第35話(彩子の決意)
翔平の四十九日の法要にあたる日、また数人の友人たちが集まった。宗教には一切関心がなかった翔平だったが、みんな合わせるように黒い服を着てきた。逗子の家の敷地内にある墓所は、庭師の嶋田さんにいつも綺麗に手入れされていた。墓石の表には「愛」と掘られている。裏には、翔平のお母さんだけだった名前が、翔平の名前も彫られた。墓石の下は、まるでツームのように小さな階段があり、骨壺ではなくて装飾を施された箱があった。翔平の父は、翔平の骨壺の他に、洒落た箱にトランペットのレリーフが着けられたものを持っていた。父が特注で作らせたようだ。きっと翔平の母の箱も特注だとわかる。装飾にはバラと忘れな草が象られていると嶋田さんが言っていた。 翔平の父は立ち上がり、みんなの顔を見ながら話し始めた。
「今日はお忙しい中、翔平の納骨においでくださいまして、心から御礼を申し上げます。墓の中には彼が生前に愛用していたトランペットと、その隣の箱にはマウスピースや好きだった香水など、細々したものがはいっています。そして、遺灰はこの場所から海に散骨・散布いたします。彼の母親も、同じように弔いました。きっと再会を喜んでくれると思います。」
そう言ってから骨壺を開け、墓石の背後に周り、転落防止柵まで進むと、一気に灰になった翔平を開放した。
「行かないで!」
彩子は思わず絶叫し、号泣した。それには全員が驚いた。今までの我慢が一気に溢れ出てしまったようだ。 立ち尽くしていた翔平の父は、彩子に駆け寄った。
「彩子さん、翔平はいつでもここに遊びに来ますよ。彼の母がそうだったように。だから、今は行かせて上げてください。」
彩子は目を見開いたまま無言だった。察した賢三が近寄ってきた。
「大谷さん、あと、嶋田さんご夫妻も一緒にお話したいことがあります。お時間大丈夫ですか?」
「はい、今日は夕方まで時間を取ってあります。お話を伺います。家の中に入りましょう。さぁ、彩子さん、行きましょう。嶋田さん、軽食と飲み物をお出ししてください。」
翔平の父は、そう言うと、家の中に彩子を連れ、すぐに部下を呼びつけて、スケジュールの変更を話しているようだった。
「彩子、いいよな、俺から説明して。。。」
「うん。お願いする。私一人じゃちょっと説明もできないかも知れない。」
賢三はみんなと献杯の後に、淡々と話を始めた。
「・・・翔平は、俺の大切なセッションパートナーでした。アイツのトランペットがあってこそ、出せるサックスの音色がありました。それに関してはあの天才と組めたことが幸運だと思っています。しかし、こと女性関係ではクズな男だったと言われます。あの容姿ですから、砂糖に群がる蟻の如くに女性が集まり、来るもの拒まずの関係を続けていました。そういう女性たちの顔も名前も覚えようとせず、たくさんの女性を傷つけたとは思うのですが、彼は常に前置きとして愛情がないことを話し、約束できた女性だけと関係していましたが、後腐れがないようになってました。執拗に翔平から迫ったのは、俺の女房だけでした。それはもう、しつこくて、俺がどれだけ激昂しても、平気だったんです。それが、俺のサックスを燃え上がらせたのもありました。俺は、翔平に上手いこと乗せられたのだろうと思うのですがね。。。ただ、彼の夢は実現することはありませんでした。杏子は俺しか愛していないことを重々に分かっていたようです。
そんな翔平ですが、たった一人、自分から関係を持とうと誘った女性がいます。彩子です。彼の性格のこと、音楽への底なしの情熱を完全に理解して、その上で翔平の人格を認め、決して無理に付き合おうとはせずに恋心をいだいていた彼女を、アイツがどう思っていたかは、残念ながらわかりません。翔平も彩子の気持ちは分かっていたと思います。普通なら、それだけで拒否するようになるのに、彼は彩子を拒みませんでした。かといって、体だけを欲しがる相手になってやるとしては扱わなかったようです。翔平も彩子を欲していたということです。彼のトランペットをもり立てるピアノ奏者としても尊敬していたはずです。
翔平は急逝しました、彼自身も予測できなかった事故のようでした。もちろん生き急いでいるのか?と疑った時期もありましたが、杏子とその仲間、そして俺も協力してアイツをすくい上げてみました。ひねくれた性格は、彼が抗うことができなかった運命からのトラウマでした。そのことはお父さんもよくご存知かと思います。ただ、彼はお母さんを愛し、大切にしていました。だから、お母さんが愛した貴方を、憎んではいなかったと思います。
前置きが長くなりましたが、翔平は、彩子を大切に考え出していたんです。今、彩子のお腹には翔平の忘れ形見が宿ってます。大谷さん、貴方の孫になる子供たち。。。たちって。。。実は双子なんですよ。そこで提案なんですが、どうか、彩子をここに住まわせてあげてもらえないでしょうか? 嶋田さんご夫妻と一緒に。。。いかがですか? 彩子にも実家がありますが、彼女の妊娠を受け入れないでしょう。」
翔平の父は唖然としていた。嶋田さん夫婦は、何が起きているのかわからない様子だった。
「林さん、教えてくださってありがとうございます。 国井さん、翔平の子どもは、貴方が本当に望んだのですか? もしも貴方が望んだうえでの妊娠なら、私は祖父として、こんなに嬉しいことはありません。昔を思い出しましたよ。翔平の母親は、望んで妊娠しました。私と結婚することはできないと分かっているのに、私の子どもと生きていきたいということだったのです。私は嬉しかった。本妻として家に入れてあげられないことが悔しかった。27年を経て、ようやく私の望みがかなったような気がします。法律のことを調べます。死者を父親として認定できるかどうか? もしもできないようなら、貴女と子どもたちを私の養子にすることが可能かもしれません。そうすることで、この家と翔平の財産を貴女に贈与できると思うのです。顧問弁護士に調べさせます。どちらにしてもこの家は嶋田さん夫妻に使っていただこうということにしていました。変な負担をかけないために、私の名義に変えるつもりでしたので、心配はいりません。 嶋田さん、よろしいですか? 翔平の子どもを彩子さんと一緒に育ててもらえますか? 私も極力ここに寄ります。孫の顔を見にね。 とにかく、彩子さん、ありがとう。こんなに嬉しいのは、翔平が生まれたときのようです。」
嶋田さん夫妻は、ようやく我に返って、彩子のところに寄り添った。
「彩子さん、私達と一緒に暮らしてもらえますか? 翔平坊っちゃんの子どもを、孫のようにしてもよろしいですか?」
「なんと言葉にして良いのか。翔平の面影が残るこの家で、彼の沈む海を見て、彼が一番信頼してた御夫婦と暮らせるなんて、夢のようです。大谷さん、ありがとうございます。 そして、杏子さんと賢三。。。あなた達がいてくれなかったら、私は翔平の後を追うことになったかも知れない。感謝してます。ほんとうに、ありがとう。。。」
「良かったね、彩子。私と賢三が叶えられなかった子どもという夢、彩子が翔平と叶えてくれるなんて、私は嬉しい。」
「俺で良ければ出産に立ち会うぞ! 神秘的な生命の誕生をこの目で見たいと思ってたしな。翔平も、俺なら許してくれると思うから。」
「それはどうかな?? 彩子、遠慮しないで、断ってもいいからね!」
その場の雰囲気は一気に明るくなった。彩子を支えていこうというみんなの気持ちが彩子の不安を吹き飛ばした。あとは、翔平のいない寂しさと身重の重圧。そして、厳しい実家との決裂。。。前途多難だが、彩子は翔平に守られている気がしてならなかった。一口に『十月十日』とはいっても、実際は40週間なのだが、母親の大変さは妊娠期間だけではないこと、まして、労苦や幸せを分かち合える伴侶がいないとなると、苦痛とも言えるかも知れない。一時は自分の実家から精神的な援助ももらえないと諦めていたせいもあり、翔平の父の采配には感謝しきれない。嶋田さん夫妻は、翔平の祖父母にも思えるほど愛情がうかがえる御夫婦だ。きっと、翔平の母が全面的に信頼をおいていたと理解できた。彩子は自分の実家を切り捨てる覚悟ができている。早速、彩子は自分の戸籍を独立させてきた。それから週末に逗子に引っ越ししたいと賢三に打診した。大した荷物はないので、軽トラでも借りてくると言うと、賢三がすべて手配すると言ってくれた。賢三はゲンさんに軽トラを借り、みどり子とクリスが手伝ってくれることになった。逗子の家に行くと、翔平の父と嶋田さんが色々と片付けていてくれた。
「彩子さん、相談することがありまして、先に嶋田さんと打ち合わせしていました。貴女は、ベッドルームのバスタブを取っておきたいですか?」
「はい。使うかどうかはわかりませんが、翔平の好きだったものは取っておきたいです。ただ、子どもに安全なように手すりやベランダのフェンスは必要かと思います。」
「そうですね。ベランダのフェンスは翔平の好みを損ねないようにガラス張りにしましょう。子供が堕ちることはないようにしないと。階段などは、後から取れるものを設置して転落防止にしましょう。」
「何から何まで、申し訳ありません。」
「いいえ、好きでやっていることです。翔平の母がいたときは、同じように楽しんだものですよ。彼女は苦労をくろうと思わない人だった。。。彼女もきっと、貴女が翔平の赤ちゃんを生んでくださることを喜んでいますよ。さてと、工務店さんは、早く来ますから、楽しみにしていてください。それから、ピアノを含めた音楽室の楽器やその他、音楽に関わるものもすべて彩子さんの自由にしてください。あとは、赤ちゃんが生まれたときに色々と話し合いしましょう。悪いようにはしません。」
「ありがとうございます。あのぉ、、、子どもたちは大谷の姓を名乗らせたく思います。そのことなど、弁護士さんに相談しておいてください。」
「わかりました。貴女はきっとご実家との関連が気になるでしょうし、調べておきますね。なにか問題ができたときは私が前面に出ますから安心していてください。」
今となっては、翔平が彩子のことをどう考えていたかなど、誰もわからない。子供ができてもおかしくない?ということくらいは考えていただろうか? 彩子はすべてが自分の責任で妊娠したという。。。賢三も杏子も、同意の元だったと思いたい。翔平の大谷家と彩子の国井家は、同格ではないがどちらも裕福な家柄だ。大谷家のほうが数倍上だけど、翔平の父は、それを鼻にかける人ではなかった。かえって彩子の家の人達のほうが、家柄を出して優位に立ちたいと思う人達のようだ。だが、大谷家には敵わないだろう。不浄な娘を持ったと思え!という結論に達するだろう。揉めたくても時すでに遅し、彩子は戸籍上でも独立している。死後認知を届けるらしい。そのために、翔平の父は、翔平のDNAも用意できている。あくまでも彩子の実家と揉めた場合に鑑定し、大谷側の主張とする。
翔平がこの世を去って、はや半年となった。彩子のお腹は驚くほど大きい。大学に行くよりも杏子と賢三の家にいることが多い。
「彩子・・・お前に針刺したら、マッハスピードで遠くに飛んでいきそうだな。。。(笑) 寒くなってからはコートがあって、良かったな。」
「何よね、賢三。。。私のこと風船だと思ってるな?(笑)凄いんだよ、蹴るんだよ。。。井上先生は順調だった言ってくれる。もういつでも生まれて良いんだ。」
「なぁ、俺本当に出産に付き添ってもいいか?」
「いいよ。生命の誕生の神秘を味わわせてあげようじゃないか!」
「サンキュー! ビデオ撮るなら、やるぞ!」
「ビデオは良いよ。。。写真は撮って欲しいかも。」
「おまかせあれ! 両腕にしっかりと抱いてるところ、撮ってやるさ。ところで、ピアノ弾けてる?」
「無理。。。全然鍵盤に集中できないんだよ。。。お腹つかえちゃって、届かない。。。大体さ、立って自分のつま先見えないんだ。ヤバいよね。(笑)」
そういう馬鹿話を賢三としていると、気が紛れる。家では嶋田さん夫妻が本当に良くしてくれて、自分の両親にもしてもらった記憶がないほど、優しい家族。生まれれば本当の孫のように思ってくださるだろう。翔平のお父さんも、週に2回は立ち寄ってくれる。もしかすると、彩子自身を心から愛してくれなかった翔平の、せめてもの優しさの降臨なのかも知れない。
彩子の出産予定日まで、あと1週間となった。何をするにも難儀となって、逗子の家から出なかった。庭だけは歩いて回り、運動不足にならないように気をつけていたが、嶋田さん夫婦に甘やかされて、庭歩きだけで、掃除などの家事は一切やらなかった。自分だけで産もうとしていたことが、いかに無謀な考えだったかを思い知らされている。井上先生からは、マーカーペンで『トン』とペン先を着けただけのような出血でもすぐに病院に来るようにと重々に言われていた。 今日は賢三が来て、音楽室のオーディオ調整をしてくれている。翔平が残したオーディオルームは、誰もが羨むような機材と音響設備となっている。賢三の自宅も、かなり良いものを着けているので、調整は賢三が一番適任だと言える。翔平の生前から、賢三との音の好みが一致していたので、彩子は安心して任せている。
「ちょっと音楽かけていいか?」
「いいよ。毎日胎教しているんだけどね、賢三に選んでもらうのが良いかも知れない。」
賢三は軽快なチック・コリアを選んだ。彩子に少しでも早くピアノに復帰してほしい気持ちもあったからだ。翔平も好きだったし、『My One And Only Love』から『But Beautiful』に続く、ちょっと優しく感じるような、杏子との選曲だった。彩子は気持ちよさそうに目をつぶってソファで聴いていた。 飲み物を持ってこようと、『よっこいしょ!』と立ち上がったとき、うっかり膀胱を押してしまったのか、尿もれを起こした。。。少しなら、こういう事があっても良いように、パッドを使ってあったが、やけに大量に出てしまっている。。。
「ねぇ、賢三。。。嶋田さんの奥さんの方を呼んできてくれる? もしかすると破水したかも。。。」
「え?ほんとか? わかった、まずは座っていたほうが良いんじゃないか? すぐに呼んでくるから!」
賢三は慌てて嶋田さんを迎えに行き、数枚のバスタオルを持って猛烈な勢いで帰ってきた。彩子の回りは羊水で小さな水たまりができていた。
「彩子、どちらにしても病院に行くぞ。嶋田さんが入院バッグを持ってきて、玄関で待ってるって。旦那さんが運転していってくれる。俺も行くから安心してくれ!」
賢三は彩子を抱えて、車に連れて行った。音楽室はちらかしっぱなしだが、家に施錠だけして病院へと急いだ。彩子の陣痛は始まっていないが、状態によっては帝王切開もあり得ると、電話の向こう側の井上先生が心配そうだ。
病院につくと、看護師さんが車椅子を用意して待っていてくれた。まずは病室に行き、手術着に着替えて準備万端にすることにした。 産婦人科の通路のところで少し待つように言われた。彩子は陣痛が来てないせいか、不安そうだが平然として見える。そこに、手術衣 (スクラブ)を着た体格の良い男性が担架に乗せられて眼の前を通った。走って帰ってきた看護師に、あれはどうしたのかと聞くと、奥さんの出産に立ち会っていた旦那さんだという。。。あまりにも壮絶な出産シーンに失神してしまったらしい。。。看護師と彩子は賢三をじっと見つめた。。。賢三は思わず怯んでしまった。。。
「あ、俺は頑張るから。。。でもさ、失神したら、ごめんな!」
看護師も彩子も大笑いしてしまった。緊張を和ませる良い機会となった。賢三は杏子に電話した。
「もしもし、杏子? 俺だけど、彩子が破水したみたいで、今、嶋田さんたちと井上先生のところに来たんだ。いよいよだよ! 予定より1週間早いらしいけど、全然問題ないらしい。 俺は一応嶋田さんといっしょに付き添うことにするよ。何時に帰れるかわからないけど、土曜日で良かった。杏子は問題ない?」
「私は大丈夫よ。 彩子が上手に出産できると良いな。。。何か必要なものはある? 届けるけど。。。」
「今のところ大丈夫だと思う。まだ陣痛は始まってないんだってさ。彩子はちょっと困惑してたよ。嶋田さんの旦那さんも一緒だから、必要なものがあるときは彼に取りに行ってもらうから。しっかり生まれてから、こっち来てよ。赤ん坊の顔見ようぜ!」
「分かった。賢三は頑張って翔平の役目をしてあげてちょうだいね。」
「そうだな。しっかり翔平になっておくよ。しかし、アイツがいたら、どうするんだろうな? ボケーっとしてそうだよな。。。(爆笑)じゃ、生まれたら電話するから、待ってて。」
賢三は、病室に入った。彩子は問診を終えて、陣痛促進剤を使うことに承諾した。帝王切開せずに自然分娩できるだろうという井上先生の見解だった。しばらくすると陣痛が始まった。陣痛の合間に部屋の中を歩き出した彩子に、賢三はしっかりと付き添って歩き、陣痛が始まると、ハーフーハーフーという呼吸法を用いる彩子といっしょに呼吸し、抱きついてくる彩子をしっかりと受け止めてあげていた。助産婦さんが彩子の子宮口の開き具合を確かめる。それを繰り返し、ようやく10cm全開と診断され、井上先生が内線で呼ばれる。賢三は彩子と同じような手術衣 (スクラブ)と帽子にエプロンとマスクを渡されて、それを着用した。『なんとも情けない感じに見えるよな、これ。。。翔平だったら、断固拒否するだろうな。。。』 分娩台が中央に置かれた分娩室は、蛍光灯の青々した光とタイル張りの壁やステンレススチールの器具その他、なんとも言えない、若干冷えた雰囲気の部屋だった。 妻の杏子が妊娠したときには遭遇するチャンスがなかったこの部屋とこの器具類。分娩台とは、言葉にしがたいほどグロテスクである。賢三は杏子が最初、分娩台じゃなくてベッドで出産したいと希望したのを思い出した。欧米では、母親の希望が水中出産でも、腰掛け出産でも許可されるし、欧州などはイギリスも含めて出産は無料だ。井上先生を困らせようとは思っていなかったが、欧米では普通にベッドで出産するか、普通のベッドが、用途によって高くなり、部分的に外れて、医者が分娩台を介するのと同じ様になるという。まさに産む側ではなく、医者のためだけに考えられた器具と言える。井上先生はそれを知っていたようで、杏子に申し訳無さそうに言い訳していた。アメリアからの輸入となり、病院側だけではなく、医療品及び器具会社からも、すぐにはまだ無理だと言われたのだった。普通の分娩台は、足かせも掛けられてしまうので、まるで拷問台のようだと杏子は意見していた。
彩子はと言うと、検査のときも分娩台を経験していたが、杏子ほど拒否反応はなかったし、陣痛が始まって、お産になってから入った分娩室では、すでに諦めきっているのか、それどころではないと言いたげな様子だった。彩子は無痛分娩を希望しなかったが、観てる側からすると、とんでもない激痛に耐えているのだとわかる。
井上先生が、なにか看護師に話しかけた。
「彩子さん、ちょっとだけ切開しますね。きれいに治りますから心配しないでくださいね。」
どうやら子どもの頭を通過させるに当たって、出口が狭いので、広げるという手段らしい。彩子は井上先生が2箇所にメスを入れたのが分かった。
「はい!息んでください!」
彩子は顔を真赤にして息んだ。賢三は彩子の手をしっかりと握って、力を込めていた。
産声が上がる。力強くしっかりとした声だと思った。
「彩子さん、男の子の誕生ですよ。元気です! さ、もう一人、頑張りましょうね!」
「彩子!男の子だって! 頑張ったな!もう一人、頑張ってくれ!」
臍帯を切断して、一人目の子を助産婦が持ち上げて彩子と賢三に見せた。思ったよりも大きい。ホッとしたのもつかの間、二人目が出てくるようだ。彩子はもう一度精一杯息んだ。賢三はまた、彩子の手を握りしめた。
産声が上がった。なんと、二人目は女の子だった。それには井上先生も驚いていた。
「彩子さん、おめでとうございます。素晴らしいですね!男女の双子でしたよ。僕も結構な赤ちゃんたちを取り上げてますが、男女の双子は初めてです。超音波ではどうしてもこの子の股間が見えなかったから、同性だろうと思っていたんですけどね。いやいや、素晴らしい。 はい、じゃ、胎盤が出てきますから、もう一度息んでもらいます。」
「先生、ありがとうございます。臍帯血、しっかり役立ててくださいね。」
「それはありがたい。しっかりと役に立ちますから! さぁ、最初に抱っこしてみましょう」
助産婦さんが双子の赤ちゃんを連れてきた。彩子の両腕に抱かせて、賢三は3人母子の写真を撮り、自分もセルフィーで入って撮ってから、仲間のグループメールに送信して、杏子にビデオ電話した。杏子は歓喜した。
「彩子、よく頑張ったな! 俺は嶋田さんたちに伝えてくるよ。じゃ、後で病室行くから。」
賢三は手術室を出て、嶋田さん夫婦のところに急いだ。そこには翔平の父もいて知らせを待っていた。男女の双子だと聞いて、3人は大喜びした。早速、新生児室の窓から双子を見ることにする。彩子は切開した部分を縫合したり、その他、出血量を含めた検査でまだ病室に戻っていなかった。子供を生むという行為は、女性なら当たり前に思う人がいるが、その大変な仕事は自分の命を引き換えにしなければいけない人もいるくらい、難儀で大変な人生のイベントだと言える。しかし、生物学上の女性は、そのとんでもない苦痛をすぐに忘れてしまうと言う。だから第二子も、それ以上も生むことができる。女性としての運命なのかも知れない。
賢三たちは、井上先生と話し、彩子の病室に移動した。井上先生も初めての男女の双生児に興奮していた。早速早苗さんにも電話したらしい。賢三は翔平の父と並んで歩きながら、話をした。
「林さん、本当にお世話になりました。初孫が、男女2人で、私は幸運です。どちらも翔平が生まれたときとすごく似ています。彩子さんのご実家にも連絡しようと思うのですが、彩子さんに任せたほうが良いかな? 実は、彩子さんと話し合って、子どもたちは大谷姓を名乗らせるべく、彩子さんを養子縁組しました。すでに独立しているので、ご両親の許可はいらなかったので、スムーズでした。出生届も、ここに用意しましたが、彩子さんに提出してもらおうと思います。もちろん一緒に行きますが。」
『そうですか、それは彩子も安心だと思います。実家の両親とは完璧に断絶状態だと言ってました。俺も、出生届出すとき付き添います。あと、これはまだ早いかも知れませんが、もしも彩子が誰かともう一度愛し合うことができたら、受け入れてあげてください。彩子は全くその気はないそうですが、子どもたちもいつかは独立しますしね。。。」
「はい、承知しています。ただ、あの家には住んでいただきたいので、翔平の面影を残す家に入ってくださる男性が現れてくれると良いですが。。。」
「まぁ、そのときは一緒に考えましょう。嶋田さん御夫婦という、祖父母がいますからね。彼らも含めて。」
病室に行くと彩子は眠っていた。疲れ果てているようだ。これからは、双子の面倒を見るのだから、今のうちに休息を取らせたい。日本では1週間も入院させてもらえるようだと杏子に言ったら、欧米ではその日のうちに退院することのほうが多いらしい。ただし、訪問看護師が毎日来て、体重の計測などと一緒に沢山のアドバイスをくれる。それが日本では入院中にすべて行われるが、退院後も相談窓口はあるそうだ。井上先生は、不安要素のないように指導してくれるようで、その後の小児科医師とも、連携すると言ってくださった。
嶋田さんのご主人のほうが、気を利かせて町中に行き、人数分の牛丼を買ってきてくださった。
「私は気の利いたお弁当がわからなかったので、腹の足しになるものをと思い、これにしました。熱いうちに腹ごしらえしませんか?賢三さんは特に! 貴方のだけは大盛りですよ! お茶も温かいのを買ってきましたので、皆さんどうぞ」
「まぁまぁ、お父さんたら、もう少し洒落たお弁当があったでしょうに。。。賢三さんも旦那様も、牛丼でよろしかったのですか?」
「うわぁーありがたい! さっそくいただきます!」
「私も久しぶりの牛丼ですよ、嶋田さん。嬉しいです。遠慮なくいただきます」
翔平の父は、その地位を決して見せつけることはない。値段表がないような高級店での会食に明け暮れている人なのに、親切心からのお弁当に舌鼓を打つことができる。本物の貴族的な金持ちと言うことだ。成金にはこういう真似はできないだろう。そして、彼は賢三が気に入っている。いつまでも翔平に話ができる唯一の人だと考えていた。しばらくすると、彩子が目覚めた。
「あ、彩子、起きたんだな。爆睡だったぜ! でもよく頑張ったよ。2人とも元気だぞ!」
「あぁ、よく眠れた。久しぶりにしっかり寝た気がする。 皆さん、本当にありがとうございました。これからが大変なのは分かっているのですけど、今は希望に燃えてます。」
「彩子さん、これ、出生届の用紙です。貴女はすでに私の養子となっているので、大谷姓です。子どもたちの父親は翔平で死後認知としました。子どもたちの名前は、2週間以内に届ければいいので、ゆっくりとね。」
「はい。実はもう考えてあります。 賢造と杏子です。長男なので、けんぞうの「ぞう」は『造る』の方にしました。でも、女の子の名前は、杏子さんの字をそのままいただくことにします。賢三、いいかしら?」
「え?俺と杏子の名前つけるの? なんか、俺、ちょっと照れるな。。。翔平は怒らないかな?」
「大丈夫よ。翔平は、あなた達夫婦が大好きだったから。きっと喜んでくれるわ! ね、お義父さんも、よろしいですよね?」
「もちろんです。素晴らしい命名だと思います。 ありがとう彩子さん。」
そういうわけで、彩子の双子の子供達は、『大谷杏子と大谷賢造』と命名されて、届けられることになった。
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