第34話 (翔平が残したもの)

 「すみません、嶋田さん、もう一度言ってもらえますか? 翔平に何かあったんですか?」


賢三は自分の耳を疑った。翔平の訃報は、あまりにも突然で眼の前の風景はどんどん霞んでしまう。


「杏子・・・翔平が・・・翔平が息をしていないって。死んじまったって。アイツ、一体何をしたんだ。。。」


「落ち着いて賢三! 何がどうしたって言うの?翔平が、まさか自殺??」


「いや、自殺かどうかはわからないけど、嶋田さんもパニクってて。。。警察を呼んだらしい。司法解剖だと言ってた。これから逗子の家に行こう。」


「分かった。車椅子、押してくれる? それから、彩子ちゃんに連絡してあげてほしいの。」


「彩子に? うん、分かった。一ノ瀬と鈴木にも連絡する。一ノ瀬がいてくれるといろいろな意味で助かるしな。みどり子さんにも連絡するよ。美津子さんと陽介さんは嶋田さんが連絡したかも知れないけど、電話してみるから。。。 杏子・・・俺、どうしよう。。。俺。。。」


「賢三、ここに来て!」


杏子は賢三にしっかりと抱きついた。大切なセッションパートナーがいなくなってしまった事は、まだ実感できないが、賢三は、確実に狼狽えている。杏子にしがみつき、若干震えていた。悪い冗談であってほしいと願った。


 大人数での移動で、結局は車は3台となっていた。翔平の逗子の家にはまだまだ止めるスペースはある。すでに警察を含む車両が何台かとまっていた。嶋田さん夫妻は、消沈していて、特に翔平の世話をしていた奥さんのほうは泣き崩れている。それを慰めるように初老の男が寄り添っていた。翔平の父親だ。生前の翔平から、何度となく罵倒され、無視もされたが、絶対に離れることがなかったようだ。この家で、翔平と彼の母親と3人で短くても慎ましい時間を過ごすことが大会社の社長で、政略結婚を強いられたこの人にとって、本物の愛情あふれる唯一の癒やしの場だったらしい。不思議なことに戸籍上の本妻はそれを認めていたそうだ。

 賢三たちが到着したとき、すでに現場検証は済んでいて、翔平の遺体はバスタブから出され、そっとクラッチャーに置かれ、検視官のもとに行く準備が整っていた。翔平の顔は限りなく穏やかで、杏子といるときにだけ稀に見せる温かい表情をしていた。美しい。賢三は、その顔を見てすぐに杏子を傍に連れて行った。


「なんで行っちゃったの? 私よりも先に行くなんて聞いてなかったよ。。。 賢三は誰と絡んで演奏したら良いのよ。。。」


杏子は、そう言葉にして、翔平の冷たくなった頭部に抱きつき、熱い涙を流した。自分には決して翔平に与えることができなかった現世での満足だったが、翔平には分かっていたはずの杏子の賢三への愛情は、翔平自身も賢三に持っていたのだから。『ごめんね、翔平・・・私は一人だけしか愛せない。賢三しか愛せないの。それでも良ければ、向こうで待っててね。貴方の顔を見ながら歌うわ。』 杏子はそう心のなかで祈りながら呟いていた。 そこへ庭師の方の嶋田さんがやってきた。


「杏子さん、そして賢三さん、坊っちゃんは全く薬を使っていませんでした。あなた達と知り合ってからというもの、お酒もほとんど。。。変に無理強いしてしまわないように、ワインとビールだけ少量冷蔵庫に入れておきました。毎日、減り具合を観ていましたが、こちらに来ているときは全く手がついてない日のほうが多かったです。外でも飲んでいないようでした。。。やはり、以前の麻薬摂取の量が、あまりにも多かったのかも知れません。医者によると、肝臓は人よりも丈夫だったようですから、なんとか凌いでいたのではないかと。。。私どもでは強制力はなくて。。。大事な、大事な坊っちゃんだったのに。。。」


「嶋田さん、これは誰にも止められませんでしたよ。最近は調子も良くて、何にも頼らずに良い音を出せていて、紛れもなく離脱できていましたから。。。杏子も説得に頑張ってましたし、よく言うことを聞いていたようでした。以前の使用量は、酷いもので、自殺行為と言われましたが、ようやく俺達と歩調が揃ったところでした。昔のジャズメンは、殆どが麻薬に頼っていて、天才と言われる連中が短命に終わっています。俺はジャズが大好きですがどうしても理解できない部分なんです。翔平を引っ張り出すために、俺と杏子は頑張ってたんですけどね。。。せっかくここまで来たのに、残念でなりません。」


ふと、部屋の隅を見ると、一ノ瀬といっしょに来た彩子が震えながら泣いていた。杏子はそれに気づき、そばに来るように促した。


「彩子ちゃん、こっちに来て、顔を見てあげて。最近は一緒にピアノを合わせてセッションしてくれてたって聞いてた。すごくご機嫌だったのよ。きっと幸せだったんだわ。」


「翔平。。。」


彩子は、細々とかすれた声で名前を呼んで、遺体に抱きついて号泣した。みんな、最近の彩子が翔平に特別な思いを持っているだろうことには薄々気づいていたから、更には、その思いは報われてない事もわかっていたので、なんとも言えないほど不憫に思えた。。。

 しばらくすると、翔平の遺体は検死解剖のためにクラッチに乗せられて運び出された。検死解剖後は、棺に収められて、ここに戻ってくると言う。普通なら火葬場に直行らしいが、力のある翔平の父親の采配であった。小さな弔いの宴を、大学と音楽関係の人だけを招いて行うと言い渡された。


「林さんご夫妻ですね? 大谷です。翔平の父です。 彼の生前は本当に良くしていただいたようで、感謝しています。全て嶋田さんご夫妻から聞き及んでおりました。この家はこのまま嶋田さん夫妻に面倒を見てもらうつもりです。音楽室も、そのままにしますので、どうかご心配なく。遺骨は翔平の母と同じ墓に納めます。葬式に当てる日は5日後にできると思います。ご迷惑かと存じますが、もう一度来ていただけますでしょうか? その際には林さんから弔事を賜りたく思っています。」


「承知しています。来るなと言われても翔平を見送るつもりでいましたので。。。では、ご連絡をお待ちします。」


 ほどなく翔平の友人たちは全員、本牧のカウンティング・スターに集まった。店は閉店扱いにして、貸切状態。音楽こそ流していたが誰もが無口で、言葉が飛び交うことはなかった。


「こんなときに何だけど、翔平を欠いた今、今日で我らのバンド、ザ・トレイターズは解散ということにします。どうか、各々の音楽活動はそのまま続けて欲しい。次のバンドなどは考えていないけど、俺は、杏子と一ノ瀬戸とで、定期的に我が家で練習するので、いつでも誰でも参加してくれ。彩子! ピアノ弾きのバイトの無いときは来ないか?」


彩子は泣きじゃくった後に、魂を涙と一緒に洗い流したように、放心状態だった。


「うん、行くよ。。。」


彩子を見つめて杏子は少し心配になった。翔平を失った今、彩子は途方に暮れるに違いない。想い出しかない大学院をそのまま続けられるだろうか? 彩子には翔平といっしょにいることが災いして、学校内に友だちが少ないと聞く。翔平が女たちに囲まれている様を、否応なしに見せつけられていたが、それはさほど気にならない様子だと言われた。自信があったからなのか、翔平に釘を刺されていたのか? よくわからないが、彩子にも人を簡単には寄せ付けない雰囲気がある。気が強そうな雰囲気ではない。ただ、話しかけてはいけないようなオーラというか、誰かを介して知り合うしかない感じ。一度でも仲良くなると、そんなことを忘れるほど親近感は湧いてくる。翔平は、そういうところが気に入っていたようだった。そういうことに鈍感な賢三には理解できないようだったが。。。そんな彩子は、翔平が入れ込んでいたからではなく、心底杏子のことを尊敬し、大好きな女友達としていた。


 翔平の父から連絡があり、翔平が棺に入って逗子の自宅に帰ってきて安置されていると言う。司法解剖の結果は急性心不全だった。薬物の検出なし、アルコールは赤ワインが少量だったと報告された。生前に親しかった友人、知人だけで友人葬としたいと言われ、賢三は音楽関係の連絡窓口になった。杏子はセイラに連絡してあり、彼女は来てくれると言ったが、急なことで、あまりにも遠方なので、ビデオで参加してくれるようにお願いした。セイラは非常に残念がっているし、杏子がいかに翔平を助けたかったかを熟知しているので、杏子の消沈している姿は想像できたが、すでに歩くことが辛い状態の杏子を想像するのは難しかった。

 葬儀の当日、杏子と賢三は、早朝に出発し、逗子の家に着いていた。嶋田さん夫妻は翔平の遺体から離れようとせず、キャンドルを24時間絶えさせないようにしていた。嶋田さんの奥さんの方は、消沈しきっていたが、自分の息子を送り出すつもりで気丈に振る舞っていた。翔平の父は葬儀屋と十分な話をしていた。そこへ賢三が入り、生前の翔平の好みや友人葬としての、バックミュージックを選んだ。遺影は賢三が写真ファイルを父に送っていたことで、一緒に選んだ写真だった。優しく微笑んでいるものが選ばれたが、どれをとっても美しい男だとみんなが絶賛していた。遺影の他に、100枚の彼の写真が、次々に壁を大画面にしたスクリーンに映し出される準備がされていたのだった。賢三は翔平の父に話しかけた。


「お父さん、お疲れなのではありませんか?」


「いいえ、今まで何もやらせてくれなかった息子なので、やっと彼のためにできることですからね、手抜かりの無いように部下にも手伝ってもらっています。私も流石に歳ですからね、島田さんと交代で睡眠も取ってます。 ところで、火葬場にもご一緒願えますか? そのあとも、少しお話することがありますので、できれば、今夜はここか、こちらで手配しますから近くのホテルにでもお泊まりいただけるとありがたいのです。」


「明日はお休みなので、翔平の遺骨がここに帰ってくるのであれば、ここに泊めていただきます。」


「それはありがたいです。嶋田さん夫妻も、納骨までここにいてくださるというので、甘えることにしています。あと、奥様は、大丈夫ですか? 万が一、お加減が悪い場合は、車椅子が入る車をおいておきますので、ご利用ください。私は会社がありますので、明朝早い時間に出てしまいますが、連絡が必要なときは遠慮なさらずに個人携帯のほうにおかけください。それではまた、あとで、よろしくお願いいたします。」


 いよいよ始まった葬儀、弔問客は思いの外多くの人が来た。特に音楽関係は、翔平にレコーディングの準備をしていた会社や音楽雑誌社の人などもいて、友人葬とはいえ、杏子と賢三のほかはバンド仲間とカウンティング・スターの美津子と陽介が来てくれるだろうとしか思っていなかった嶋田さん夫妻は驚きを隠せなかった。そう、ちょっぴり嬉しく誇らしげだ。それは翔平の父親も同じだった。急遽、献花のために用意した白い大輪のカーネーションを追加注文し、即刻配達してもらった。

 杏子はアメリカの友人たちとビデオ通話で話をしていた。セイラと彼女の弟妹とニコラも傍にいた。全員、いつもの笑いがない。彼らは一度でもセッションをともにしたミュージシャンは家族だと言う。まして、セイラは翔平がなにかに囚われて、薬に走ったことを知り、自分もボランティアで更生を手伝っていることを活かして翔平に接し、杏子と必ず翔平を助けると約束したのだから。。。

 杏子の元会社の友人たちとカイドウ・コーポレーションの社長も付き人数人と一緒に来てくれた。翔平の父とは、音楽出版社の株主総会で会ったことがあると分かり、また違う接点ができたことを賢三は微笑ましく感じた。 厳かだが実にスタイリッシュな葬儀となり、賢三がお別れの弔事を語った。彩子が杏子の脇に来て、賢三がいないカバーをしていた。


「杏子さん、大丈夫? 辛かったら奥の部屋にベッドを用意してくださっているみたいだから、言ってくださいね。」


「ありがとう。疲れてないから大丈夫よ。ビデオのセイラたちも観てくれてるしね。シャキッとしなくちゃ。彩子はどう? 少し落ち着けた? 最近、少し痩せた気がするんだけど。。。」


「落ち着けたといえばそうなんですけどね。。。もういないと思うと、どうしていいかわからなくなったり。。。体重は確かに落ちました。 杏子さん、今度、ご自宅に伺ってもいいですか? 賢三からは、音楽室を借りられるとは言ってたけど、それとは別に、杏子さんに聞いてほしいことがあって。。。」


「分かった。いつでも来て。賢三は仕事で遅いことが多いけど、学期末試験の準備とかでね。。。私は最近は外に出るのは母と一緒だし、すぐに帰って来る場所ばかり。。。暑いし、あまり出たくないというのが本音。だから何時でもいますからね。」


「電話してから伺いますね。」


彩子とは比較的仲が良かったが、自分から家に来たいということは初めてだった。翔平を失ったことが、単に音楽パートナーを失っただけではないことは杏子には察しがついていた。 自分は一方的に翔平から求められていたに過ぎないのだが、薬から救い出すために、拒否できないことは多かった。賢三の伴侶であることは、彩子にとって、慰めにはならなかっただろう。。。


10日ほどの時間が経った頃、彩子は杏子に連絡を取った。


「杏子さん、明日の午後、お邪魔していいですか? 賢三くんは仕事だと思いますが、杏子さんに会いたいから。」


「彩子、連絡待ってたの。 明日ね?OKよ、お昼は食べてくる? 私はいつも1時過ぎないと食べないんだけど、よかったら、祖父母も母もいるけど、素麺とか、いかが?」


「ありがとう。 お素麺なら食べられそう。実は最近食欲がなくて、軽いものしか食べられないんです。」


「夏バテにならない程度に食べないと。。。まぁ、私も体調によっては食べられない日もあるから何も言えないけどね。。。暑いから、駅まで車で迎えに行こうか?」


「私も暑いのは苦手なんです。。。車でのお迎え、すごく助かります。」


「じゃぁ、時間は決めないから電車が一つ手前の駅についたら電話して。待たせずに、すぐにピックアップできると思う。おじいちゃんが行くからね。」


彩子は1時になる前に電話してきたので、お祖父さんが迎えに行き、、お祖母さんと杏子の母が昼食の支度を始められた。家に到着してすぐに食べられるという、ナイスなタイミングである。


「こんにちは、お昼時にすみません。お邪魔しますね。 あれ?杏子さんは、家の中では車椅子をつかってないのですか?」


「いらっしゃい。あ、私? うん、調子が良いときはクラッチだけで動いているの。でも、どんどん動けなくなってる。でも、車椅子は家の中でも電動だから楽ちん。」


彩子は久しぶりに『家族』という優しさに包まれた気がした。ここに賢三がいたら、きっともっと賑やかなのだろう。こういう家族なら、自分も好きだ。デザートは、麦茶と一緒に音楽室で食べると言って、杏子は彩子と席を立ち、音楽室に向かった。

相変わらず素晴らしい部屋だと思った。少しピアノを弾かせてもらおう。もう数週間弾いていない。。。翔平がいないと、何も練習できてなかった。


「私もピアノは少し弾けるけど、もう、聴くだけになってきた。賢三が曲作りに必要なときだけ、少し手伝うけどね。。。この前、一ノ瀬くんが来たとき、ベースの録音してた。あの2人には珍しく、アース・ウィンド&ファイアの曲だった。Sun Goddess って知ってるでしょ? なんだか、賢三の学校の軽音部で教えようかなって言ってたけど、2人共に乗りに乗っちゃって。。。彩子ちゃんがはいってくれたら完璧になりそう。」


「ははは、単独録音してミックスするのかな? 今度、賢三がいるときに録音に来ますよ。一ノ瀬くんも来てくれるといいな、合わせられるから。」


「さてと、今日は私になにか話すことがあったのよね? 翔平のこと? 私の知っていることは少ないと思うのだけど、何でも聞いて。」


「うん、、、翔平のことも含まれるのですけどね。。。単刀直入に爆弾発言します。。。 私、今、妊娠していると思うのです。翔平の子どもです。彼には内緒で避妊薬を止めていたんです。翔平はピルを服用してないとセックスできないって最初は言ってたんですけど、いつの間にか、何も言わなくなってて。。。まぁ、私が服用していると思い込んでいたのかも知れませんけどね。検査キットを買い、検査してみました。3回やってすべて陽性でした。まだ、医者にはいってないんです。。。どこの医者がいいかもしらべないといけなくて。。。」


杏子は唖然としていた。困惑したが、それを顔に出してはいけないと心に決めた。


「彩子。。。その妊娠はわざとだったってこと? おめでとうと言ってもいいのかしら? ごめんね、どう切り出していいか。。。」


「はい。わざとです。別に翔平に認めてもらおうとは思っていなかったんですけど、欲しかったんです。。。彼の子どもが。」


「そうか! でも、翔平はもういないのよ。。。それでも自分だけで育てるの? 」


「うん。最初から自分だけでと思ってたし。。。でも、欲を言えば、翔平には生きていてほしかったけど。。。」


「わかった。。。とにかく、おめでとう!大事にしないとね。私、すごく嬉しい。 知っていると思うけど、私は子どもを作れないことが分かって、がっかりしてたの。でも、彩子が産んでくれるなら、すごく嬉しい。できる限り協力する。ご両親はあまり頼れないの?」


「あぁ、杏子さんに相談してよかった。誰にも言えなくて不安だったんです。でも、自分で望んだことだから私も嬉しい。。。両親には、まだ言えないかも。。。仲良くないんです。」


「そう、、、ご両親は理解してくれそうにないのね? それでも一応は知らせるべきだと思いけど。。。後から考えようね。そうだ!最高の産婦人科の医者を紹介する。井上先生というのだけど、病院以外でもお世話になっているの。よかったら、私も賢三も一緒に行くよ。あ、賢三は嫌?」


「ううん、2人に一緒に来てほしいです。」


「今よければ、病院に電話してみようか? 早く確認したほうがいいかも知れないよ。」


杏子は井上先生に直接電話で、メッセージを残した。すると、数分で電話がかかってきた。


「杏子さん、ご無沙汰しましたが、その後いかがですか? 賢三さんはお元気?」


「井上先生、ご無沙汰しました。おかげさまで動きこそ低下してますが、元気です。賢三は忙しくて、ヒーコラ言ってますが、仕事は充実しているようです。奥様はお変わりありませんか?」


「早苗は、暑いのが苦手ですから、この季節は夕方からが元気ですね。(笑) さて、なにかありましたか?」


「はい、実はわたしたちの大切な友人が、もしかすると妊娠しているのではと本人が相談しに来まして。。。今ここにいるのですけどね。検査薬では陽性に出ていて、多分。。。ただ、私達も含めて、ちょっとショックなことがありましたので、彼女の体調も含め心配しています。井上先生をご紹介したいのですけど、予約いっぱいですか?」


「それはそれは、おめでたいことですが、精神的に不安な原因があるのでしたら、大事にしないといけません。予約は・・・えーっと、、、よろしければこれから来られますか?ちょうどキャンセルが入りましてね。受付に診療繰り上げをストップしておきますから、4時半までに来られると良いのですが。。。今日の最終診療ですから、色々とお話できます。よろしければですが。。。」


「分かりました。伺います! では、あとで!」


「彩子、勝手にごめんね。でも、この先生を掴んで置けるってラッキーなのよ。だから、怖がらないでこれから行こう!」


「えー! 今から診てもらえるの? 杏子さんも来てくれるなら行く。」


「もちろん私も一緒よ。でも、私の祖父母にも母にも分かってしまうけど、、、いい?」


「大丈夫。 杏子さんと賢三くんの家族なら、かえって安心感がある。私の親に言えば、即刻堕胎させられてしまうから。。。」


彩子はピアノを幼少時から習わせる典型的なブルジョワ家庭の出だった。あまりにもお嬢様なので、過保護だったこともあり、彩子は親への反発精神が強かった。成人してからは、自分の意を通すことを学んで、親を困らせたが、今回のように妊娠となれば、人を雇ってでも実家に連れ戻そうとするだろう。彩子は、戸籍を独立することを選んだようだ。
 杏子は母親に付き添いを頼んだ。アメリカの最先端医療が頭に入った人だし、井上先生もきっと興味深い話もあるはずだと思った。杏子は祖父母と母に事情を説明した。みんな彩子の妊娠を喜んでくれた。 ただ、翔平の子どもだとは言えなかったから、まさかすでに父親が死んでいるとは思っていない。それを不幸に思うかは、その人次第だと言う気はするが。。。彩子が望んだ妊娠であることを前面に出しておいた。


「妊娠はすでに16周目、つまり3ヶ月にはいってますね。検査は一通りやりましたが、直ぐに結果がわかるものに関しては母子ともに健康です。パートナーの方は、ご存知なのですか?」


「いいえ。。。そして、永遠に知ることがないままとなってしまいました。認知はしてもらえません。」


「そうですか。。。ご自身で育てることになりますけど、大丈夫ですか? 支援はされるのでしょうか?」


「井上先生、赤ちゃんの父親は先日亡くなったのです。急性心不全でした。私達の友人で、賢三のバンドの人です。そのことがショックで、彩子が大丈夫かが心配なんですが。。。」


「それは大変なことだったとお察しいたします。国井さん、、、子育ては大変な労力を要します。失礼なことを言いますが、シングルマザーでやっていける自信はありますか? 多くの人がチャレンジして、多くの人が失敗しています。」


「はい。私は彼が亡くなる前から子供が欲しいと願い、できたとしても彼に知らせるつもりはなかったのです。しかし、今は彼の忘れ形見となってしまいました。父親がいなくても決して不幸にはしません。幸い、私には杏子さんをはじめ、信頼できる友人に恵まれていますから、大丈夫です。」


「分かりました。私も医者としてだけではなく、全面的に協力いたします。母子手帳その他の手配はしておきますね。あと、何も心配はないのですが、ちょっと2週間後に超音波を取らせてください。ちょっと確かめたいことがあって。あ、全く健康には関係ありません。子宮の状態をもう一度見せていただきたいのです。」


「承知しました。先生、よろしくお願いいたします。」


「彩子、よかったね。 先生、彩子が今日の最終外来でしたよね? よろしければお食事一緒にいかがですか? 賢三にも来てもらいますから。母も、先生とお話したいと望んでましたから。」


「そうですね。是非、行きましょう。早苗も呼ぼうかな。最近、外に連れ出してないので、杏子さんが来てるといえば、すぐに来ますよ。」


 洒落た個室が取れるお蕎麦屋さんに行くことにした。杏子は井上先生の奥様の早苗さんに会えるのが楽しみだった。杏子の母と井上先生は学術的な話が始まっていた。アメリカから夫が来日した際には、必ずお目にかかると約束しているようだ。

 しばらくして賢三がやってきた。まだ何も知らない彼は、この珍しい集いにワクワクしているようだ。


「井上先生と早苗さん、ご無沙汰しました! お元気そうで何よりです。こんな珍しい集まりもあるんだなと、ワクワクしましたよ。実は今日は職場でも良いことがありましてね、少し前まで大切な友人の急逝で落ち込んでいたので、ちょっと浮足立っているんですよ。」


「林さん、こんにちは。奥さんもお変わりないようでホッとしてます。ところで、今日は学校で何があったんですか?」


「大したことはないんですけどね、音楽室の改造とその予算のふんだくりに大成功しました。これで、たくさんの生徒が音楽室で練習できるようになります。元男子校なので、男が多すぎて、スポーツはまぁ、良い成績なんですけど、スポーツは不得意だけど、音楽なら・・・という生徒が多いことが分かって、それ以来必死で予算の確保を訴えていたんです。しぶとく言い続けるって、大切ですね。最高の音響設備と、クラシックだけじゃなくて、ジャズやロックにも手を出せるように楽器を揃えようと思ってます。いやぁ~本当に嬉しくて。。。 ところで、このメンバーは何故集まったんですか? 杏子、説明してよ。」


「そうよね、なかなか珍しいメンバーよね。 実はね、彩子がお母さんになるのよ! 井上先生に診てもらって、取り上げてもらえることになったの。すごくない?」


「え? 彩子、お前、ほんと?? すっげー!よかったな、おめでとう! で、さ、、、お相手って。。。誰? まさかと思うけど。。。翔平なの?」


「そのまさかなのよ。。。でもね、私が望んでたの。翔平は何も知らなかったかもしれないけど、私がどうしても翔平の子どもが欲しかったの。だからどうか彼の忘れ形見として、暖かく見守ってほしい。。。お願いします。」


「あぁ、、、そうか、彩子がそこまで望んでたことなら、俺は何も言わない。翔平がいてくれたら、きっと喜んだと思うぞ。あいつ、無条件の愛に飢えていたからな。。。子どもって分身みたいなものじゃん? 変なやつだけど、子どもには優しいと思うんだ。唯一絶対の自分のDNA持ってるんだぜ! 俺達は運悪くて、子どもは望めないけど、2人も宿ったのは事実。杏子が生きててくれるだけで俺は満足なんだ。」


そう言うと、隣りにいる杏子を抱きしめた。杏子は満足そうだった。彩子はそれを観て思わず微笑んだ。『この2人はどうしてこんなに美しいのだろう。。。翔平はこの2人の美しさをよく語っていたっけ。。。』


「私には喜びを分かち合うパートナーはいないけど、もしも翔平が天国から観ているなら、きっと喜んでくれると思うの。抱かせてあげられないのは残念だけど、いいの、私が自分の全ての愛情を注ぐから。。。」


今度は杏子が彩子を傍に呼びつけて、優しく抱きしめた。


「彩子、みんなで大切にするよ! 何も心配することはないよ。 ただ、お願いがあるんだけど。。。 逗子の嶋田さんに報告してほしいの。よかったら、私達も一緒に行くから。」


「あとさ、翔平のお父さんにも教えてあげないか? 彩子、逗子の家に住まわせてもらえよ。 子どもたちが育つには最適なんじゃないか? 俺が、翔平のお父さんに話すから。」


「私が勝手に妊娠して、生む子どもだし。。大谷さんには迷惑かもしれない。。。」


「いや、そんなことないと思うな。。。孫だぜ! せめて存在は教えてあげようよ。 とにかく、無事に生まれることを期待している。ひとり暮らしがきついようなら、家に来いよ。部屋はあるぜ!」


「え? それ、ありがたいかも。。。臨月になったら、甘えるかも知れない。」


彩子は実家に相談できないと思っていることもあり、不安だったので、心底ありがたいと思い、希望をつなげる安心感をもらった。


彩子はその後、2週間してから、もう一度井上先生の診察に行った。超音波の画像から、彩子は双子を妊娠していることが分かった。井上先生はこれを確認したかったらしい。


「たいへん。。。2人も入っているんだ。。。これは早めに林家にお世話になろうかな。。。」

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