第16話 コーヒーの味もわからなくなるくらい、
あれから何時間ほど経ったのだろうか──なんて言ってみたが、時計を見てみたらほんの30分ほどしか経っていなかった。
涼夏は全く集中力が削がれていないのか、黙々と鉛筆を走らせている。俯きがちなその顔を眺めながら、俺は自分の気持ちを見つめていた。しかし、考えても考えても答えは出てこなかった。涼夏のことを考えると、芋づるのように俺が幼少期擦り切れるほど読みまくったツンデレ漫画のヒロインが現れて、その二人がぐちゃぐちゃに混ざってしまう。結局残るのは曖昧な俺の感情のみ。
溜息を吐いて、メロンソーダを飲み干す。気持ちが悪くなるほどの甘味が喉を通り胃の中へと滑り落ちていく。
「ちょっと休憩する?」
俺が全く集中していないことに気付かれてしまった。
少々気まずくなってしまい、なんとなしに立ち上がってしまう。
「あー、ドリンクバー行くわ。なんか取ってこようか?」
「大丈夫。まだ飲み物あるから」
逃げるようにドリンクバーに行く。リンゴジュースでも飲もうかと思ったが、あまりにも子供っぽい。
ふと、視界の隅にコーヒーマシンが見えた。
コーヒー行っちゃうかぁ……。
俺としてはこんな苦いだけの黒水を飲む人間の思惑なんて一ミリも理解できないのだが、コーヒーを美味そうに啜る男が少しだけ恰好よく見えるのは事実である。ここはひとつ俺のダンディな姿を見せてやるか。
ホットコーヒーを注いで席に戻ると、涼夏も休憩をしていたのか、大きな伸びをしていた。
涼夏は俺が持ってきたカップを見て、意地の悪い笑みを浮かべた。
「コーヒー、飲めるようになったんだ?」
その言葉に一瞬、なんのことを言っているのかわからずぽかんとしてしまった。それは涼夏にも伝わったらしく、不思議そうな表情をされた。
「覚えてないの?」
「ごめん……さっぱりわからん」
俺の言葉に「そうなんだ」と言った涼夏は、コーヒーを一口啜った。赤茶の水面に一瞬映った涼夏の唇は艶やかだった。
「幼稚園にいたくらいの頃、あなたがいきなり自動販売機でコーヒー買ってきたことがあったじゃない」
「……そんなことしたっけ」
「あなたが変になりだす前だから幼稚園の頃だったと思うけど」
「変になり出したは酷くない?」
まあ事実だけど。
「あの時は驚いたわ、自販機で何かを買うのは大人がすることだと思ってたから」
「まあ、恰好つけてたんだろうな」
「でしょうね。……ふふっ、「コーヒーなんていつも飲んでますから!」 みたいなことを豪語してたのを憶えてるわ」
楽しそうに話す涼夏。てか俺の黒歴史めちゃくちゃ憶えてんじゃん。逆に何で俺は覚えてないんだよ。
けど、なんだか頭の隅にそんな記憶があったような気がして、思い出せそうで全く思い出せない感覚にもどかしさを感じてしまう。
「悪い、全く覚えてないわ」
「それで勢いよくコーヒー飲んだんだけど、思ったよりも苦かったのか、この世の終わりみたいな顔しちゃってたわ。……私その顔見て、すごい笑っちゃった」
くすくすと、口元を手で隠しながら静かに笑う涼夏。くそ、過去の俺とはいえ涼夏をこんなに笑顔にさせてるの普通に羨ましいな。
だが俺も舐められっぱなしでいられるわけがない。カップを机の上にドンと置き宣言する。
「ふん、あのときの軟弱な俺と比べてもらっちゃ困る。俺は進化したのさ」
「学校の女の子全員を口説くような男の子になっちゃったもんね」
「……いや、それはその……すんません」
また軟弱に戻ってしまった。
やっぱり涼夏も噂は知っていたらしい。
涼夏は首を傾げ、
「別に私に謝る必要はないじゃない。素敵な人を探すことはいいことだと思うわ」
「いやそうじゃなくて……ていうかアレはそういう意図でしていたことではなくてですね……」
返事はふうんと、そっけないものだった。
店内のBGMがやけに大きく感じる。とてつもなく気まずい。
手持無沙汰だったので、コーヒーを飲む。
熱い液体が舌先に触れ、喉の奥へと滑り落ちて行く。芳醇で深い味わいが口の中に広がる。眠気が首を擡げていた俺の頭の中に朝陽が差し込んだようだった。
俺はコーヒーを優雅に一口飲むと、ゆっくりとした動作でコップを机の上に置いた。
…………まっず、何だこの汁。
意味わからんくらい苦いし、しかもなぜかわからないがその後に酸っぱさが来る。苦味と酸味が同時に存在している飲み物とか人間が飲むべき飲料じゃねえよ。うわ、口の中に味がこびりついてる、おえーまず。
コーヒーの存在意義そのものを疑っていると、すぐ目の前からくすくすと笑い声が聞こえてきた。
顔をあげると、涼夏が肩を震わせながら笑っている。
「あの時とおんなじ顔」
どうやら俺の絶望顔がツボらしく、我慢をしようとしているが全く出来ておらず先ほどから笑い声が漏れている。周りの人間からすれば、不審者を見て笑っている美少女の図だ。
「いや……思った以上に不味かった。よく考えると豆絞った熱湯なんて飲めねえ俺」
「ふ、ふふっ……豆絞った熱湯って何よそれ……へふっ」
なんか変な声出たぞ今。
見ると、笑いすぎて酸欠になってしまったのか顔が赤くなってしまっている。
「大丈夫? コーヒー飲む?」
「っ、そ、それあなたが飲めなかったやつじゃない……」
「いや、ついでに処理してもらおうかなって」
「あ、あははっ」
ついに笑いのダムが決壊したのか、声をあげて笑う涼夏。目尻には少し涙が浮かんでいる。
あ、この顔、なんか懐かしい。
涼夏の無邪気な笑みに、記憶が掘り起こされる。苦しいくらいに懐かしい思い出の中で、彼女は笑っていた。
…………そうか、今思い出した。幼い頃、恰好つけるためにコーヒーを買って、あまりのまずさに涙目になってしまった俺を見て笑っていた涼夏の顔だ。この顔を見てやっと思い出した。
今目の前で笑っているように、涼夏はあの時も笑っていた。
屈託のない笑みで、まるですべてを包み込むような柔らかな声で。
あの時と変わらない笑み、あの時と変わらない涼夏。
変わったのは俺だけだ。
そう思って、今更気づいてしまう。
いや、俺も変わっていないんだ。
ふと、ある気持ちが俺の心の中に浮かび上がった。
しかしそれは浮かび上がったのではなく、もともと俺の心の中にあった感情だった。
何で忘れてたんだろう、俺。
俺、涼夏が好きなんだ。
ツンデレとか関係なく、ただただ、目の前で無邪気に笑っているこの少女が好きだったんだ。
一口コーヒーを啜る。
あの時と同じ、苦いコーヒーのはずだったのに。
なんだか少し、甘酸っぱい味がした。
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