妄言サウナ-mougen sauna-

第1話 汗流しカットマン

「あの野郎、また流さねえで入りやがった」

いきり立ったボス猿が立ち上がってそう言った。

小柄で小太り、茶褐色に焼けた身体に、金のネックレス。常連と会えば「よっ」と、まるで親分のような挨拶を交わすどこかヤクザ風情。顔立ちも原始人のようだったから、僕は勝手に“ボス猿”と呼んでいた。言うなればこの銭湯の主（ぬし）。

この銭湯は、地元に根差した小さな大衆浴場にして、僕のホームサウナ。大衆浴場といっても、1階にプールと体育館、2階にジムと銭湯がある温浴施設つきの運動施設だ。市民なら200円で温浴施設が利用できる破格さから、銭湯だけを利用しに訪れる人も多い。僕の行きつけサウナは3つあるが、ホームサウナは市営を選ぶが正解。

土曜の夕方はいつも見慣れた顔で、常連はみんな推定60代。引退組か、農業関係者か。ここで誰かと会話したことは一度もないから、実際のところは分からない。今後も話すつもりはない。

サウナ室はボス猿とその顔見知り、そして見慣れぬ男と僕の4人。見慣れぬ男が出ていくと、ボス猿は扉についている小窓から男の行方を目で追い、身体を流さず水風呂に入るその男を愚痴った。

「見てろ、見てろ。ほら、流さねえで入ったろ」

汗流しカットマン。

サウナでかいた汗を流さず、水風呂に入る不届き者のこと。

岩盤浴でかく汗は皮脂腺から出るもので、天然の保湿液となる。そのため、肌にうるおいをもたらせてくれるので、洗い流さないほうがいいといわれる。しかし、サウナでかく汗は、汗腺から出るベトベトしたもので、洗い流すのがマナーだ。

「最近はみんなルール守らなくなったよなあ。俺なんかこの間、サンダル盗まれちまったよ」

「俺もあった。ルールもなにもあったもんじゃないね」

おそらくそれは、盗まれたのではなく間違えて履かれていっただけではないかと思われる。あなた方のサンダルを盗もうという奇特な泥棒は、世界広しとはいえ探すのは難しい。そのサンダルを探すより難しい。

「まったくなあ…」

ボス猿らの愚痴が続き、お前もなにか参加してこい的気配を感じ取った僕は、足早にサウナ室を出た。

僕は誰かと顔見知りになりたくない。ここでは常に一人でいたい。

一度言葉を交わしてしまうと、そこに関係性が生まれる。関係性が生まれると、挨拶をしなければならなくなってしまう。そうして小さな社会が生まれていく。

ここは、僕が日常と断絶できる唯一の場所。誰とも仲良くなるつもりはない。

かといって、汗流しカットマンのような、ルールを守らぬ不届き者と僕は違う。僕の銭湯マナーは、いつだって一番なのだ。

入ったらまずかけ湯で予洗いを入念に行い、洗い場で全身を清め終えたら周辺に泡を残さぬよう、シャワーで丁寧に洗い流す。自分の身体さえ清めればいいと考えている者は素人。自分が使う場所もキレイにして次の者に明け渡すのがプロだ。最後に桶を裏返して、椅子にかかるよう置けば開店状態の出来上がり。

シャンプーやボディーソープを置くトレイに穴がないものを採用しているところは、ボトルを取ってトレイから水を出してやる工程も必要になる。とにかく使用後は、泡を残さず、水を溜めず。次に使う人がいかに気持ちよく使ってもらえるかを考える。

忘れ物をしていくのは打首ものだ。汚く散乱した状態なら、僕が整頓して使えばいいだけの話だが、髭剃りがポツン一つ置かれているだけで、その洗い場を使うことはできなくなる。持ち主が取りに戻ってくるかもしれないし、そのとき洗髪中かもしれないし、あるいは今たまたまこの場を離れているだけなのかもしれない。

たった一つの髭剃りが、無言の圧力と化し、洗い場を一つ潰す。忘れ物をしていく者は、洗い場を一つ破壊する実に罪深い行為なのだ。

誰かが使った形跡を残さぬよう過ごすのが僕のモットーであり、そして、このモットーを人に押し付けないことも大事だ。汚く使われた洗い場を見つけたときは、誰も見ていないところ（、、、、、、、、、、）で片付ける。

好印象も悪印象も与えてはならない。とにかく自分の存在を消す。空気と化してこの銭湯の秩序維持に水面下で暗躍するのがプロ。

ボス猿と顔見知りになる危機を回避するようにサウナ室を出た僕は、かけ湯で汗を流す。ボス猿が見ているに違いなかったが、かといって僕のやることに変わりはない。

サウナ室から出たものは皆水風呂に入るが、僕はやらない。だから水を浴びない。昨今、ととのうブームでサウナ人気が高まっているが、僕には関係のないこと。あれはきっと心臓に悪い。

誰もいないときに、こっそり水風呂に手を入れてみたことがあるが、尋常じゃない冷たさだった。年を取り、身体の知覚機能が衰えたおっさんが入るものだ。好きな人がやればいい。干渉しない。干渉もされない。

ただ、みんながみんなサウナや水風呂をやるわけではないのだから、水風呂の水を桶ですくって汗を流すとき、僕ならもう少し配慮する。跳ねた水がかかれば誰だって冷たいし、不快だ。

もちろん、その程度で怒る僕ではないが、僕なら配慮する、という話。

そんな、銭湯にとって全くの人畜無害、ミスターパーフェクトとも言える僕にも、唯一の欠点がある。

それは、洗い場で清め中、シャワーを後ろの人にかけてしまうという致命的なミスを起こすこと。

一人の世界に没頭しすぎて、脳内が妄言でいっぱいになると、後ろの人への配慮を忘れてしまうことがある。

完璧すぎる人間は可愛気がない。これくらい人間味ある方が、人としては魅力的だろう。

それに、これは自覚症状があるということ。改善の見込みはある。問題ない。

汗流しカットマン対策は、店が注意書きを貼るべきだ。それがないから、ととのうブームに乗じた素人が、水風呂に直行し常連が不快感を示し、そのコミュニティに入れられそうになる今日のようなことが起きる。

サウナは、混雑時より空いているときの方が危険だ。“顔見知りグループと僕”という嫌な構図になるからだ。

“大学生グループと僕”ということがあった。

彼らは三人で、クスクスとやや声量を抑えながら、なにやら話している。僕がいなければ、この子たちも気兼ねなく通常のトーンで話せるのだろうが、サウナ室は無言がマナーだ。しかし、社会に出たこともないこの若者たちに、サウナリテラシーなどあるわけもなく。

平日の岩盤浴の恐怖は、これが、カップルだったりすることがあるからだ。若いカップルと僕。これでリーチ。そのカップルがイチャつき始めると、ロン。僕はその部屋を後にする他なくなる。

そういうときは、ボス猿のような存在がいてくれるといい。「兄ちゃんたち、ちょっとうるせえぞ」と一喝してほしい。当然その若者たちは、なんだよあのじじい、とブツクサ言いながら退散し、「この岩盤浴、変なおっさんがいるから二度と行かない！」とネットに投稿し低評価ボタンを押すだろうが、それでいい。若者カップルが来なくなるなら、それでいい。

岩盤浴もサウナも、適度に人がいる方が秩序が保たれやすい。人が少ない場合は、カップルやグループが優勢になるため、やはり秩序維持には店側が注意書きを貼るしかない。正義は、店が掲げるルールにある。注意書きだらけになる銭湯も風情がないが、致し方ない。これも世の流れか。

「兄ちゃん、シャワー。こっちまで飛んでくる」

ボス猿の顔見知りが、苦笑いを浮かべながら僕に声をかけてきた。

「あぁっ…！ すいませんっ…！」

洗髪中だった僕は頭を流しながら薄目を開け、精一杯の笑顔を作ってそう答えた。

またやってしまった。

汗流しカットマン対策を考えていたら、我を忘れてしまった。全部あのオヤジのせいだ。これだから素人は嫌なんだ。