24.鳴動②

「ヤナギくん!?」

 身体を支えようと慌てて近づいたリファを、ヤナギが片手で制止する。

「さわら、ないで……これは……ぐっ」

 ヤナギは顔を歪めると、ひどく苦しげに胸元を押さえた。呻き声を上げると同時に、上体がさらに傾いでいく。


 呼吸を荒げて肩を浅く上下させる姿は、まるで何かの発作でも起こしたかのようだった。大粒の汗がヤナギの頬を伝っていく。これほどまでに苦しみ悶えるヤナギを目にするのは初めてだ。

 リファはヤナギに言われたとおり、ギリギリ触れない距離に寄り添った。


「あなたたち……彼にいったい何をした!」


 ディランと、その側に戻ってきたルルシュカをギッと睨みつける。

 リファの低く剣呑な声にルルシュカはすくみ上がり、気まずそうに顔を背けた。反対にディランは目に愉悦を浮かべてリファとヤナギを見下ろす。


「分かりやすい結果が出たな。そう、それが証拠だ。カーディナル」


 うっそりと舐るような声。リファは酷い嫌悪感に顔をしかめた。

「これのどこが証拠だっていうの!」

「……だ、そうだ。説明してやりなさい、ルルシュカ」

 ディランがルルシュカに促す。手を下した張本人は、ヤナギの様子が見るに堪えないといったふうに目を逸らしたまま、ぼそぼそと口を開く。


「……あれは、魔法を行使した〈契約痕〉から精霊を介して……その魔法を使った本人に〈契約破り〉と同じ効果を与える魔術なんです」


 ルルシュカの説明に、リファは大きく目を見開いた。

「まさか、そんな……」

「理解できましたかな? 姫」

 いやらしい笑みを滲ませて、ディランがリファとヤナギに近づく。


「ルルシュカはあの詰所に残っていた魔法の痕跡――〈契約痕けいやくこん〉から、魔術を発動した。そして、その影響がカーディナルに現れた」


 抜き身の大剣を、ゆらりとヤナギに差し向ける。


「つまり、関所にいた人間を殺したのは、今そこで苦しんでいるカーディナル自身ということだ。少なくとも、ここで貴様らを捕らえるには十分な事実だと思わないか?」


 眼前に迫る剣先と、勝ち誇ったようなディランの顔。リファは全身の筋肉が引き攣れるほどに強ばるのを感じた。

 恐怖のためではない。先刻、カルミアへの恨みがあるのではないかと告げられて、思考が一瞬焼き切れたように感じたときと同じ。

 ごう、と己の中で風の吹き荒ぶ音がする。春先に森の木々を大きくしならせる嵐のような、低く、激しく、身体の奥底まで揺さぶるような音。

 言い表しようのない激情が、リファの思考と感覚を引き絞る。


(どうすればいい。今、私はどう動いたらいい?)


「抵抗はなしか。まあ、現実を突きつけられて呆然とするのも無理はない。……ああ、そうだ。ひとつ、言っておかねばならないことがある」


 ディランは口の端を吊り上げると、手にしていた大剣をヤナギの頭上に掲げた。


「我らが捕らえよと命じられたのは姫のみ。――共謀者は切り捨てよ、とのことだ」

 

 瞬間、リファの中で張り詰めていた糸が断ち切れた。


 凶刃が振り下ろされようとした、その一瞬。

 リファは身を起こして強く地面を蹴った。

 剣を持つディランの腕を、下から潜り込むようにして押しのける。そして踏み込んだ勢いのままに、目の前の鎧に覆われた身体めがけ肩の後ろでぶつかった。放たれた矢のように、渾身の力で体当たりを食らわせたのだ。


「なっ……!?」

 不意を突かれたディランは、咄嗟に反応できず体勢を崩した。


 ディランのリファに対する認識は、王宮にいた頃の印象で留まっていた。

 魔法を使えず、女王の娘でありながら、王族の中でもとりわけ無力な存在。森に放置され、ただ孤独に生きてきただけの頼りない姫君にすぎない、と。


 しかしリファは、森暮らしをする中で、しばしば野生の獣に追われ時には追いかけ、畑を耕し、木に登って実を採ることで強かに生き延びてきた。

 王宮暮らしを続けていれば頼りないままだっただろう四肢は、苦労相応の無駄のない筋肉がついている。


 リファができる限り自力で暮らしていけるよう、様々な助言をし、支えていたのがサラとヤナギだった。王宮で何もかも他人任せだったリファの生活は、そうやって大きく塗り替えられていたのだ。


 想像よりも遥かに強い力で体当たりされ、油断していたディランはたたらを踏む。単純な動きだが、剣の軌道を大きく逸らすには十分だった。

 それでも、緊張状態から無理に動かした身体は軋むように痛んだ。相手は大の男、しかも丈夫な鎧を身につけている。押しのけるだけで精一杯で、リファは前のめりに転んだ。


「この小娘が……っ!」

 ほんの数歩とはいえ後退させられたことに腹を立てたのか、ディランは声を荒げた。

「おまえたち、何をしている! 早く此奴を取り押さえろ!」


 騎士たちはリファの行動を見て呆気にとられていたが、ディランが檄を飛ばすと、ようやく思い出したように動きだした。

 リファは悲鳴を上げる四肢を叱咤し、ヤナギを守ろうと身を起こしたが、騎士二人に肩と腕を強く押さえつけられる。

「う、ぐ……っ!」

 腕をおかしな方向に引っ張られる苦痛に呻きを漏らす。長い髪が巻き込まれて、頭皮を刺すような痛みが走った。


 すると突然、リファを取り押さえていた騎士が「がっ」と短く呻き声を上げた。その直後、騎士は二人とも地面に崩れ落ち、リファの身体が自由になる。

 何事かと見上げれば、いつの間にかヤナギが手刀を構えて立っていた。


「ヤナギくん!」

「さっきの一撃はなかなかだったよ、リファちゃん。いい時間稼ぎになった」


 ヤナギはそう言って、場の空気にそぐわぬ爽やかな笑顔を向けた。

 ぽかんとしているリファをよそに、遅れて襲いかかってきた他の騎士たちの剣を躱し、腕を後ろに振り抜いて籠手で顔面を打つ。つい先ほどまで冷や汗を流して苦しんでいたとは思えないほど、軽やかな身のこなしだった。


 騎士たちは次々と地に伏していき、最後のひとりも側頭部を強打され昏倒する。


「カーディナル! 貴様、なぜ動ける!?」

 部下を倒されたディランは驚愕の表情で叫ぶ。ヤナギは酷使した両手をひらひらと振った。


「最初は少しきつかったけど、実際はそれほど苦しくなかったよ。どうやら手加減してもらったみたいだ」


 ヤナギがけろりとして告げると、ディランは後方で立ち尽くしていたルルシュカのほうを振り向いた。よほどものすごい形相をしていたのか、ルルシュカは大仰にびくついて近くの兵士の背中に隠れる。

 なぜか彼女は本気を出していなかったらしい。


「じゃあ、さっきまですごく辛そうにしてたのは……?」

「あれはただのフリ。そのほうが向こうも勝手に調子づいてくれるだろう?」

 にこりと笑って悪びれなく言ってのけるヤナギに、助けられたリファのほうが唖然とした。そうだ。彼にはこういう抜け目のなさもあるのだった。


「くそっ、舐めた真似をしおって……! 総員、即刻此奴らを捕らえよ! 抵抗すれば殺して構わん!」

 ディランは眦を吊り上げ、周囲にいる兵士たちにも命じる。あまりの剣幕に、戸惑いながら控えていた兵士らは剣を引き抜き、リファたちに襲いかかった。戦闘力のないリファよりもヤナギを危険視したのか、こぞってヤナギに向かっていく。


 リファは自分が座り込んだままだったことに気づき、慌てて立ち上がりディランから距離を取った。

 ディランはヤナギの相手を兵士たちに任せ、剣を構えたままリファへと狙いを定める。


「先ほどは不覚を取ったが、次はそうはいかんぞ、小娘」

 煮えたぎるような憤怒を露わに詰め寄ってくる。


 さすがのヤナギも初手の有利が効かない兵士たち相手には戦いにくいのか、「リファちゃん、逃げて!」と叫ぶも、ディランを止める余裕まではない。


「ふん、所詮はだまし討ちしかできん卑怯者が」

 ディランはヤナギを一瞥し、鼻で笑う。

 森を背にしてじりじりと後退しながら、リファは目の前の男を睨みつけた。

「卑怯だなんて、あなたが言えたことじゃないでしょう」

「なんだ? たった一度、報いたからといって強気になっているようだが、もう貴様ひとりでは何もできまい」


 本性を隠す気が欠片もないのか、すっかり悪人の形相に成り果てたディランに、リファは嫌悪と恐怖を押し殺して対峙する。

 ヤナギの助けを得られない今、ディランがその手に握る大剣を振り下ろすだけで、リファはあっという間に切り伏せられてしまうだろう。

 先ほどの体当たりは、相手の油断と慢心の隙を突けたからこそ上手くいったのだ。同じ手は通用しない。背を向けて逃げたとしても、追いつかれてしまえば一巻の終わりだ。

 こめかみから冷たい汗が伝う。


 ――ふいに、甘い花の香りが鼻腔をくすぐった。


 眼前に迫ってくる男は、明らかな殺意をもってリファに剣を向ける。

「なに、ここで殺しはしない。四族会の命令に背くのは本意ではないからな。だが、多少痛い思いをするのは自業自得だと思え!」


 ディランが剣を振り上げる寸前、リファは己の直感に従って素早く身を屈めた。


 その直後、背後にある木の影から何かが飛び出して、リファの頭上すれすれを掠めていく。


「ぐわっ!」


 暗闇の中から突然現れたのは、金の髪を振り乱す少女だった。

 少女は軽業のような身のこなしで大剣の上に飛び乗ると、ディランの側頭部に回し蹴りを食らわせた。そして、ついでとばかりに顔面を蹴り上げる。流れるような連撃を食らった男は、泡を食ったように飛び退いた。


 少女は軽やかに着地する。一連の攻撃に見入っていたリファは、我に返って目を見開いた。


「サラ……!」

「遅くなって悪かったわね」


 サラはリファのほうを振り向き、見慣れた不敵な笑みを浮かべた。

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