第47話 穢れ

「どういうこと?」

「今から十三年前、魔王が『穢れ』を広め、世界を混沌に導いた」


 ロフの言葉と共に、彼の手に現われたのは、一冊の本だった。魔王と聖女のことを記録した書。『穢れ』で人々が苦しみ、聖女が現われたことが記されているものだ。


 著者名には記憶があった。前世で数度取材を受けたことがある。


「私が知る知識はその程度です。私はあなたに会うまで北の地から出ることもありませんでしたから」

「魔王の全盛期の力なら、北の地からだってどうこうできるんじゃないの?」

「ええ、それはもちろん。しかし、私に人間を滅ぼす理由がありません。人間が滅んでもなんの利点も思いつきませんし」

「それは……。そうだけど」

「そもそも、本当に滅ぼそうと思っているのであれば、このようなまどろっこしいやり方はしません」


 ロフは、笑みを浮かべた。『穢れ』のようにじわじわと命を蝕むようなことはしない。彼はそれが可能であると言っているのだ。


 しかし、その言葉は妙に説得力があった。


「もちろん、そのつもりはありませんよ。ご安心ください。私の望みはお嬢様と共にいることですから」


 リリアナはこめかみを押さえた。人類の敵になることはないようだけれど、この先ずっとこの執事が側にいるということだ。


「待って。って、ことは、私は無関係の魔王に喧嘩を挑んだことになるの……?」

「そう解釈してよろしいかと。私にとっては実によい出会いでしたので、気に病む必要はございません」


 ロフは、絵に描いた執事のように胸に手を当てる。


 前世、聖女は『穢れ』の原因が魔王であるという話を疑わなかった。魔王さえ倒せば、世界は平和になり、見続けた悪夢から解放されると信じていたのだ。


 魔王が原因だと聞かされたのは、両親を『穢れ』で亡くした直後だった。たった一人で恐怖と戦ったのは、両親の仇を討つつもりだったからだ。


 ロフの証言が本当であるならば、突然現れた聖女が大暴れたしたことになる。


 彼の言葉をまっすぐに信じていいものかはわからない。しかし、あながち嘘であるとも言えないのではないかと思っていた。


「もし、本当なら……ごめんなさい」

「謝られるようなことはされておりません。ただ少し戯れあっただけではありませんか」

「その言い方にも語弊があるんだけど。私は結構必死に戦ったんだけど!」

「聖女の力に目覚めて数年ですから、力に差が出るのは仕方ありません」


 ロフは笑みを絶やさない。まるで幼い子どもを相手にしているような態度で、彼はリリアナの頭を撫でた。


 ルーカスと同じようにゆっくりとした手つき。大きな手のひらが左右に揺れる。その手の温もりに少しばかり安堵してしまったことに羞恥を覚えて、リリアナは小さく咳払いをした。


「話を戻さなきゃ」

「はい。病気の治療のために来ている人がいるんだっけ? また、『穢れ』が現われたの?」

「いいえ、本に記録されている『穢れ』と呼ばれる病のような症状の者は、現在現われておりません」

「そう。じゃあ、今いるのは?」

「おそらく、『穢れ』ではない病でしょうね」

「そっか。なら、私には関係ないからいいや。でも、ずっと居座られるのは迷惑だよね」


 数日ほうっておけば、諦めて帰るだろうか。しかし、そのあいだ屋敷の者たちは不便である。あの人だかりを追い払ったところで、家族が平穏な生活を送れる確率は一割にも満たないわけだが、屋敷にいるときくらいは寛ぎたいものだ。


 リリアナはもう一度カーテンの隙間から外を眺めた。


「ねえ、ロフ。私をあそこまで連れて行って」

「あのようにうるさいところへ?」

「そう。とりあえず、私の顔を見ただけで満足する層が八割いるんでしょう?」

「しかし、その話を聞いた人間がその八割を満たしますよ?」

「まあ、そうなんだけど」


 リリアナは苦笑を浮かべる。


(優しいお父様では、対処できないだろうし)


 ルーカスは笑みを失い、人形のように感情を見せなくなってはいるが、元々優しい性格だ。苦しむ領民のためならば、少しくらい自分の懐を痛めることも厭わない。そんな人だ。だから、善良な民を無下に追い払うことはできないだろう。


(元々自分で蒔いた種だもの)


 リリアナはロフを見上げて、両腕を伸ばした。


「お父様に怒られたら、助けてあげるから」

「それは心強いお言葉。お嬢様の優しさが骨身に沁みます」


 ロフはリリアナの脇腹を掴み、ひょいとリリアナを抱き上げる。追いかけるようにミミックが、ロフの足を器用に駆け上がりリリアナの肩に巻きついた。


 廊下はいつも以上に静かだ。突然押し寄せた人の対処で忙しいのだろう。敷地は背の高い塀でぐるりと囲まれてはいるが、越えられないほどではない。


 人は退路を絶たれると何をするかわからないのだ。


 この五年で使用人はほぼ入れ替わった。その上、人数も減ったのだから、みんながかりだされても仕方ない。


 おかげで誰に止められることもなく、屋敷の外に出ることができた。


 眩しいくらいの太陽の光が降り注ぐ。リリアナは目を細めた。屋敷の玄関から正門までは距離がある。大きな花壇が真ん中に鎮座し、季節の花が客人を出迎える仕様だ。


 グランツ家がまだ伯爵だったころにはいつも華やかに飾られていたこの花壇も、今は何もない。茶色い土が一面に広がっていた。



 客人を迎えるつもりはないという、ルーカスの強い思いを感じる。


 そん花壇を横切ると、騒がしかった人々が口を閉ざした。

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