26.鳴動④
急に再起し始めた兵たちは、鎧に黒くべっとりとしたものを
ヤナギはリファの様子を気にかけつつも、異様な光景を注意深く見つめた。
自分が殴り倒した者も、サラが蹴り飛ばした者も、等しく泥に
サラは汚物を見るように嫌悪を露わにする。
「なんなのよ、こいつら!」
「おそらく、あの泥みたいなものに操られているんだろう。だが、なぜディランにそんなことができる……?」
ヤナギは表情こそ動かさなかったが、口調には困惑が滲んだ。
兵たちは皆、夢遊病者のように茫洋とした目をしている。そしてふらつきつつも次々と剣を構えた。
「ふ、ふははははは……! どうだ、さすがの貴様らも何が起きているか理解できんだろう!」
ディランは泥の源泉の上に立ち、耳障りな声でさも愉しげに笑っている。
「いっそ貴様らも呑まれてしまえば手間が省けたのだが、それは避けたようだな」
「……これまでも相当だったけど、輪にかけて気色悪くなったわね、アンタ」
「ほざけ。餓鬼の虚勢なんぞ、ひねり潰してくれる」
行け、とディランが命じると、今まで幽木のように突っ立ていた兵たちが一斉に動きだした。走るたび足元でばちゃばちゃと泥が飛び散ってもまったく意に介していないようだ。
「汚い身体で近寄るなっ!」
兵たちは存外に鈍足だった。隙を狙いやすいと判断したのか、迫って来た兵士の一人にサラは即座に足払いを仕掛ける。
「っつ!」
できるだけ泥を避けて攻撃したものの、ほんの少し触れただけでサラは顔をしかめて飛び退いた。
「サラ、大丈夫か」
「くっ……平気よ、このくらい! 少し痛かっただけ」
サラとともにヤナギも後退し、いつになく切迫した面持ちで呼びかける。サラは泥が触れた足を庇い、ぎゅっと眉を寄せた。
「……あれ、意外とやばいわ。ちょっと当たっただけで神経まで侵されそう」
「下手に攻撃はできないってことか」
「ええ。打ち合えば打ち合うほど、こっちは身動きできなくなる。でも相手は倒れない」
「……確かに、意外とやばいな」
ヤナギは薄く笑う。額から大粒の汗が伝った。
ただでさえヤナギもサラも体力的に追い詰められている。一方で泥は広がり続け、もう足場となるまともな地面は少ない。後退しても背後には関所の大きな壁がそびえ立ち、そこまで追いやられたら泥に呑まれてしまう。そして、その間にも兵士たちは攻撃してくる。
これまでとは比にならない窮地だ。仲良く嫌味を飛ばし合う余裕もない。
「……サラ。僕の後ろに隠れろ」
「は、はぁ?」
ヤナギの突然の提案に、サラは素っ頓狂な声を上げた。
「この期に及んで庇うつもり? 馬鹿にするのも大概に――」
「そうじゃない。いちいち怒るな」
くわっと牙を剥いたサラを、ヤナギは冷静に
「おまえは伏兵なんだろう。だったらそれらしい働きをしてくれ」
サラは目をぱちくりさせたが、言葉の意図を汲み取ったのか、ふっと口の端を上げる。
「……気にくわないけど、アンタの思惑に乗ってやろうじゃないの」
それだけ言うと、サラはヤナギの背後に回り、正面から死角となる位置に身体を隠した。
二人の行動を眺めていたディランは、愉悦の表情をさらに色濃くする。
「ふははは、後がなくなったからと庇い合うか! 無駄なことを!」
ディランの嘲笑が響く。ヤナギは動じず、自分たちを囲み込もうと接近する兵たちを注視した。
近衛騎士の一人が、ヤナギに向かって剣を振りかざす。
「ヤナギくん!」
リファの叫び声が響く。
ヤナギは小さく笑って地面を蹴った。隙ができた騎士の懐に飛び込み、即座に身を低くして、騎士の足を切り裂く。
その左手には、一本のナイフが握られていた。
倒れ込む騎士を素早く
兵たちは呻きながら崩れ落ちた。それでも数が数だ。すべての兵を
「血迷ったか、カーディナルよ! 泥に触れた時点で貴様の動きは封じられる!」
「それはどうかな」
さらにひとりの騎士を転倒させたところで、ヤナギは呟いた。
その手足には少量だが泥が付着してしまっている。しかし、ヤナギの立ち回りの速さは衰えなかった。「なに……⁉」とディランの表情が強ばる。
先ほど泥の影響を受けたサラとの違いは、触れた部分が素肌かどうかだ。
サラはリファに変装していた名残もあって、足の露出が多く、泥に直接触れてしまった。
一方ヤナギは首から上以外は肌を晒しておらず、それも籠手を仕込むほどの重装備だ。泥が染み込まない程度には中にも着込んでいる。
直に泥を浴びさえしなければ、浸食を防ぐことができる。それが分かっているからこその攻撃だった。
「くそっ、おい
兵に命じようとして、ディランは目を見開いた。
ヤナギの行動に気を取られている間に、サラが消えていたのである。
「あの餓鬼、どこへ行った!」
男は焦燥を露わにして、周囲を見回した。
そのとき、街道を囲む森が、ざわざわと怪しく騒ぎだした。風もないのに草木が波打つように大きく揺れ、枝葉のこすれる音が辺りを包む。
「な、なんだこれは」
「――あら、分からない?」
どこからともなく、サラの声が響く。
直後、森の中から無数のロープ状の物体が飛び出してきた。細いものから太いもの、棘のあるものから葉が茂るものまで様々な、植物の
蔓は動物のようにぐねぐねと俊敏に動き、凄まじい勢いで兵士たちに巻きついていく。泥に触れると枯れてしまうようだが、損失を優に上回る本数だ。
ヤナギに足を切られた兵士たちは、泥の効果なのか再び起き上がろうとしていたが、あえなく蔓に拘束される。
そして遂に、高みの見物をしていたディランにも蔓の波が襲いかかった。
「ぐあっ、な、なにが起きている⁉」
手足と胴体に複雑に絡みついてくるそれに、ディランは顔を引きつらせた。
「あら。植物を操る魔法は、王族方の得意とするところじゃなくて?」
また、サラの声だけが聞こえてくる。
「なぁんてね。アンタ、魔法士としての才能はそれほどじゃないでしょう。魔力が強ければ自力で魔法を跳ね除けることだってできるのに、暴れるだけで精一杯みたいだし」
揶揄を含んだその言葉に、ディランはぎりぎりと歯ぎしりしながら、必死に蔓を振りほどこうとしている。しかし、蔓が全身を覆っていく勢いのほうが明らかに勝っていた。緑のうねりは徐々にディランの首回りにまで巻きついていく。
「本当はここまでするつもりは無かったのけど――アンタはやりすぎたわ。今すぐ泥を退かせなければ、その首を締め上げる」
少女の声が、首筋にナイフをあてるような鋭い低音に変わった。
サラの宣言は本気だ。ここで従わなければ命の保証はないと告げている。
しばらくの間、ディランは忌々しげに唸っていたが、蔓の締めつけがより一層強くなったことで観念したのか、その両手をだらりと下げた。
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