第5話
ひとまず胃液だけが出た。午前中しか授業に出なかったせいでお昼はまだ食べてなかったし、どうせうちの母親は病院だろうから、これから満照の家に寄ってカップ麺でも食べようかって言ってたんだけど。なんかもう、コンビニに寄って食べ物選ぶ気が失せるなぁ。
もうひと頑張りして出せる限りのものを出したあと、僕はきちんと、汚れてもいない手を洗ってトイレを出た。駅のトイレの近くで僕を待っていてくれていた──はずの満照は、自分のと僕の鞄を持ったまま、例の女子と一緒にいたガラと頭の悪そうな女子に詰め寄られていた。
「ねぇねぇ、カラオケ一緒行かなーい?」
イマドキの男子高校生がカラオケくらいで乗ってくると思っているのかこのバカどもは、と思ったけれども、もちろん僕は口にはしない。ただ、何事もなかったかのようにてくてくと満照のもとに歩み寄り、「ありがとう」と言って鞄を受け取った。
例の女子は自分の友だちに何の情報も渡していないのか、仮に満照がカラオケに行ったとしても、絶対的に楽しめる相手ではないのがわかっていながら、イケメン男子高校生を誘う友だちを放置していた。ちょっとうんざりした顔をしているのは、友だちに対してなのか満照に対してなのか、はたまた僕に対してなのかな?
満照から鞄を受け取った僕を見て、彼女の友だち二人はあからさまに嫌な顔をした。イケメンをカラオケに誘ったら、もれなく〈こんな奴〉も付いてくるのか、というような理解をしたのだろう。まぁ、底辺のわりにはよく考えた方だね。
けれど残念ながら、僕と満照は親友だけれど、多分世の中のくくりで言う〈親友〉とはちょっと違うのかも知れない。いや単純に僕が薄情で、満照が面倒臭がりなだけなのかも知れないけれど。
つまりここで満照が自分の意志でカラオケに行くと言うなら行けばいいし、僕はもちろん誘われてもいないし行きたくもないので、駅でバイバイ、というのが僕たちの普通だ。満照の家でカップ麺を食べるという約束も、まぁ約束と呼ぶほど特別なものではなかったし、どうしてもそうしなければならない理由だってない。
だからこの二人の女子が頑張って満照を動かせるのなら、別に他に何も高いハードルはないんだよ。面倒だから教えないけどね。
満照は明らかに「めんどくせぇ」という顔をしてるんだけど、僕が登場しても二人はひるまなかったので、〈こんな奴〉を混ぜ込んででもイケメンとカラオケに行きたいのだろう。多分目的は歌を歌うことではないんだろうけど。
とりあえず、満照と一緒に帰るかここで別れるかの結果が出るまでは、僕もここで待機する。すると、例の女子が僕に近付いてきた。うわぁ、嫌だな、気持ち悪い。
さっき出せる分だけ出したおかげで、吐き気は落ち着いたけど、そのせいで喉が渇いたので、本当ならそこの自販機で飲み物を買いたかった。でも、飲んだら多分また出ると思うし、この女子が消えてくれないと、僕はしばらく飲み食いができない。早くどっか行ってくれないかなぁ。
「あんたさ」
いきなり声を掛けられたので、僕の後ろに誰かいるのかと思って振り返っちゃったよ。でももちろん誰もいないし、彼女は「はぁ?」って顔をしているので、相変わらず僕は嫌われているんだろう。頭がオカシイと思われるのは構わないけれど、それなら話し掛けないで欲しい。
「なんでまだあいつとつるんでんの?」
なんかしゃべり方が高校生になったなぁ……なんてしみじみ思うような間柄でもないし、普段無口な僕にはあまり持ち語彙もなかったので、昔の満照から言葉を借りた。
「え? 親友だから」
するとやっぱり彼女は大袈裟にため息をついて、友だち二人の方に歩いていった。何と言ったのかは聞こえなかったけど、多分もういんじゃね? 的なことを言ったんだろう。二人はしぶしぶ満照を諦めたように離れていった。あの中では彼女が一番立場が上らしい。相変わらずリーダー格は健在なんだな。
「あー、さんきゅーな」
「いや別に何もしてないよ」
思わず満照に感謝されてしまい、いわれのない謝礼の言葉を受け取るのも気が引けたので、僕は言い訳のように返してしまった。まぁ、間接的には僕があの女子を呆れさせたおかげで、満照が解放されたのかも知れないけど、それはハッキリしないし。
「少しはマシになったか?」
その上僕の体調まで気に掛けてくれる満照。
「少しは、ね」
僕は女子たちが視界から消えるのを待って、ようやく自販機でお茶を買えた。さすがに炭酸飲料は胃を刺激しそうだったのでやめておいた。あと、フルーツ系は吐く時に酸っぱさが増すので遠慮した。またいつ何時(なんどき)吐き気に襲われるとも知れないし。
「で? 誰だったんだ?」
僕がペットボトルの蓋を締めるのを確認してから、満照は珍しくそんなことを訊いてきた。訊きながらも、想像はついてるんだろうけど。
「名前は知らないけど、あの知ってる子」
「やっぱりか」
「知ってるの?」
「まぁな」
へぇ。満照が例の女子のことを覚えてるだけじゃなくて、それと知り合いだったのか。まぁ、僕も知り合いと言えば知り合いなんだけどね。昔は一緒に遊んでたような仲だし、家も近いわけだし。それでも名前は思い出せない。ということは多分、最初から覚えていなかったんだろうな。
「仲いいんだ?」
なんとなく口を突いて出てしまったんだけど、満照はぎょっとした顔で僕を見た。
「まさかだろ」
少し安心した。なんだかあの女子の方はいまだに満照に執着があるような気がしたからだ。実は付き合ってる……とか言われたら、妹の入院よりショックだったかも。妹には悪いけど。でも満照に絶賛片思い中の妹が、灯理さん以外に満照を取られるのをよしとするはずもないだろうし、妹的にも重要な問題に違いない。だからここは僕が代わりに警戒しておくことにしよう。
「じゃ、なんでやっぱりなの?」
「夏休みにさ、お前の妹ちゃんが入院してる病院に入っていくのを見たんだよ。誰かの見舞いか何かだと思ってたんだけど、さっきのお前の様子を見たら、あいつが病気って考えるのが自然だろ」
ああそうか。学校の成績では僕の方が若干上でも、こういう時には本当に学力ってアテにならないよね。だから学歴社会とか無意味だと、僕は前々から思ってるんだけどさ。
「夏休みって、じゃあもう一ヶ月近く経っちゃってたりするわけ?」
見知った他人なだけに、さすがの僕も少し心配にはなった。あくまで少しで申し訳ないんだけど。
「多分二週間は経ってると思う」
「うっわ」
ますます気持ち悪くなってきた。まだ吐き気はしないけど、お茶にしておいて正解だった。でもこれは本当にコンビニは遠慮しなくちゃいけないかも。
僕の体調を気遣ってか、満照はさっきまで女子たちが腰掛けておしゃべりしていた石垣に僕を座らせ、自分は立っていた。ただでさえ大きな身長差が、こうしているとなお強調されるし、今にも一昔前に流行った〈壁ドン〉ってやつを経験するんじゃないかと思ったよ。もちろん、何もなかったけどさ。
「お前が気持ち悪くなったのは、あいつの死期が近いからとかか?」
「いや、そいういうわけじゃないと思う」
そんな便利で立派で迷惑な性能はない。単純に、やっぱり知り合いが死ぬということに心がついていかないというだけで。その辺はまだ、僕も人間らしさを保っているんだなぁと思ってびっくりしたり安心したりだね。
「やっぱりね、好き嫌いに関わらず、知ってる人が死ぬのがわかるのは、ね」
「……だろうな」
この変な能力に気付いた時は、毎朝起きて両親と妹の顔を見ることさえ怖かった。学校に行く時に満照に会うのも怖かったし、教室に入るのも先生と合わせるのも怖かった。だってまだ、子供だったしね。今ほどひねくれてもいなかったし、死にたがりもさほど酷くはなかった気もする。
幸いにして、当時はまだ幼かったせいか、身近に死を感じる相手はいなかった。今でも、一応僕の周囲の身近で狭い交友関係の範囲内にそれらしい人はいない。親も妹も親友もその親姉弟も大丈夫だ。あくまで病死に関してだけれど、それでも〈もうすぐ〉死んでしまうことがわかってしまうよりはずっといい。不慮の事故だって、それはそれで辛いんだとは思うけど。
「まだ吐きそうか?」
「多分大丈夫……でもしばらくは何も食べられないかも」
「そうか」
満照は普通に空腹だろうに、僕に合わせてコンビニには寄らずに帰宅することになった。
僕もいつまでも石垣に座っているわけにもいかないし、まぁ自分の部屋で一人になりたいという気持ちもあった。その反面、満照とも離れがたくて、何も話さなくてもいいから一緒にいてほしい、なんていう女々しい気持ちも少しあったりもして。
結局、どうするかは満照に委ねることにして、僕はひとまず立ち上がってお互いの家のある方へと満照と並んで歩き出した。相変わらず僕たちは何も話さない。
あ、そうだ。一つだけ聞いておこう。
「あのさ、さっきの女子の名前、知ってる?」
「ああ、瑞慶覧霧江(ずけいらんきりえ)か?」
「ズケイランキリエ?」
初めて聞いた。さすがに初めから覚えていない名前を思い出せるわけもなかったけど、一応知り合いのようなものではあるんだし、そんなファンタスティックな名前なら、一度でも聞いていれば、いくら僕でも忘れないと思うんだけどな。むしろまだ、神宮寺巫女だとか綾小路姫乃だとか言ってくれた方が現実味がある気さえする。
けど、それでもやっぱり全然思い出せないから、知らない名前なんだろうな、と思っていたら、満照が補完してくれた。
「ああごめん、それ、今の名字な。昔は島津だったんだけど、親が離婚したらしい」
「そうなんだ? またえらく珍しい名字になったもんだね」
じゃあ僕が知ってるとしたら島津霧江か。なんだか聞いたことくらいはあるような気分になってきたぞ。さっきのインパクトに比べたら、何だって一度は聞いたことがある気にもなるかもだけど。
「まぁ、その離婚が原因で金がないらしいから、病気の治療も満足にできないのかも知れないな」
「よく知ってるね」
「俺のかーちゃんのおしゃべり好きはお前も知ってるだろ?」
確かに、満照のお母さんは知り合いだからいいけど、その諜報能力はものすごく高くて、多分敵に回すと怖そうだ。ご近所におけるだいたいのことは満照のお母さん経由で僕の母親に伝わり、夕飯時の話題になるくらいだし。
まぁその代わりに、今頃僕の妹の入院程度の話は、取るに足りない話題としてでも一応押さえられてはいるんだろう。それが万一重病だったり、死んでしまったりした時には、満照のお母さんが第一情報源になるんだろうな。死ぬ前の第一発見者は多分僕なんだけど。
「名前なんか聞いてどうしたんだ?」
「うん? いや、なんか名前すら知らないのも薄情かなって思って」
「そうか」
珍しく僕が他人に興味を示したことに驚いたんだろう。けれど、いたって普通の理由だったせいか、満照はすぐに納得した。
そりゃ正直言えば僕だって、名前も知らないで死んでくれた方が思い出に残らなくていいとは思うよ。だけど、中途半端に知っている相手なだけに、そのままの方があとあと気持ち悪くて我慢ならなくなりそうだったから聞いていおいただけ。聞いておけば忘れられるけど、聞かなかったらかえって無理にでも思い出そうとしちゃうじゃない?
ズケイランキリエ、なんて、今一度聞かされちゃったらなかなか忘れられそうにないけどね。
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