第4章『マロと元少年』(10)
中村を地面に投げ捨てた。車との距離を確認しようと後方を振り返ると、宮本がこちらに向かって手を上げたのが見えた。それ以上離れないでください、という合図だ。拘束された状態では大した抵抗はできないだろうが、念のため腰のホルスターから拳銃を抜き、中村の頭部に向ける。
胸ポケットから再び小さな端末を取り出した。中村の手足を縛る拘束具は、一見普通の手錠のようだが、タイマーで解錠できるようになっている情報部特製のものだ。志水が端末をいくつか操作すると、拘束具に埋め込まれた赤いLEDが点滅を始めた。
「手足の拘束具は三十分後に解錠されるように設定した。山の中であれば、おまえは自由に行動できる」芋虫のように這いつくばる中村に説明をする。
投げた拍子に口に土が入ったのか、中村はぺっぺと唾を吐いた。不自由な両手で身体を起こし、地面にべたりと座って、獣のような血走った目でこちらを睨み上げる。奥歯を噛み締め、興奮で呼吸は荒く、怒りに震えている。
「ここは自然豊かな森だ。食糧や寝床を確保するのには意外に困らないだろう。だがひとたび人喰い熊に遭遇してしまえば、生き延びるのは難しい。あれは力も強く知能も高い、優秀なハンターだ。丸腰の人間が敵う相手ではない」
志水は静かに深呼吸をした。憎悪が滲み出てしまわないよう、注意深く感情を殺す。
「おまえは強姦行為を『狩り』と呼ぶそうだな。女性を動物同然に見下していることが透けて見える、下劣極まりない表現だ。だが今はあえてその表現を借りよう」
銃を握る右手に力が入る。撃ってしまわないように堪えるだけで、いっぱいいっぱいだった。
「狩られる側の恐怖を思い知れ」
本当は、浴びせてやりたい言葉が山のようにあった。四年前の事件のことを問い詰め、中村の口から真実を吐かせてやりたかった。だがそれをしてしまえば、この任務は私怨を晴らすための陳腐な復讐劇に成り変わってしまう。目的を違えてはいけない。
これ以上中村と向き合うのは限界だった。胃がキリキリと悲鳴を上げている。
志水は中村に背を向け、歩きだした。だがそれはすぐに「待ってくれ!」という中村の叫びに阻まれてしまう。
無視するべきだったな、と後になって思う。振り返れば、中村が土下座をしていた。
「俺が間違ってた。許してくれ」縛られた両足を不恰好に折り畳んだ姿勢で、額を何度も地面に擦りつける。「ちゃんと罪を全部認めて、刑罰を受けるから。だから助けてくれないか」
怒りが抑え切れず、声が震える。「謝らないでくれるか。許す気はないんだ」腹の底に溜まったマグマが、今にも噴き出してしまいそうだった。「おまえは少しも反省なんかしちゃいない。命の危険に晒されて、自分の身を救うために謝罪らしく聞こえる音を並べているだけだ。そこに感情は込もっていない」
「違う! 俺は本気だ」中村の視線が、言葉を探すように横に流れた。その動きが、これから発する言葉は嘘だと物語っていた。「自分が襲われる側になってみて、やっと自分がしてきたことの罪の重さが分かったんだよ。もう二度と同じ罪は犯さない。今まで犯してきた罪にだって、できる限りの償いをする。俺は本気だ、信じてくれ。もし誓いを破ったら、今度こそ殺してくれたって構わない」
そこに一切の本心はない。分かっているのに、志水は言ってしまう。「過去に犯した罪を全て認めると言うのか。警察が掴めていない事件まで、全て」
「認める、認めるさ」
やめておけ、と何度自分に言い聞かせても、止めることができない。「では、これまでにどんなことをしてきたのか、言ってみろ」
中村はまた、視線を泳がせた。志水の信頼を得るために何をどう話すべきか、計算でもしているのだろう。
「最初のきっかけは、大学のサークルの、同期の女だ」しかし、一度語り始めてしまえば中村は饒舌だ。「その女とは上手く行ってたんだ。同期の中でも特別仲が良かったし、二人で出掛けたり、お互いの家を行き来することだってあった。でも、いよいよ仲も深まったと思ったのに、いざ告白したら振られた。就活に集中したいからって言われて、その時は納得したんだ」当時の怒りを思い出したのか、中村の鼻息が荒くなる。「それなのに。それなのにだよ! 俺が振られたすぐ後、あの女、大して話したこともない後輩と付き合い始めやがったんだ。むかつくことにその男は顔が良くて、結局は顔が全てなんだって思い知った。俺は無性に腹が立って、何もかもぶっ壊してやりたくなって、女の家に押しかけて無理やり犯してやった。その時俺は、蜜の味を知っちまったんだ」
中村が悲痛な表情で志水を見上げた。こっちを見ないでほしいと思った。
「おまえに分かるか? 分んねえだろうな、あの興奮は。セックスはもちろん気持ち良い。だが本当の楽しみはそこじゃない。たった一度、セックスをするだけで、俺は女の人生を破壊できる。そこに堪らなく興奮するんだ。狩り以降、まるで人が変わっちまったみたいに毎日怯えながら生きる。恋人と過ごすときでさえ俺のことを思い出して震え上がる。俺は生涯女を支配し続けられるんだよ。分かるか? 分かんねえよなあ? 俺だってあんな悦び知らずにいられたら、今みたいな目に遭わずに済んだのに。元を辿れば、全部あの女のせいなんだよ」
熱が入り過ぎていることに気付いたのか、中村はそこで小さく息を吐いた。
「でも、後になって罪の意識を抱いた。仲間内で変な噂になったり、最悪警察に通報されるかもしれないと思って、ビクビクしてた。だが女は警察どころか、友達にすら相談しなかったんだ。多分、俺とセックスしたことなんて、誰にも知られたくなかったんだろうな」中村の口角が卑しく上がる。「馬鹿だよな、女ってのは。もしこれが包丁で切りつけられたとかだったら、間違いなく警察に行くだろ? それがセックスになると、どういうわけか誰にも言えなくなっちまう。それで俺は気付いたんだ。性犯罪は犯しても通報されにくいって。上手くやれば、あの刺激的な体験が何度でもできるんじゃないかって」
言葉が出なかった。目の前の男のあまりの醜悪さに、唖然としてしまった。
まるで自分が被害者であるかのような口ぶりだが、そこに一切の正当性はない、極めて身勝手な思考回路だ。間違った成功体験から間違いばかりを学習し、修復のしようがないほどに歪んでしまっている。
「初めて警察に訴えられたのは、まだ会社員だった頃、取引先の女を狩った時だ。プロジェクトの打ち上げの飲み会中に、女の飲み物に強力なアルコールを盛って、泥酔させてホテルに連れ込んだんだ。女はその時のことを、合意のない行為だったと警察に訴えやがった。その頃は狩りにも慣れてきた頃で、被害届を出されたのなんて初めてだったからかなり焦ったが、『合意がなかった』証拠がなくて不起訴になった。その経験から、合意の有無の証明なんて限りなく不可能に近いってことを学んだ」
こんな汚いだけで思慮の浅い男を、あの時俺は逃してしまったのかと、己の無力さに打ちひしがれた。憎しみの感情がドロドロに煮詰まり、血流に乗って全身を黒く染めていった。
「それから、脅しも有効だ」
興が乗ってきたのか、中村はまるで武勇伝を語るかのような調子になっていった。もはや反省の色を示すことなんて頭から抜けている。
「ああ、あれは傑作だったな。人気のない夜道を無防備に歩く女がいたから、車に引き摺り込んで襲ったんだ。威勢のいい女でさ。捕まった時は通報してやるって五月蝿く喚いてたのに、ちょっと刃物をちらつかせてやったらガタガタ震えてしおらしくなっちまった。こりゃあいいと思って、逃がす前に試しに言ってやった。『これから一週間、おまえの行動を監視する。通報したらもっと酷い目に遭わせる』ってな。そしたらあの女、真に受けやがって、本当に一週間待ってから通報したんだ」
「もういい」掠れ声を絞り出した。胃が締め上げられて吐き気がする。
「馬鹿だよなあ。性犯罪の証拠ってのは、精液とか、身体の傷とか、そういうのだろ? 一週間も経ったらそんな証拠、ほとんど全部消えちまうのに。結局その事件も、証拠不充分で不起訴だ」
「やめろ」中村の声が頭蓋骨の中に反響し、不快な耳鳴りを起こす。
中村は恍惚とした笑みを浮かべた。「しかもその女、しばらく経ってから自殺しちまったらしい。ああ、ありゃあ悪いことしたなあ」
「やめてくれ」志水は無意識に叫んでいた。
視界が歪み、ぐらぐらと揺れた。自分の膝が地面に落ちたことにも気付けなかった。
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