっ!」と声を上げそうになり、慌てて自分の口を塞いだ。
「どうかした? リファちゃん」
「な、なんでもない!」
リファは苦笑いで誤魔化し、そそくさと鞄の中身を確認する。
ヤナギの手当に使った薬の瓶や地図の束をどかし、鞄の底のほうを探すと、ちゃんと〈創世の書〉が収まっていた。
(失くしてなくてよかった……)
リファは密かに胸を撫で下ろす。あの混乱のさなか、万が一にも落としたり、傷を付けてしまったりしていたら、一生後悔しただろう。肩掛けの丈夫な鞄を選んでおいて正解だった。
顔を青くしたり安堵したりと忙しないリファをよそに、シェンとヤナギは話を続ける。
「俺とて、あいつらに見つかったら多勢に無勢だからな。それなりに気をつけて囲ったつもりだったんだが、手負いの坊主に気づかれるとは。俺も腕が落ちたもんだ」
「いや、これなら外からはまず結界の存在に気づくことはできないでしょう。僕は内側にいたから魔力の流れを察知できただけです」
「ははぁ、なるほど。ずっと寝たふりして、お嬢ちゃんたちの安全を確認してたわけか。そこまで探られていたとは恐れ入った」
感心半分、からかい半分といった様子でシェンは膝を叩く。また坊主呼ばわりされたことが気に障ったのか、ヤナギは少しむっとしている。
「……とりあえず、ここなら焚き火の明かりすら見つけられないでしょうね」
「そうだな。少なくとも、遠目から視認することはできないはずだ。坊主の血の匂いで獣が寄ってくると思って火を焚いていたが、その危険もそろそろ薄くなる頃合いか」
シェンは残り少なくなった木の枝を掴み、また炎の中に放り投げる。
「あともう少しで空も白んでくるだろう。短い時間だが、少しは眠って体力を温存しておくといい」
「あ……そっか。けっこう時間が経ってたんだ」
リファは頭上を仰いだ。空など見えないほどに
この一晩の間に、
(でも……朝が来たとして、それからどうすればいいんだろう)
焚き火の温もりと森に満ちる冷たい空気の間で、リファはわずかに身体を震わせ、長袖の生地越しに二の腕をさすった。
これまで起きたことの何一つ、納得することも、受け入れることもできない。
カルミアが意識不明の重体であること。
王族の中に自分たちを害そうとする人間がいること。
女王の暗殺を謀ったと濡れ衣を着せられ、命を狙われた末に、こうして逃げ隠れしていること……。
どうしてこうなったのか、考えようとしても頭の芯が鈍く痛み、ぐらつく感覚に襲われて思考がまとまらない。ただ漠然と、元いた日常には戻れないのだろう、という予感だけがあった。
うつむくリファに声をかけたのはシェンだった。
「なぁ、お前さんはこれからどうしたいんだ?」
「え?」
顔を上げてシェンを見る。彼は笑っていなかった。フードの中から覗く、炎の色を映した瞳がリファをじっと見つめている。
「いつまでもここいるわけにはいかないだろ。隠れるにしても限界はある。王宮という後ろ盾を失って、国を追われる立場になった今、お前さんはこれからどう生きていくのか決めなくちゃならない」
「……私が、どうしたいのか……」
シェンの言葉を、噛みしめるように
続くはずだった日常から放り出され、理不尽に悪意をぶつけられ、大切な人たちは傷ついて。
立ち上がることにすら、心も身体も軋んで悲鳴を上げている。それでも、
自分の置かれた状況を理解できているとも言えないのに、どう動けというのだろう。
膝の上で昏々と眠る友人の体温と、幼馴染の気遣うような眼差しは、己の弱さゆえに
握った拳に力がこもる。これでは、ディランに襲われたとき、考えるばかりで結局戦えなかった自分と同じじゃないか。
(これから、何をすべきか……)
今の自分に行動する理由と意味を課すとしたら、それは。
――我が後継者よ、力を望め。そして、国の危機を救ってみせよ。
カルミアの、凜とした声が蘇った。
リファは握った拳を解いて、指先で〈創世の書〉が仕舞われた鞄に触れる。
(そうだ……私には使命がある)
母が、女王が託した意思。
元を言えば、自分はこの本を持って旅に出るはずだったのだ。
「……私は」
乾いた唇を開く。思っていたよりも声は淀みなく通った。シェンとヤナギの視線が集まる。
「ハシェルを出る。そして、母様から与えられた使命を果たす」
力を望め、と母は言った。奏者となり、ハシェルの滅亡を回避するための力を。
〝切り札〟としてカルミアが己に見出したものが何なのか、故郷に戻れるかどうかすらも今は分からないけれど。
応えるために、救うために、前に進む。
――私は、強くならなくては。
言葉にしたことで、リファの中で毛糸のように絡み合っていた感情と思考が形を成す。道の先は見えなくとも、足元を照らす灯火を得た。
ヤナギはしばし目を丸くしていたが、やがて、いつものように優しく破顔する。
「……リファちゃんがそうしたいと願うなら、僕は従うよ」
いつかどこかで聞いた台詞とともに、ゆっくりとうなずいた。
「なるほどな。女王はちゃんと娘に指針を渡していたらしい。こりゃあ俺がお節介だったな」
シェンはからから笑った。その表情には心なしか安堵が滲んでいる。
「先は不鮮明でも、ここから歩き出せるんなら及第点だ。まぁ、その使命ってのが何なのか俺は知らないが」
「えっと、それは……」
さすがに、部外者のシェンに詳細は言えない。
リファが逡巡すると、ヤナギが助け船を出した。
「諸国外遊。大陸の各地をまわって、カルミア様の知り合いを探すんだよね」
「そ、そう! 母様のお知り合いなら、ハシェルの王族間で何が起きているのか、探るための知恵を貸してくださるかも! それに今は他に頼れる宛てもないし!」
表向きの理由に未だ馴染めていないリファは、わたわたと思いついたばかりの大義名分を並べる。
王宮の人間を同行させる予定だったことから考えて、カルミアが言い訳に使った〝知り合い〟は実在するのだろう。それが目当ての〈使者〉本人である保証はないが、今は少しでも情報と味方がほしい。こちら側に引き入れられるか否かは置いておいて、まず目標を定められただけでも一歩前進だ。
「へぇ。その女王の知り合いってのは大陸のどこにいるんだ?」
シェンが素朴な疑問を投げかけた。
「えっ」
ぴしりと固まるリファ。向けられる二人の視線に、背中を冷たい汗が流れ落ちる。
(――か、母様――――!!)
一拍置いて、リファは心の中で叫んだ。
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