第17話 新入社員



 新しく勤めるべき会社から合格通知も受け取り、今日の研修が終わると、彼は引っ越し先の古いマンションへ戻ろうとしていた。


 夕暮れ時である。


 大通りから細い路地へ入ると、若い男達三人が何やらたむろしている。

揉め事に関わりたくない彼は見知らぬふりをして通り過ぎようとする。


「お願い、助けて・・・」


 彼は自分が呼ばれたような気がするが、厄介なことには関わりたくない。

目を伏せ目にし、通り道だけが見えるように歩き過ぎようとするが、見れば助けを求めて来た女性の足元には白い杖が。


 盲目か、と彼は思う。

そして、仕方が無い、と口の中で呟くと、


「君たちさ、正義とか何とかは言わないけどさ、体の不自由な人を揶揄からかうのは、どうもねぇ」


 壁際に追い詰められている娘の目は開いているが、焦点があっていない。

それでも、娘の顔はうかがえるし、決して妖艶とか美人などとは言えないが、化粧をしていなくとも美しさがあるのは分かる。


 こいつら、目が不自由なことを利用して、娘を連れ去ろうとしているな。

と、それくらいのことは推しはかれる。


「何だと、お前には関係ないんだよ」


 舐められたものだ、と思う。

紺色のスーツに白のシャツ、どこからどう見ても普通のサラリーマンにしか見えない。


「とっとと失せな」


「それが・・・、弱いものいじめは、ちょっとねぇ」


「お前、やる気かよ」


「いや、やりたくはない、やらない代わりに、その娘を離してやってくれないかい?」


「ふざけた野郎だ」


 相手は殴りかかろうとするが、彼は軽く左手でかわすと同時に、左足を外側へ回し、彼の右手が相手の懐に入ると胸骨目がけて見事に掌底が決まる。


 相手はふらふらと後ずさると、次の相手が蹴りを入れて来る。

彼は咄嗟にその蹴りを膝と肘で挟み込む。


「しまった・・・」


 と呟くと、相手は脛を抱えてピョンピョンと片足で跳ねている。


 鈍い音がしたな、骨にヒビが入ったか、と彼は思うが次の相手が襲いかかってくる。

体を低くして肩からぶつかろうとしているようだ。

そのタックルに対して、彼は軽く右膝を上げる。

それだけだ。

彼が軽く上げた膝が見事に鼻に炸裂し、相手は鼻血を出しながらうずくまる。

今度は鼻梁を折ってしまった感覚が膝から伝わる。


 彼はすぐさま、娘の手を取り、その場所から引き離そうとする。

礼は言わせない。

動きがあまりにも早く、目が開いているものでも何が起こったかわからない。


 ある程度その場所から離れると、彼は娘に自分の名前、住所、働いている会社の名前を告げた後に、家まで送ろうと言う。


 最初は、どうしようか迷っていた娘も、こんなことが起こった後なので、静かに頷き、


「お願いします」


 と小さな声で言う。


 ただ、一つ気になった事は会社の名前を出した時に、娘の頬が引き攣ったように見えた事である。

娘を家まで送り届けると、彼の仮住まいの近所であったことが分かる。

このマンションも、また古い。


 扉を開けて出て来たのは中年を越えたであろうくらいの女性であった。

暮らし向きは、それほど良いとは思われず、髪はなんとか纏めて、服は着古しているにも関わらず、それなりに整えられている。


 これが上流階級の女性であれば、髪を綺麗にセットし、常に流行りの服などを着て、さぞかし艶やかであろうと見える。


 娘は父親似ではなく、母親似か、と思う。


 それでも、娘の母親は最初は訝しげであったが、娘から事情を聞くと、態度を一変し、お茶でもと誘う。

 彼は、その日は辞退し、母娘に別れを告げる。



 会社では、彼の噂が出始める。

仕事ぶりは良く、任せた書類は相手を待たせない。

取引先では、彼の精悍な目を見れば誠実さが分かるくらいだと噂になる。

勤めて半年足らずで社内、社外で噂に登るほどにまで成長している。


 その日は残業もなく、久しぶりに定時に帰宅しようと、帰り道を歩いていると、いつかの娘に会う。

母親も一緒である。

スーパーマーケットの帰りであろうか、結構な荷物を母親一人でぶら下げている。


 彼は駆け寄り、


「こんにちは」


 と声をかけながら、荷物を持とうとするが、それは悪い、と断られる。


 それでも彼は、無理にでも奪い取るような形で荷物を預かる。


「悪いわね・・・」


 と母親が言うが、それに続いて娘もにこりと笑い


「ありがとうございます」


 と言う。


 帰り、道すがら、互いのことを話し出す。


 相手は、母一人、娘一人、娘は見ての通り視力を失って久しい。

それからは、母親が一人で働き、家事もこなし、ここまで娘を育ててきたと言う。


 どうりで、暮らし向きが芳しく無いはずだ、と彼は思う。


 そして、彼も同じような人生を送っていると言う。

若い頃に父親の働いていた会社が乗っ取られ、その会社の社長だった父は途方に暮れて自死。

その後は、母親の努力と愛情で育てられ、なんとか大学を卒業できたこと。

そして、その母親も苦労が祟ったのか、今は寝たきりに近い状態であることも伝えた。


「互いに苦労をしていますね。何かあったら相談してくださいね。なぁに、貧乏人は支え合わなければ生きていけないものですから」


 いつの間にか、ほんの数十分で気さくな仲になっていた。


 

 その日から、お互いに貸し借りが始まった。

やれ醤油がない、やれ味噌がない、米が底をついた。

など、昔の貧乏長屋さながらである。


 彼が残業で遅くなった時などテーブルの上を見ると、娘の母親が夕飯を持って来てくれたタッパーが置いてある。


「いえね、作りすぎちゃってさ、余り物なんですよ」


 彼が働いている会社は、それほど薄給ではないが、病人である母親の診療費が家計を切迫する。


 彼は1番の出世頭と言われているが、出世するまでは共に入社した同僚と給料が変わるわけではない。



 田中雅俊、田中商事株式会社の社長である。

彼の働いている会社の准最高責任者である。

田中雅俊の義理の父親、田中晴雄が会長として君臨している。


 雅俊は大学を卒業して、この会社に勤め営業成績が良く、そして当時人事課で働いていた社長田中晴雄の娘に見染められ、結婚に至るが、当時の雅俊には結婚を約束までしていた大学時代からの付き合いのある女性がいた。

この会社の社長になれる、出世欲の方が優った。


 「社長、例の件ですが、興信所の方から連絡が入りました」


「で?」


「はい、見つかりました。こちらが母子の住んでいる住所です」


 そう言って雅俊の秘書はメモを渡す。


「うん、ありがとう。で、暮らしむきの方は?」


「かなりの貧困のようです。娘の方は小学生の頃に高熱にうなされ、命は取り留めたものの視力の方が徐々に衰えていき、今では盲目のようです」


「母親一人の力で育ったわけか」


 雅俊は秘書が出ていくと高いビルの窓から外を見る。


 現社長、雅俊には子供が居ない。

後継者が欲しい、そう思っている。

できれば、学生時代に付き合っていた彼女と、孕っていた彼女の子供を養子に迎えたい、できることなら、自分の半分の血を受け継いでいる子に会社も受け継いでほしい、そう思っていた。

しかし、その子は娘であった、そして今は盲目。

それでも雅俊は、諦めきれなかった。

彼女の娘なら、容姿は淡麗、そして自分に言う資格はないが、きっと優しい。

ならば、養女として迎え、誰かと結婚させれば良いのではないか?

まさに、地獄の鬼のような発想である。

それで相手は?

そう言えば最近入ってきた新入社員がなかなかの凄腕であると聞いている。

年齢的にはちょうど釣り合いそうだ。


 彼に会ってみたい、そう思った。



 ある日の夜。

娘のマンションの下を救急車が通り過ぎる。

娘は胸騒ぎを覚え、母に言って外へ見に行ってもらう。


 案の定である。


 娘の母親が見に行った先で、彼が救急車の横で立っている。


「どうしましたか?」


「ええ、急に容体が悪くなりまして、病院に行ってきます」


 彼は、そうい言うと救急車に乗り込み母と共にその場を去って行った。


 数日して、彼があいさつにやって来る。


「その節は、ご心配をお掛けしました。お陰様で退院もでき、今では部屋でいつものように寝起きしております」


 娘の母親は、


「それは良かったことですが、万が一にも貴方が会社に行ってらっしゃるときに、また同じことがあったら大変です。差し出がましいことは重々に承知しておりますが、こちらに引っ越しなさいませんか? 私も働きに出ておりますが娘が居ます。こんな状態の娘ではございますが、何かあれば救急車を呼ぶことくらいはできます、どうか気兼ねなくお考えくださいませんでしょうか?」


 時は流れ、彼の母親は、母娘の世話になっている。

娘は、目が見えないなりにも、彼の母親の世話を喜んでしているように見える。

その気持ちは互いに通じ合い、語らずとも通じ合う気持ちが生活に滲み出てくる。


 ある日のこと、娘はお茶を入れて母親の寝間へと運ぶ。


「いつも感心して思うんですけど、上手にお茶を淹れて、運んできてくださる」


「自分の家ですから」


「息子の嫁も、貴女みたいな人が来てくれたら、と思うのですけど」


 娘は、私の母も同じ考えです、と言いそうになったが、グッと堪えて言う、


「どなたか、お付き合いしている人はいないのですか?」


 それも、差し出がましい質問であったと娘は下を向く。


 彼の母は、お茶をグッと飲み、


「美味しい」


 と一言呟くと


「あの子はなね、女の人に興味がないんですよ」


 娘は、何気ない顔を装いつつ、彼の母の話を聞く。


「こんなにお世話になって、私たちの過去を話さないのも水臭いのかな? と思って言うのですけど」


 彼の母は、肩の力を抜いて静かに語り出す、


「既に息子から大まかな話は聞いていることと思うのですけど、多分、肝心なことは話してはいないと思うのですよ。だからね、言うのですけど、私たちがここへ引っ越してきたことには理由があるのですよ。実はね、仙台に住んでいてね、息子は東京で仕事をしたいから引っ越ししようって言うの。私は反対したわ。病気のせいじゃないの。そこの会社の名前を聞いた時、それはいけない事だと何度も諭したけど一向に聞かないの」


 娘は言う、


「田中商事」


「あら、息子から聞いていたのですね」


「あ、はい」


「本当にしょうがない子です。あの子の父親は、一人で会社を立ち上げた、下古沢工業って言う名前。そして一生懸命働いて立派な会社に育てましたの。そんな時に株を買い占められて、社長は首、そして気に病んだ夫は首を括ったの」


 そこまで言うと、彼、下古沢 洋二の母は首を左右に振りながら、


「あの子が一生懸命田中商事で働いているのは、任された重要な案件を全て台無しにして会社に大打撃を与えようとしているからなの、今の時代に敵討ちじゃあるまいし」


 下古沢 洋二 の母は、湯呑みをお盆の上におこうとした時、その手を探るようにして差し出された白い手が見えた。


 彼女は、その震える手を見て、自分からも手を差し伸べて娘の手をしっかりと包んだ。


「お話を聞いてくれて、ありがとう。本当に馬鹿な息子ね」


 その言葉を聞いて娘が震える声で言う、


「田中商事の社長は、私の実の父です。私たち親子を捨てた男です」


「なんて、偶然なの・・・」


 そう言うと洋二の母は流れる涙を堪えようともせずに 水越 玲奈 の肩に手を回すとしっかりと抱きしめた。


 そして、開いたまま閉じることもできない玲奈の目からも止め処なく、涙がこぼれた。


 


 古いマンションの下の道に、似つかわしくない黒塗りの高級車が停まる。


「社長、では、行ってらっしゃいませ」


 運転手が言う、


「ああ、話はついているから、直ぐに戻る。待っていてくれ」


 そう言い残すと田中雅俊は運転手が開けた扉からアタッシュケースを手に持ち、車から出る。


 マンションの鉄の階段を登り、コンクリートの廊下を歩きながら表札を探す。


 水越、と書いてある表札を見つけると、彼は呼び鈴を押す。


 中から出てきた女性は、昔とは変わって苦労でやつれた顔をしていた。

それでも、面影は残っていて、当時のことを思い出させる。


「久しぶり、です」


「そんなところで突っ立てないで上がれば? 安物のお茶で良かったら、どうぞ」


「申し訳ない」


 そう言うと、田中社長は、小さなテーブルの前に座り、差し出されたお茶を飲む。

そして、アタッシュケースを開けると、


「約束通り、一千万ある。さらに生活の援助もするつもりだ。玲奈を養女に迎えたい」


「そうですか」


「二人暮らしと聞いていたが?」


「ええ、そうですよ。もう一人は奥に居ます」


「会っても良いかな?」


「ええ、どうぞ」


 雅俊は、襖を開けると。そこには一人の髪の長い女性が横になっていた。


「玲奈・・・?」


 と声をかけると、


「え? どなた様でしょうか?」


「どう言うことだ」


 と雅俊は声を荒げながら、水越玲奈の母、涼子に詰問する。


「今は此方の女性と住んでいるの。貴方が会いたいって言うから、会わせてあげただけですよ」


「玲奈は、どこだ」


 そこへ、奥で寝ていた女性が起き上がると、答える、


「申し訳ありません。覚えていませんでしょうが私は下古沢工業社長の妻、洋子でございます」


「それがどうしたと言うのだ、玲奈はどこだと聞いているんだ」


「そのことでございます。玲奈さんは、この家を出て行かれました。今は、何処に居るのかさえ分かりません」


「説明してもらおうか」


「はい、私の息子の洋二と駆け落ちいたしまして。考えても見てください、卒業して立派な会社に勤め始めたばかりの世間知らずな若造、そして相手は盲目の娘、となると私たちが反対するのは当然ではないでしょうか? それでも、私たちは夢見るのです。何処かの町で幸せに暮らしている二人の笑顔を。今となっては、立派な会社に勤めていなくとも愛という幸せを選んでくれた二人には感謝しているくらいです」


「馬鹿な・・・」


 そう言った雅俊であるが、玲奈を養女に迎えた挙句は、あわよくば結婚させようとしていた凄腕の若手社員が 下古沢 洋二 であることを知る由もない。


「ええ、社長さまには分からないでしょうね」


 その向こうでは、玲奈の母が俯いて涙を流している。


 玲奈の誠心誠意の言葉、


「私は養女に迎えられ望まない結婚をさせられる。でも洋二さん、あなたはだけは敵討ちなど考えないで自分自身の幸せを掴んで欲しい」


 という懇願に、洋二が応えた結果であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る