第35話 エリオット・グランツ
エリオットは生まれてから十一年間、毎日が幸せだった。エリオットが生まれたのは、魔王が世界を脅かし、『穢れ』が人々を襲う、そんな混沌の時代だ。
しかし、優しい両親が常に側にいてくれた。父の妹――叔母は聖女で、『穢れ』を癒やす力を持っている。
母は「聖女がいれば助かるから、エリオットは何も心配いらないわ」と笑っていた。十年間は本当に苦しい時代だったと思う。
魔王の『穢れ』によって、祖父母が相次いで亡くなったときは、涙を流す父を見ながら呆然と「父上が泣く姿を初めて見た」と思った。そして、父が泣くほどつらい思いをしているときに、聖女である叔母は助けにも来ない。
少なからずこのとき、一度だけ聖女を憎いと思った。
祖父母は聖女にとっての両親だ。その両親が苦しんでいるあいだ、彼女は世界の平和のために奔走していると母は言う。
「世界と家族、どっちが大事なの?」
そんな疑問を母にぶつけたときに、母は困ったように笑った。それから数年が経って、エリオットが十才になったとき、世界に平和が訪れたのだ。
聖女が魔王を倒したことで、『穢れ』が広がることはなくなり、聖女が作った『聖女の雫』で世界中の人が癒やされた。
魔王を一人で倒して戻って来た聖女を見たとき、かっこいいと思ったのは間違いない。母は王の隣に立つ聖女を見て、「よかった」と言いながら何度も泣く。父も聖女の帰還を喜んでいた。
あの日から、世界の平和は約束された筈だったのだ。
けれど、グランツ家は全く平和ではなかった。聖女の功績を称えられ、グランツ家が伯爵から聖公爵という世界に一つしかない爵位に陞爵される。父は増えた領地を整備することに忙しくなった。聖公爵を継ぐエリオットもまた、勉強のために忙しい。
そんな中、母のお腹の中に弟か妹ができたと知ったときは本当に嬉しかった。両親の愛を独占できなくなるのは残念だったけれど、兄弟ができるのは嬉しい。母に「弟と妹、どちらが良い?」と聞かれたが、何日考えても答えは出なかった。
弟なら、勉強や剣術を教えてやろう。妹ならば、守ってやらねばならない。両親は世間一般から見て、二人とも見目麗しいらしい。だから、妹はとびきりの美人になることは間違いなかった。
そんな可愛い妹を守る。それが、兄としての務めだろう。母のお腹に子どもがいると分かってから、父はよくエリオットに「弟か妹を守ってあげなさい」と言っていた。
父は叔母が聖女として戦うことを、あまりよく思っていないようだ。ずっと、それがなぜかわからなかった。しかし、兄弟ができると知って、その気持ちの片鱗を理解できた気がする。
もしも妹だったのならば、危ないところに一人で行くなどさせたくはない。間違って聖女の力を持っていたとしても、絶対に世間には知らせない。そう、心に決めたのだ。
しかし、エリオットの世界は一変する。
父と食堂で母の帰りを待っていたとき、王宮から報が入った。
聖女が殺された。その、犯人が母であると。
エリオットはリリアナを見下ろす。真っ直ぐ、エリオットを見上げる目は聖女の物によく似ていた。少し勝ち気な目。母を奪った女と一緒だ。憎らしい目だと思う。
「お兄様」
くしゃりと顔を歪める。憎い女にそっくりな顔に「兄」と呼ばれるのは不快だ。
しかし、リリアナは笑顔のまま笑う。
なぜ、悪びれもなく目の前に現われるのか。母がいなくなって、父もエリオットもこんなに苦しんでいるのに、笑っていられるのか。エリオットには分からなかった。
「オッターと一緒にパンケーキを焼いたの」
ニコニコと笑う。小さな手で大きな皿を持って、ゆっくりと部屋の中を進む。何も置かれていないテーブルの上にパンケーキをのせた。
オッターが作ったとは思えないほど形も色も悪いパンケーキ。
昔、母と一緒に食べたパンケーキの匂いによく似ている。
「お兄様、お腹すいたでしょ?」
キラキラとした目でリリアナはエリオットを見る。「早く食べて」と言われているようで、気持ちが悪い。苛立ちが加速する。
「いらない」
「でも……」
「おまえが作った物なんか食べたくない。それを持って出て行け」
「いや。お兄様と一緒にパンケーキ食べる」
「その『お兄様』もやめろ。僕はおまえを妹だと思ったことはない」
「なんで……? 私のこと、嫌い?」
まるで責めるような目だと思った。
(そうだ、言いたいことをいえば、もう二度とここにはこない)
おそらく、リリアナからエリオットを怖がり、近づいて来なくなるだろう。平和がおとずれるのだ。
「嫌いだ。おまえのことは生まれる前から嫌いだった」
「……なんで?」
「おまえがいなければ、母上は死ななかった! 母上は、おまえが腹の中にいたから聖女に会いに行ったんだ。会いに行かなきゃ、母上は無実の罪で殺されなかった! 魔女にはならなかったんだよ!」
エリオットは叫ぶ。この五年間、ため込んで苛立ち。誰にもぶつけることはできなかった。
「おまえのせいで、父上は変わった。全部、全部おまえのせいだ!」
リリアナは大きな目を、更に見開いたままエリオットを見つめた。
五才の子どもに対して、大人げないことをしていることは理解している。けれど、五年ため込んだ毒は吐き出しても吐き出しても体の中に渦巻き続けていた。
「おまえとあの女が、グランツ家をぐちゃぐちゃにしたんだ。聖女なんてもてはやされているけど、僕たちのことは何もしてくれなかったじゃないか! 父上も母上も家族だって言ってたけど、助けてなんてくれなかった……」
聖女への恨みごとをリリアナに言うのは間違っている。頭では理解していた。けれど、なぜかエリオットの口からは毒のように吐き出されていく。リリアナの顔が、記憶にある聖女を幼くしたように、そっくりだったせいだと思う。
聖女は祖父母を見殺しにし、母のことも守ってはくれなかった。それどころか、道連れにして死んでいったのだ。魔女というレッテルまで貼ってくれた。
唯一残った家族は父だけだ。その父の心も死んでいるのと変わらない。
「グランツ家は平和だったんだ! おまえさえいなきゃ、あいつがいなきゃ……。母上は生きていたし、父上だって笑って……。僕だってこの屋敷を出ることなんて考えなかった……! おまえが……」
エリオットは言葉を止めた。
リリアナの大きな瞳から、大粒の涙があふれ出たからだ。
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