第23話 雨生(防人の詩)
防人を命じられた男は断崖絶壁に建てられた粗末な小屋から村へと降りて行った。
見張り小屋に残っているのは難破船の男だけである。
村へ降りると防人は、雨生、と名乗った。
然し、古くから居る年寄り達は、その整った顔を見ると、彼が子供を轢き殺した罪人であることを思い出した。
「ウセイと名を変えても罪は償えまい」
「そうだ。名を変えて生まれ変わったつもりでもいるのか?」
雨生が防人を命じられ、断崖絶壁に小屋を立てている頃、さらに悪い噂となって防人の風聞がその島国に広がっていた。
「あの男は、実は村外れの小娘をたぶらかし、産ませた子供が証拠になってはならないと自ら轢き殺したのだ」
誰が言い出したのかは分からないが、その言葉は定説になっていた。
そんな防人の言う説など誰も耳を貸す者などいない。
「人と人は憎しみあってはいけない、助け合うのでもなく、寄り添うだけでもない。道を外さないように支え合うのだ」
誰がそんな言葉を聞くものか。
雨生に施しなど行う者など今は何処に居るというのか?
雨水を飲み、誰も摘む者もいない雑草を食し、雨生の体は痩せ細っていった。
それでも彼は毎晩、防人小屋に向かって両手を合わせていた。
「私は雨の如く、生きる意味を考えず、ただひたすら教えを説いております」
そんなある夜の事、降り始めた雨音が、人の声となって雨生に語りかけてきた。
「我が弟子よ、今、雨は流れる事を知らず泥沼を作るだけである。その泥に美しき花を咲かせよ。やがて泥は流れ、土となり、水は清流となり、大河に注がれる」
その夜から降り始めた雨は、しとしとと何日も続いた。
降り続く雨の中、雨生は村から昇る煙を見た。
雨は赤く染まり、辺りを明るくしていた。
火事である。
雨生は、寝ぐらにしていた大きな木から跳ね起きると、村へと走った。
「悪い予感がする」
そう呟き、火事場に着いてみれば、一人の女が狂ったように喚いている。
島民達は、そんな女を抑えるのに必死である。
島民の声が聞こえる、
「あの女は、どうしてあんなに騒いでいるのだ?」
「あの家の中、子供一人、逃げ遅れたようだ」
その言葉を聞いた若者が雨で濡れた衣服の上からさらに井戸水をかぶり、燃え盛る家の中へと走っていったが、炎の凄まじさに耐えきれず、程なく引き返してきた。
「諦めるしかない」
そう男がつぶやいた横を疾風のごとく家に飛び込んで行った者がいる。
雨で濡れているにも関わらず、更に泥を身体中に塗り、まるで泥人形が燃え盛る家の中へと入って行くようだ。
そして、やはり、程なくして男は炎の家から飛び出して来た。
ただし、一人の幼児を胸に抱き締めて。
「急げ、柱が倒れる」
「早く、もっと早く走れ」
島民達の歓喜の声援が聞こえる。
然しながらも、燃え盛る柱が焼け焦げ、とうとう倒れた時、男の背中に当たった。
それでも男は幼児を離さず、抱き締めたまま炎に包まれた柱の下から這い出て来た。
「この子を、早く、まだ生きている、早く」
そう言い終わると男は仰向けになり両手を力なく雨に濡れた泥の中に垂らした。
「おお、奇跡だ、奇跡が起きた」
「あの炎と煙の中、幼児が生きていたなんて」
「なんと言う生命力だ」
島民達の口々に上る声の中、一人の島民が静かに、それでもしっかりした声で言った、
「この男は、あの罪人ではないのか」
その声を聞いたもう一人の島民が近寄ると、
「防人だ」
その隣の男が言う、
「確か、雨生、と名乗っていた」
「おい、見ろ」
と叫んだ男が雨生の胸を指差す。
はだけた胸元は譬へどんなに泥に塗れていようとも、どんなに灰を被っていても、盛り上がった二つの丘が有るのが分かる。
「防人は女だったのか・・・」
「女が女に子を産ませることなどできるものか」
「私達は、なんという罪を犯してしまったのだ」
既に息途絶えた雨生は笑うこともなく悲しむこともなく苦しみさえも忘れ、泥の中に身を横たえたまま、まるで大地と同化しているように、泥の中の一輪の花のように、まだ降り止まぬ雨の中で咲いていた。
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