第20話 決意
聖女がまだただの伯爵家の令嬢だったころ、魔王は恐れられてはいなかった。ありていに言えば、どこかおとぎ話のようなものだった。
北方の深い森の奥。そこには魔王が眠っているから、起こしてはいけないよ。魔王が目覚めたら、太陽は昇らなくなってしまう。
子どもたちはその言葉を聞きながら育つ。聖女も幼いころから耳にたこができるくらいには聞いていた。
北方の森は深く寒い。間違って入ってしまえば、生きて帰ってくるのは不可能に近かった。魔王のおとぎ話も失踪者を出さないためのものだったに違いない。
世界の人々が本当の意味で魔王という存在を恐怖に感じたのは、『穢れ』という病が街を、国を、世界を襲ってからだ。
聖女は魔王を討伐した。正確には生きていたようなので、討伐はできていなかったのだけれど。『穢れ』の病は落ち着き、そして平和は訪れた。
リリアナは腕を組み、深いため息を吐いた。
(魔王の根城には魔王しかいなかった)
ちらりとロフの顔を見る。
宰相は魔王を討伐した聖女を恨んだ魔族の犯行だと言った。しかし、聖女は森から城へ行くあいだ、一度も魔族などという存在にはでくわさなかったのだ。
それに、聖女が死んだと思われる日、魔の気配は一切しなかった。
「義姉……ううん、お母様は聖女を殺した罪を被せられて死んでいった。しかも魔女というレッテルまでつけられてね」
あの日、なぜ義姉を王宮に招いてしまったのか。そのことだけが悔やまれる。もしも聖女が「今度遊びに行くから来なくて大丈夫」と言えば、彼女は無実の罪に問われなかっただろう。
リリアナは小さな手をぎゅっと握り絞めた。爪が手の平に食い込む。
ルーカス・グランツという人は家族を大切にする暖かな人だ。妹を殺した罪で妻が処刑されて、平気なわけがない。五年でルーカスが変わったのではなかった。
妹と妻の死がルーカスを変えてしまったのだ。
エリオットも同じなのだろう。彼は幼いころから甘えん坊で母親のことが大好きだった。聖女を憎んでいるのかもしれない。聖女が義姉を招かなければ、彼女は死ななかったのだから。
聖女によく似た顔形。亡き妻、亡き母に似た色の髪と瞳。彼らにとって、リリアナという存在は五年前を思い出させる。
「今日は考えごとがはかどっているようですね」
ロフは紅茶をそっと差し出した。よくできた執事の顔をして彼は立っている。悪さをしないように見張るつもりだったが、本当によく働くなとリリアナは感心した。
「考えることが沢山できたの」
ロフは小さく頷いた。無駄口を叩かないところなど、本当に執事のようだ。
「私は最初、せっかく記憶を持って生まれ変わったのだから、前世ではできなかった普通のお嬢様をしてみようと思ったのよ」
社交デビューを前にして聖女になった。
「お茶会は何度か参加したけど、社交デビューはできずじまいだったし、お友達と買い物したりね。あなたほどの読書家なら普通の令嬢の生活もわかるでしょ?」
「ええ、つまらない日常の繰り返しです」
「そう、そういうのがいいのよ。友達と喧嘩した程度で人生の終わりほど悩むような普通のね!」
ロフにはつまらない日常でも、リリアナにとっては価値があった。優しい両親と兄、穏やかな日常。スリルに欠けるところはあったが、あのころが退屈で、そして幸福だったのだ。
まだ熱いうちの紅茶を口につける。カップが唇を触れただけで熱くて、リリアナはテーブルに戻した。
前世では熱々の紅茶を好んで飲んだ。湯気がたつくらい熱い紅茶が好きだったのだが、今は熱くて飲めない。
聖女は聖女でリリアナはリリアナだ。同じなのは魂と聖女の力だけで他は違う。
空になった手で机をバンッと叩いた。ロフに向けたものではない。自分自身を奮い立たせるためだ。
「ロフ、私、決めたわ!」
「はい」
「聖女は世界を救った。世界は平和よ」
魔王はすっかり執事ごっこに夢中で人間の世界を襲うことはなさそうだ。
「聖女は世界のために家族を犠牲にしてきたわ。両親の死を伝えられても目の前の病人を治し続けた。私はもう、あんな思いはしたくない」
本当はすぐにでも駆けつけたかった。両親に抱きついて縋りたかった。まだ年端も行かない少女だったのだ。世界の運命など背負いたくはなかった。
世界を平和にすることだけが両親の弔いだと信じて、聖女は戦い続けたのだ。
「聖女としての役割は全うしたわ。私は記憶を持ちながら、新しい命を得た。しかも、同じ家族の元に戻れたのよ。これは運命だと思うの」
神などいないのかもしれない。神がいるなら、無垢な令嬢の十年間を奪わないと思う。
「前世は世界のために生きた。だから、私はここに誓う! 今世は。今世の全ては家族のために。私の大切な家族のために使う! この力も、この記憶も、全部! 魔女の娘? 上等よ! 家族のためなら、悪女にだってなってやるわ!」
ロフはにこりと笑ったあと、絨毯の上に片膝をついた。恭しく頭を下げる。
太陽光に照らされた黒の髪は、夜明けのように輝いていた。
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