第25話 シャッターを上げろ
今夜も安物の焼酎を呑んでいる。
薄明かりの下で何を思ったのか、その小さな部屋には不似合いな大きな本棚から一冊の古いアルバムを取り出す。
それ以外は楽譜ばかりである。
数え出したらキリが無い。
あらゆるジャンルの楽譜が埃を被って眠っている。
音楽を諦めてからガソリンスタンドで働き出し、今は主任になっている。
主任と言ってもパートタイマーばかりの中での主任である。
このままで良い。
そう思っている。
働き、いつか誰かと結婚し、家族を持つ。
暖かい家族のもとへ帰り、シャワーを浴びて、夕食を食べる。
それだけで十分じゃないか。
そう思っているだけの事である。
開いた古いアルバムを見る。
そこには若かった自分と仲間達が馬鹿みたいに大笑いしている姿がある。
皆んなが本気でミュージシャンを目指したあの頃の姿が。
そして現実の中で、仲間達はアーティストを諦め、生活のための職業を選んでいく。
ドラムは工事現場で働いている。
ギターは木工職人として細々と店を経営している。
ベースは大学を出てサラリーマンだ。
最後まで夢を諦めなかった自分は、今ではガソリンスタンドの時給で生活している。
誰も音楽で成功した者はいない。
いや、一人いる。
作詞担当だったキーボードは、その感性の良さで作詞家になっている。
作詞家になった今も、キーボードだけは弾いているのかな?
などと過去の写真を見ながら笑ってしまう。
時計を見ればもう直ぐで今日が終わろうとしている。
明日は遅番だ。
だからと言って深酒をする訳にはいかない。
彼は食器を片付け、布団の中に潜り込む。
職場に行き、時間がくれば、その日の晩御飯をマーケットで買い、家に帰る。
そんな毎日だ。
時々、居酒屋へ寄る。
そこの店員の女の子が、今の彼のお気に入りだ。
見ているだけ。
そんな毎日の繰り返しの中、彼の住んでいるアパートの玄関に備え付けてある小さな赤い箱に手紙が入っている。
ポスティングのチラシ以外には何も入ったことのないポストに自分宛の手紙が入っていた。
彼はシャワーも浴びずに、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと封筒を開ける。
そこには、
「やあ元気でやってるかい? 前に皆んなで会ったのはいつだったろうか? 小さな同窓会みたいで楽しかったね。また何年振りかで会いたいね。そうそう、ガソリンスタンドはどうだい? 楽しんでやっている、なんて言わないでくれよ。お前には似合いそうもない仕事じゃないか。少なくとも俺はそう思っているよ。ところで、あの頃を思い出してね、詩を書いてみたんだ。よかったら読んでみてくれ。いや、できれば、あの頃のように、曲をつけてくれないか? お前の曲が欲しい。プロに再挑戦しろ、なんて言っているんじゃない。そんなことを言っちまったら断るだろ? 時間が空いた時で良いんだ。そして録音して送ってくれないか? 大丈夫だ、どこかのプロダクションに送ろうなんて思っちゃいないよ。聞きたいだけなんだ、あの頃の、俺たちの曲を、それだけなんだ。きっと皆んなで会おう。その時、また音を合わせてみたいね。でも、くれぐれも言っておくけど、あの頃みたいに一緒にやろうって誘っているんじゃない。元気でいてくれたら、それだけで良いんだ。それじゃ、また。
アマチュアのキーボード担当、プロの作詞家より
追伸:あの時のステージネームは覚えてくれているかな?
シャイニーより」
彼はビールを一気に飲み干すと、手紙を封筒に戻し、シャワーを浴びに行く。
そして、毎日変わらない人生のリフレイン。
ある日、また彼は、いつもの居酒屋へ寄ってみた。
明日は休みである。
いつもより、少し、酒を増やしてみたい。
そして、お気に入りのアルバイトの女の子に注文する。
「いつも最初はビール、そして焼酎オン・ザ・ロック、最後にまたビール。そして肴の最初は野菜サラダ、ですよね」
「覚えてくれていたんだ」
「サラダは体に良いと思うけど、お酒はほどほどにしないとね」
「ああ、そうだね、ありがとう。で、まずは、ビールを」
「はいはい、毎度ありー」
酒も程よく入ってきた頃、
「ねぇ、サラダ以外に体に良いものってなんだろう?」
彼はお気に入りの女の子に尋ねる。
「そうねぇ、お酒をここでおしまいにして、デザートにフルーツなんてどうかしら?」
「そんなのメニューにあったのかい?」
「ないわ、でも美味しいフルーツパフェのお店なら知ってるわよ」
「いいね、ここでお酒の注文をやめたら、紹介してくれる?」
「ええ、連れて行ってあげようか?」
翌日なら空いていると彼女は言う。
それなら自分も非番だからと互いにO.K.と話が決まる。
そしてその日の朝。
いつも作業服しか着ていない男が、箪笥から服を取り出すが、どうもロックぽくなってしまう。
こんな服装は、彼女に合わないだろうな。
などと仕方なく、その出立で約束の場所へ行く。
約束の場所に彼女は既に来ており、
「ごめん、遅刻かな?」
「ううん、まだ時間前、まずは約束を守る男として合格。付いてきて」
彼女がやや前を歩くような形で、お目当ての喫茶店に入り、約束のフルーツパフェを二つ注文する。
注文の品がやって来ると、
「うう、こんな量を一人で食べるんだ」
まるでどんぶり鉢に、これでもか! 見た目は綺麗に装飾されているが、と盛られたような量である。
「良いじゃない、これが私のお昼ご飯」
「うん、確かに、デザートっていう量じゃないよね」
そんな会話から、世間話になり、少しづつパフェが減っていく。
「こんな格好でごめんね」
「いいよ、作業着以外は、そんな服装だろうなって思っていたから」
「ええ!」
「音楽やっていたんでしょ?」
「分かるんだ? 売れなかったけどね。てか、プロになれなかった」
「もう、諦めたの?」
「ああ、生活しないとね。ちゃんと給料を家庭に持って帰って、ささやかな幸せを守る。幸せってそんなもんだと思う」
「そうね、それも良いことだと思うわ。でも、私、夢を追っている人って好きなんだな」
「もう、諦めたんだ」
「その服装、素敵よ」
店の壁面に埋められたスピーカーからはラジオの放送がかかっている。
一瞬、会話が途切れ、彼はラジオのD.J.の声を耳にする。
「さて、次に紹介する曲は、作詞家でありながら、歌手としてデビューすることになったこの方です。では、どうぞー」
静かに曲が流れ出し、聞き覚えのある懐かしい声がする。
「シャイニー・・・だ」
彼は呟く。
「え、いま、なんて言ったの?」
「いや、何でもない」
その日、彼は家に帰ると随分前に届いた封筒から手紙と一緒に入っていた歌詞を取り出す。
読んでいるうちに、いつの間にかギターを掴んでいた。
その日から暫くして、彼のアパートに手紙が届いた。
「やぁ、元気そうじゃないか。曲を入れたCD、ありがとう。でも随分時間が掛かったな。手を出せばすぐに曲ができてしまうような男だ。取り掛かるまでに時間が掛かったみたいだね。まぁ、良い。あの頃のままだ、良い曲だ。素敵な曲をありがとう。でも、まぁ聞いてくれ。礼を言うために手紙を送った訳じゃないんだ。久しぶりに、あのユニットで会わないかい? 前に会ってから三年振りだ。皆んな、そんなに変わっているとは思えないけどね。場所は溜まり場になっていた店の横にあるガレージだ。その方が店よりも安く済むし、大声で騒げる。飲み物と食べ物は持ち寄りだ。必ず来いよ!
シャイニー」
約束の日、彼はガレージの中に入って行く。
溜まり場になっていた喫茶店の横のガレージ。
以前は、大型トラックが何台か入っていたと思う。
だが、そのガレージの中に入るのは初めてだ。
「随分広いな」
と思うと同時に腕時計を見ると約束の時間をほんの少し過ぎている。
「あいつら、相変わらず、だな」
そう呟くと大きな排気音が聞こえる。
「あれ、このガレージは、今は空いている、とシャイニーが言っていたはずだけど」
トラックがガレージの前に止まると、積荷をおろしだし、どんどんとガレージに運ばれていく。
P.A. スピーカー、キーボード、ドラムセット
「どう言うことだ」
彼の思いが声になり唇から漏れた。
そして、荷物のセッティングが始まり出すと一人の男が慌ただしく入ってくる。
「シャイニー」
「おう、すまんすまん、遅れちまったな」
「どう言うことだ」
「まぁ、そう怒るなって、せっかく俺とお前のゴールデン・コンビで作った曲だ。皆んなで合わせてみようってなってな」
「訳がわからん」
そう言うと首の長いギターを肩に担いで入ってきた者がいる。
「よう」
「よう、サラリーマン」
「お前ら」
「あとはドラムの鉄ちゃんだけだな」
「いや、ギターのリッちゃんがまだだ」
「あいつは、いつも一番遅い。どうも独特の時計を持っているようだ」
ドラムが現れると、早々に音合わせが始まる。
そしてやっと、ギタリストが加わる。
音合わせと言ってもその場でアレンジをして行くから、それなりに時間が掛かる。
やっと曲ができた頃、
「熱いな」
と誰かが呟く。
「そりゃそうだ、冷房なんてないからな」
「ガレージ、開けるか」
「そりゃ、まずいだろ」
「そうか? 俺たちの新曲をタダで聞かせてやろうってんだぜ」
「単なる騒音だよ」
ガレージのシャッターが上へと昇っていく。
まるでステージの始まりのように。
そして演奏が始まった。
殆どの人が、怪訝な顔をして通り過ぎて行く。
そんな中で一人の子供が立ち止まってガレージの中を覗き込んだ時、数人の若い人たちが集まり出した。
人が人を呼び、手拍子を打つ者、足でリズムをとる者、踊るものまで出てきた頃、赤いランプが見えた。
騒音、近所の誰かが警察に連絡したのであろう。
小さなステージは即座に解散させられ、片付けが始まる。
「楽しかったよ」
「ああ、じゃな」
「またやるか?」
「もう、十分だ」
「ああ、最後のステージさ」
彼は、自分の部屋に帰り、シャワーを浴びて、冷えた缶ビールのプルタブを開ける。
明日は、早出だ。
今日はすぐに寝よう。
また、いつもと変わらない毎日のリフレイン。
そして彼は言う、
「これで良いんだ」
ただ、この街角で起こった騒動を記事にした新聞があった。
その記事は、スカウトマンが彼らを探すきっかけになったことを彼はまだ知らない。
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