まるで不定形で無色透明な
狐木花ナイリ
ゼロ章★
アガタ大森林
巨大なカタツムリを追いかけている。巨体から飛び散る粘液が、顔を覆ってきて、窒息しそうになる。しかし、それでも走り続ける。
カタツムリと大地の接地面に、藻のようなナニカが何百本も見えた。
それは総て、人間の足だった。
「待て!カタツムリ!」
私はソレを、カタツムリと評した。
■
腰に鈍痛が走って。
「いつまで乗ってんですか?」
ガタイの良い笑顔の運転手に、バスから投げ捨てられた。胡散臭い、細い目をした男だ。
ヴヴーッ。ガガガ。
バスはどこかに行ってしまった。
見覚えの無い土地に捨てられた。歩道橋から、バスの前に飛び降りたところまでは覚えている。
やっと行動出来たと思えば、自殺だなんて。
間違った行動力に笑えてくる。
──はは。
──いじめられていたとか、人に自慢できる程の辛い事があったわけじゃないが。
愚痴ってから。
呆然として。空を見上げる。群青空と、それを邪魔するように空を隠す、千枝に分かれた枝葉を。
枝の先端は総てが、空の青の中心を指差しているようで。そこに吸い込まれる幻覚に陥った。
「……はぁ」
ため息をつく。
──幸せが逃げる。
後頭部が疼いた。
うるさい。
腕に力を込め、手の平を冷たい土から離して立ち上がり、土を払い除けながら気付いた。
「あ」
スマホが無い。
ブレザーのポケットの中には、小銭が虚しい音を奏でるだけ。
──今の時代、スマホがあれば何とかなるが、逆に言えば、スマホが無ければ何も出来ない。
バスに置いてきたのかもしれない。
あの運転手の顔を殴りたくなった。理不尽ではない筈だ。
運転手の代わりとして、睨みつけたバス停には「アガタ」という消えかけの明朝体。意味の知らないカタカナだ。しかし耳には馴染む言葉。
スマホで調べる事は出来ない。
時刻表は見当たらなかった。
■
森林を割くように敷かれた、コンクリートの道を歩く。中心に引かれた白線を落ちないように歩いている。歩いている内は、幼稚な遊びだと自覚していなかった。
奥の方から、白い服を着た子供が歩いてくる。
──俺も、未だ子供だけれど。
なんとなく、雰囲気からして中学生くらいの歳。年下なのは確かだろう。大きなギターを背負っていた。
白線を踏み歩いている彼女を見て、自分が幼稚に見えて白線から無言で降りた。
「I♡NY」の文字がプリントされたパーカー。その服は膝の辺りまで少女を覆っていて、その下には淡白い肌が見えた。用途の違えたガーターリングは足を切断しているように見えなくも無い。
歩きスマホガールは、すれ違いざまに挨拶をしてくる。
「こんにちは」
「……」
会釈を返した。
そのまますれ違った。
発声するべきだったとすぐに後悔した。
こんにちはと返せていれば。
例えば。
この森がどこなのか聞けたのでは無いか。
例えば。
スマホを貸りる事などできたのではないか。
そして、今居る場所について調べられたのではないか。
振り返ったが、少女の姿は見えなかった。
なんとなく、このまま真っ直ぐ進んでも、人に会えないような気がして。少女の向かった方向を走った。
■
泣きそうになりながら、浅い息を吐いて樹木に囲まれた道路を歩く。土と雨水の混じった空気が、自然と鼻に入ってくる。
人が見えた。それは先程の少女ではなかった。
黒いスーツを着た、いかにもなビジネスマン。
重そうな荷物を背負っていた。その荷物は軍用機の前先端部分のようにも、蝸牛の殻のようにも見える。
首が下を向いていて暗い印象を受けた。
この森の人間は何か背負っていないといけないのか。
先刻、すれ違った少女もギターを背負っていた。
「こんにちは」
その蝸牛男に挨拶をする。
折れ曲がっていた蝸牛男の首がこちらを向く。テレビで見たラガーマンのように、健康そうな笑顔だった。
「こんにちは」
しかし、声はとても小さくそしてしゃがれていた。長年、生命の誕生に立ち会ってきた産婆の声に近い。
──産婆というものを俺は見た事が無い。
「すみません、道に迷ってしまって。スマホを持っていませんか?」
「へぇ、すまない」
「持っていませんか?」
「ああ、そうだ。持っていない。とっくの前から」
この蝸牛男に対して、ビジネスマンらしい「です、ます」口調を期待していた。よく考えれば、ビジネスマンは奇怪な荷物を背負っていない。
──勝手に決めつけたお前が馬鹿だ。
「道に迷ったっていうのはどうした?この道は一本道だろう」
「えっと、バスに捨てられて」
あの運転手の顔を思い出す。
「あぁ、なるほど」山本は合点がいったようで。「ここは長野と島根の県境だ」と宣った。
「えっと?長野?島根?」
何かの言い間違えだと思った。指摘するように問い質したが。
「長野、島根、の県境」
蝸牛男は洗脳するように、僕の声に音を重ねた。
「……っ僕は!京都にいたはずなんですが」
それを拒んで、語気を強めて言い返す。
──京都で自殺した。
長野と島根が地続きぃ。そんなの可笑しい。馬鹿みたい。
心の中で蝸牛男を蔑んでいる間に。
蝸牛男は、何かを理解したように手を打って。「着いてきてくれ。お前をキョウトに帰してくれるヤツを知っている」
その笑顔は嘲笑っているように見えた。
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