第7話 雨と傘






 篠突く雨が窓を叩いている。数十分前まで生徒たちが歩き回っていた廊下は少し濡れており、歩いているだけできゅっきゅと軽快な音が鳴る。

 少しだけ肌寒い廊下を歩いているのは俺だけだった。

 中間テストも終わり、あとは結果を待つだけ。勉強に自信がある生徒にとっては待ち遠しい期間だろうが、俺のように全く勉強ができない生徒にとっては地獄のような期間でもある。

 だからこそそういうやつらは頭を使わなければならない。

 ということで、俺は中間テストが終わった日からイメージアップ大作戦ということで先生の雑用をしているのだ。今日は空き教室の掃除をさせられた。ちなみに中学生の頃からこのイメージアップ大作戦を実行しているが、点数が上がったことはない。


 黒くどんよりとした雲の下に沈む街並みは、今日は特に寂しく思える。静けさを切り裂いたのはどこからか聞こえてくるクラクションの音。


 知己の予言通り、俺のヒロイン探しの小旅行はあっという間に噂になっていた。今まで校内一、いや銀河一美少女の二宮涼夏につきまとっていたストーカーが、ついに彼女を諦め、あろうことか学校中の女生徒を口説き始めたという、なんともまあ週刊誌並に好き勝手に背鰭尾鰭をつけられまくった噂だった。まあ大筋は間違ってはいないのが悲しいところだが。

 このような噂が広まってしまったにもかかわらず、不思議なことに涼夏はそのことに関して何も言わず、いつも通りの日常を過ごしていた。変わったことは全校生徒の俺を見る目と俺に対する態度くらいだった。泣けてくるね。

 まあ、自分につきまとっていた人間が何をしようが関係ないということなのだろう。

 本当に時間が俺と涼夏の関係を回復してくれるのだろうかと、少し不安になってしまう。


 じっとりとした空気に少し汗ばみながら階段を降りる。天気予報ではあと数時間は大雨のようだ。だが大丈夫、朝きちんと天気予報を見た俺は傘を持ってきているのだ。





 階段を降り昇降口へ向かう。下校時刻から既にだいぶ時間が経っているので、もう周りに生徒の姿は見えない──はずだった。




 ピロティの下に立って、ぼんやりと校庭を眺める後ろ姿が見える。その後ろ姿は、俺が今まで見たいと羨望し続けていたもの。それでも、今は一番見るのが辛い後ろ姿だった。

 紫陽花のようなその髪は薄暗い中で艶やかに輝いていて、ちらりと見える横顔はどこか憂鬱そうだった。


「あ……」

「……ども」


 俺の足音に気づいたその人物──涼夏とばっちり目が合ってしまった。

 軽い会釈をして、沈黙が流れる。


「…………」

「…………」


 なんだろう、すげえ気まずい。俺が気まずいってことは、涼夏は俺と比べ物にならないくらい気まずいんだろうな。

 涼夏は俺からそっと視線を外して再び校庭に目を向けた。入学式の時に光らせていた新品のローファーは少し汚れていて、白のソックスから伸びる、健康的な脚は少しだけ濡れていた。


 とりあえず、涼夏とは少しだけ距離をとりつつ横に並ぶ。響く雨音が俺たちの間に横たわる静寂を強調しているみたいだった。


 不意に、涼夏が口を開いた。静かなはずの声はやけに響いた。


「何かしてたの?」

「え、あ、ああ。ちょっと教室の掃除を……」


 ありきたりな返答しかできない自分を少し恨む。だが涼夏はそんなこと気にしていないようで、俺の答えにくすりと笑った。


「へえ、優等生だ」

「そんなんじゃねえよ」


 横目でこちらをちらっと見ながら微笑む涼夏の魅力にやられながら、なんとか返事をする。やばい、俺ちゃんと呼吸できてるか? なんか鼻息荒くなってない? 変な口調になってないか? 


 ちょっと前まではこんなこと意識もしなかったのに、今じゃ一言喋るのも気を遣ってしまって仕方がない。以前の俺は何を考えていたんだろう。


「それで……涼夏、は何してたんだ?」


 今までみたいに涼夏と呼んでいいのかわからずに少しだけ躊躇してしまう。なんだか意識しすぎてるみたいで恥ずかしい。

 涼夏は何も気にしてなんかいなさそうだった。


「私は図書室で勉強してた」

「中間テスト終わったばっかなのに?」

「ま、一応ね。勝って兜の緒を締めよって言うし」

「もう勝ったつもりかよ」

「負けたの?」

「聞くな」


 微かな沈黙の後、同時に笑う。二人で笑い合うこの瞬間だけ、幼い頃に戻ったようだった。

 ふと気づく。全然気まずくないのは何故だろう。

 いくら幼馴染だったといえど、つい先日あれだけ気まずいことが起きたのに、なんで涼夏は何事も起きていなかったかのように振る舞えるのだろうか。


 ちらりと横目で見る。涼夏は笑っていたが、その視線はこちらに向いていなかった。



 その仕草で気づいてしまう。多分、涼夏も気まずいのだろう。だが俺のために、俺が傷つかないためにわざと何事もなかったかのように振る舞ってくれているのだ。

 涼夏の優しさと、それ以上の自分自身の情けなさを一層強く見せつけられた気分だ。今までもこうやって涼夏に気を遣わせてしまっていたのだろうか。そう考えるだけで気が重い。


 憂鬱な気分を吹き払うために、わざと明るい声を出す。


「それで、帰らないの?」

「そうしたいのは山々なんだけど、傘を忘れちゃって」


 困ったように少しだけ眉を下げて、涼夏は言った。その顔を見て、俺は何も考えずに口を開いた。


「あ…………」


 しかし、言葉はそこから出ることはなく、ただ息を吸って、止めた。


 俺は今、何を言おうとした? 

 いきなり自分の方を見て口を開けた俺を、涼夏は不思議そうに見ている。




 ──俺は「なら一緒に帰ろうぜ」と言おうとしたのか? 

 


 俺が? 涼夏に嫌われてる、俺が? 



 無意識のうちに、傘を持つ左手に力が入る。

『彰が今の彰のままだったら、好かれることはないと思う』

 ふと、知己に言われた言葉が脳内を駆け巡った。

 俺は涼夏に好かれたい。ただ今の俺のままじゃ好かれるどころか、普通の友達にすりゃなれやしない。ならどうすればいいのか? 自分を変えれば涼夏に好かれるのだろうか? 好かれるために自分自身を全て変えた俺は、果たして俺なのだろうか。そんな姿で涼夏に好かれたところで、俺は嬉しいのだろうか? 


 いけない、頭が混乱してきた。

 結局俺が涼夏に好かれるために今できる最善のことは、涼夏の目の前からいなくなることなのだ。

 だがそうすると、傘を忘れて立ち往生している涼夏を無視して一人で帰ってしまうことになる。





 ああ、もう考えるのも面倒臭い。


「ほら、これ」


 やけくそになり、手に持っていた傘を涼夏に差し出す。


「え?」

「俺傘使わないから、使っていいよ」

「いや、傘使わないって……」

「俺人生で傘使ったことないの、これマジ」

「じゃあ何で持ってきてるの?」

「傘忘れた人に渡すため」

「アンパンマンじゃないんだから……」


 差し出した傘をなかなか受け取ろうとしない涼夏。まあそりゃそうか、好きでもない相手からこんなの押し付けられても迷惑なだけか。


「今日はちょっと雨に濡れたい気分だったんだよ」

「いやけど……」

「あ、もう帰らなきゃ! じゃ、さよなら!!」


 強引に傘を押し付ける。うわ、手すべすべすぎやろ。スケートリンクかと思ったわ。


 唖然としている涼夏を横目に、雨の中へ飛び出す。途端にずぶ濡れになるが、正直あのまま気まずい空間に取り残されるよりかは幾分かマシだった。

 後ろから涼夏の声が聞こえたような気がしたが、たぶん気のせいだろう。


 今はただ、早くここから離れたかった。













「バス停なんだから屋根作ってくれよ…………」



 ──格好よく立ち去ったのはいいものの、乗るはずだったバスに目の前で出発されてしまい、十分以上大雨の中待ちぼうけを食らってしまった。

 かっこつかねえなあ。

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