第15話 暖かな膝の上で
仕事を辞めた今、彼は愛犬を膝の上に乗せ、少し色褪せてきた愛犬の長い毛を撫でている。
目の前にはノートパソコンがあり、その横には既に冷めきっている珈琲がある。
彼の愛犬は、「来てはいけない」と言っているにも関わらず、2階にある書斎まで登って来ては、散歩に連れて行けと言わんばかりに、
「ワン」
と大きな声で鳴いていた。
それはそれで良いのだが、彼が机の前から立ち上がると、先を急ぐように自ら階段を降りて行く。
以前勤めていた研究所の獣医に聞いたたことがある。
「そうですね、脊髄損傷を一番起こしやすいのはダックスフンドですね。階段から転げた時に「キャン」と鳴いて、それまでですよ」
彼の膝の上でゆっくり休んでいる愛犬も、ダックスフンドである。
そして数ヶ月前に階段から転がり、今は前足しか動かない。
その注意を促してくれた獣医の専門は犬の脊髄損傷である。
骨髄中単核細胞を患部に移植することで車椅子に乗っている犬を歩けるようにしたこともある。
然し、研究チームの上司と上手くいかず、チームを去り、今は開業医として流行っているようだ。
彼自身も同じ上司と上手くいかず研究所から去っている。
彼は、相変わらず後ろ足の動かなくなった愛犬の毛を撫でていたが。
そう言えば、と思い出す。
「先生のワンちゃんが脊髄損傷を起こすようなことになれば、無料で治療をさせてもらいますよ」
そう言ってくれた獣医とも既に会わなくなって10年くらいになる。
しかも、都心に動物病院を構えており、片田舎に引っ越した彼の家からは片道で数時間もかかる。
ふとパソコンの時計を見ると、彼は、
「もうこんな時間か」
と呟く。
彼の妻は、今、仕事をしていない彼の為、家族の為に働きに出ている。
彼は、洗濯物を取り込み、次はご飯を炊かなければならないと、愛犬を膝の上から床上の暖かい敷物の上に移動させる。
出来るだけ静かにと敷物の上にゆっくりと置いてあげると、つぶらな小さな目が、もう少し膝の上に居たかったと言いたげに彼を見つめていたが、やがて前足だけで体を起こし、部屋を出て行く彼の背中に向かって、
「ワン」
と小さく鳴いた。
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