第13話 花心
小料理屋、花心、に二人の見習いが入ってきた。
一人は高校卒業で、すらりと背が高く、顔も良い。
父親も小料理屋の経営者で、跡は継いで欲しいものの大学は卒業してくれるように思っていた。
然し、一流の料理人になるのなら、大学の学問よりも料理の腕前に専念するべきだと息子に説得され、跡目を継ぐ為に、この町では5本の指に入ると言われている花心に修行に行かせることにした。
名を
もう一人はと言えば、冴えない風貌で背も低く苛めに合いそうなタイプである。
中学卒業。
家は貧乏で、私立の高校へ行くくらいなら働いてくれと、住み込みで働ける花心に住まわされることになる。
元々料理に興味がある訳でもなく、更には不器用である。
名は源次。
二人とも名前だけで言えば、昭和初期以前のような名前である。
正四郎は見た目も良く、更には器用であったので兄弟子達からは可愛がられる。
そして何よりも、老舗の小料理店の跡目、仲良くしていれば何かあった時に彼の店で雇ってもらえるかもしれないという下心がある。
一方、源次と言えば、うだつの上がらない顔で、無口、不器用、とくれば苛めの対象にしかならないような存在である。
但し、この男、とにかく生真面目である。
この店には、板長、つまり経営者に娘がいる。
小学生高学年。
見るからに可愛らしい容姿で誰からも好かれている。
もちろん性格も明るく、誰もが声のひとつでも掛けたくなる。
名を凛と言う。
その少女は源次の事が好きで、よく遊んでもらっていた。
ある日、店の裏で源次が泣いていると、
「源ちゃん、どうしたの?」
と少女が尋ねてくる。
「ああ、凛ちゃんかい。うん、なんでもないよ」
「嘘だよ、泣いてるじゃない。私で良かったら聞かせて?」
源次のことなど構ってくれる人のいないこの店で、この幼い少女だけが慰めようとしてくれている。
それだけで源次はより切なくなって涙が溢れ出す。
「いや、本当になんでも無いんだ」
そう言いながら、庭木に水をやるための水道で勢い良く顔を洗うと、にこりと笑い板場へ戻る。
この日の事、正四郎に頼まれた飾り包丁に挑戦してみたが上手く行かない。
決して、源次の所為ではなかった。
渡された飾り包丁用の白い大根が乾涸びていては包丁が進まない。
正四郎と兄弟子達が仕組んだものである。
正四郎と兄弟子達は横でヘラヘラと笑っている。
この日からが苛めの始まりである。
正四郎はメキメキと腕を上げていく。
兄弟子達も追い越しそうな勢いだ。
その一方で源次は、ひたすら飾り包丁などの練習をこなしている。
正四郎ほどでもないが、なんとか店では使い物になるようになっている。
この頃ぐらいからか。
明らかに、源次への態度が変わってきたのは。
凛は中学生、高校生となるうちに源次が疎ましくなってくる。
見掛けも悪ければ、無口、不器用、生真面目だけの男である。
少女は、見た目も良く、明るい笑顔の正四郎に惹かれていく。
なんと言っても料理の腕が良い。
小料理屋では、もしかしたら自分の店へ帰らずに、ここで板長になるのではないかと噂されている。
その噂話を聞くと、女子高生の彼女は、もしかしたら正ちゃんと結ばれるかもしれないと夢見るのである。
少女が高校を卒業し、大学に入った頃である。
その態度が明らかに変わったのは、この店の板長代理を務めてほしいとの話が出た時である。
花心の板長は暖簾分けでも良かったのだが、それでは跡目を育ててほしいと言った向こうの小料理屋に申し訳が立たない。
正四郎は正四郎で、評判の娘を自分のものにする事ができるかもしれない、そんな思いを持っている。
正四郎は、この店の娘欲しさも加わり、当家の店も大切ではあるが、後継の居ない花心を守りたいと父親を説得した。
向こうの店と花心の板長兼経営者は昔、共に苦労した修行時代がある。
話は纏まった。
娘の大学卒業と共に、板長代理、婚姻の儀が整った。
源次は結婚式には参加しなかった。
呼ばれなかったのではない。
「お前みたいな奴に来てもらっても式が白けてしまう。招待状はお情けで出してやるが、断るんだ。分かったな」
源次もそう言われれば仕方ない。
自分の最高上司になる板前からの命令である。
式も終わり、少ししてから、小料理屋で宴会が行われた。
新しい板長になるべく料理人、正四郎のための酒宴である。
正四郎のたっての願いで、この席には凛も座ることになっている。
白無垢とは言わないまでも美しい着物姿である。
酒宴に行く前に着物姿に着替えた凛は自分の部屋を出る。
源次と廊下で出会う。
「凛さん、綺麗だよ」
そう言った源次を横目で見て凛が言う、
「ありがとう」
店は大繁盛である。
正四郎も懸命に働いた。
そして、この店の評判の女将。
その姿を見るだけでも良いと客足は伸びるばかりであった。
諸行無常。
そんなある日、正四郎が歩いていると、工事現場の足場から重いものが落ちてきた。
足場を作るためのパイプである。
落ちてきたパイプは、見事に正四郎の利き腕、右肩を襲った。
店に出れない正四郎は次第に腐っていく。
酒に溺れるようにもなり、博打も打つようになる。
不幸せとは一度に訪れる事が多い。
そんな中で総板長であった凛の父親が亡くなる。
以前から胸の調子が悪いと言っていた総板長は肺癌であった。
入院した時は既に遅し、末期癌であった。
もう未来がないと諦めた向こうの店では、正四郎を引き取ることになる。
「こんな奴がいては、あなたも不幸になって行くだけだ」
が向こうの言い訳である。
もちろん離縁である。
そうなってくると、板前も店を後にしだす。
全ての職人が向こうの店に雇われることになった。
さらに不幸が凛を突き落とす。
脳出血である。
半身が動かなくなる。
店は、残った源次と女将だけでなんとか切り盛りできたいたが、名物女将がいたおかげであったとも言える。
その女将も今は居ない。
店は手放さなければいけなくなった。
二人で店を出る。
借家も隣同士の二つを住まいにする。
源次は、身寄りのなくなった凛を支えるが、元々腕の立つ職人ではなかったため、一般食堂のアルバイトで稼ぐ。
それでも、凛の病院代には足りず、ふたりで一室を間借りすることになる。
凛は半身が動かないにも関わらず、掃除、洗濯、料理、と懸命に働いて源次を支える。
昔で言えば貧乏長屋の一室のようなアパートで。
ある日、凛が源次に呟く、
「こんな私で、ごめんね」
「俺は、凛さんのためだったら頑張れるよ。覚えていないかい? 俺が庭で泣いている時、声をかけてくれるのは凛さんだけだった」
「ええ、覚えているわ。源次さん、泣き虫だったものね」
「ああ、そうだなぁ」
「でも、みんなが店を出て行く前に噂話で聞いたことあるの。全部、正四郎が仕組んだことだったんだって。私、馬鹿だったわ」
「そんなことないよ、凛さんは、いつまで経っても俺の女神みたいなもんなんだ」
暫くして、凛が沈んだような顔をして、それでも笑顔を作りながら源次に言う、
「ねぇ、花心、どうなっているかしら? 見に行ってみない?」
「うん、いいよ。凛さんがそう言うんだったら」
二人は身支度を済ますと安アパートを出て行く。
杖をついて歩く凛をしっかりと源次が支えている。
やがて店の前に着くと、店の名前は変わっているが作り門構えは変わっていない店の前で二人立ち止まる。
「変わっていないわね」
昔のことが走馬灯のように思い出されたのであろう、源次の目がかすかに潤む。
「ええ、変わってなんかいない」
「あなたの気持ちも?」
「どうしたんですか?」
「ねぇ、源ちゃん、あの向こうでよく泣いていたんだよね」
凛が店の奥を健康な方の指で指し示す。
「そうなんだよな、泣き虫は今も変わっていないな」
「ねぇ源ちゃん? 凛ちゃん、って、あの時のように呼んでくれない」
「いいけど・・・」
「じゃ、言って」
「今更? 恥ずかしいな、でも、凛ちゃん」
「なぁに、源ちゃん」
源次は凛の美しい顔を眺める。
そして凛が言う、
「このまま、ずっと、一生一緒にいてくれる?」
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