第4章『マロと元少年』(9)

 あの頃私は、警察官が事件について尋ねてくるのが嫌だった。自宅で目にしたあの光景は、悪い夢だと思いたかった。いつか覚めるのを待っていた。言葉にすれば現実になってしまいそうで、話したくなかった。

 辛かったね、とか、大変だったね、とか、知った顔で同情されるのが嫌だった。私の感情は、そんな簡単な言葉で説明できるものではなかったから。

 あの時目の前に現れた志水は、その容姿のせいか、薄汚れた病室には浮いていて、合成写真みたいで、現実味がなかった。血の通わないCGのように思えていた。

 そんな志水の放った『酷い事件だ』という、あまりにも客観的で感情の込もらないひと言で、何故か私はあの悪夢が現実だったと受け入れることができた。

「この話には続きがあるんですよ」宮本の昔話をどう受け止めるべきか判断しかねている様子の中村に向かって、宮本は言った。

 山の中の民家が熊の襲撃に遭い多数の犠牲者が出たという事件は、当時大きなニュースになった。中村も事件について聞いたことくらいはあったのだろう。話の真偽を疑っているわけではなさそうだ。

「恐ろしいことに、岬を食べちゃったのは大五郎じゃなかったんです」

 中村は目を瞬いた。だからどうした、とでも言いたいのだろうか。

「大五郎のお腹の中からは、岬の身体は見つかりませんでした。結局、誰が食べたのかは分からず終いです。ただ、岬の遺体は酷く食い荒らされていて、その冬には他にも数頭の熊が冬眠中に覚醒していたことが後に分かっています。つまり、人喰い熊はまだ他に生き残ってる可能性が高いんですよ」車内の空気は張り詰めている。呼吸をするのも憚られる静けさだ。「一度人間の味を覚えた熊は人間を襲うようになるんです。あの山は宮本家の持ち物だったので、事件以降は管理者がいなくなって、害獣の駆除も行き届かなくなって、熊が近隣の住民に危害を加えることも増えていきました。いよいよ手がつけられなくなってしまったので、うちの組織に頼んで熊を閉じ込めてもらったんです」

「閉じ込める?」中村が眉根を寄せた。

「そう。うちの山、高くはないんですけど地形が険しくて、熊が麓に下りられるような道は元々一本しかなかったんですよ。だからその道を破壊しました」それでも器用に崖を降りてしまう個体も稀にいたが、近隣への被害は激減した。「でも、同時に間引きもできなくなったので、今熊はどんどん増えてるみたいなんです。増え過ぎた熊は飢えて凶暴化します。それに熊はもうすぐ繁殖期で、そもそも気性の荒くなる時期でもあります」

「まさか」そこで初めて中村が青褪めた。察しの悪い男だ。

「察しが良いですね」思ったのと反対のことを言う。「あなたが今向かっている『地獄』は、その山の中ですよ」

 中村が息を呑んだ。叫び、暴れだしそうな気配を察し、宮本は拳銃を抜いた。中村は屈辱を受けた様子で歯を食いしばり、短く吠えて床を蹴った。


 山の麓で志水と運転を交代した。昼間なら車で登れば十分ちょっとで着く短い道のりだが、山道は乗用車がすれ違うこともできないほどの幅しかない上に、辺りは車のヘッドライト以外に光源がない真っ暗闇。この道に慣れている宮本が運転した方が安全だろうという判断だ。膝はまだ少し痛むが、運転に支障はない。

「ミコちゃん、運転できたんだっけ?」助手席の神谷が言った。彼の声をひさしぶりに聞いた気がする。「さっちゃんから酷い噂を聞いてたけど。こんな山道なのに全然揺れないじゃない」

「だから、私は都会のルールに慣れてないだけで、運転そのものが駄目なわけじゃないんですってば」

 宮本がそう笑うと、神谷は「ええ、そんなことある?」と疑いの目でこちらを見た。

 ふとミラー越しに後部座席の様子を窺うと、志水が酷く険しい顔をしているのに気付いた。中村から顔を背け、窓を開けて外の空気を吸っているようだ。

「志水さん、酔っちゃいましたか?」

 宮本が尋ねると、志水は外を向いたまま答えた。「まさか。神谷じゃあるまいし」

「オレは平気だよ。今日はちゃんと酔い止め飲んだから」神谷は何故か誇らしげに言う。

 あの時、プログラムで応答する無機物めいて見えた志水は、実は思ったよりもちゃんと血の通っている人間だということに、この半年で宮本は気付いていた。だがこのところの彼の様子は、半年間ずっと行動を共にしていた宮本にも信じられないものだった。今の彼は、触れればぼろぼろと崩れて消えてしまいそうで、それが不安で仕方なかった。

 山肌を這うように敷かれた道を進み、小さなコンクリート造りの建物の前を通過した。元々そこに建っていた宮本の家は取り壊され、山を管理するための基地が置かれたのだ。

 さらに少し進んだ先、宮本が暮らしていた頃にあった道は崩れ落ちて崖となり、代わりに崖のこちら岸とあちら岸を繋ぐ橋が架けられている。ここを渡れば道らしい道はなくなり、少し開けた土地に出る。人喰い熊が栄える地獄の園だ。


 運転席のドアを開け、外に降り立ってみれば、懐かしい土の匂いがする。宮本は車の後方へ歩き、トランクを開けてライフルを取り出した。

 改めて、ヘッドライトに照らされた橋を見下ろす。今日のためだけに設置された、大雨でも降れば流れ落ちてしまいそうな簡易的な造りの木製の橋だ。

 樋口の説明を思い出す。

「橋を渡れるのは一往復よ。橋の下には爆弾が仕込んであって、あなたたちがこちら岸に戻って来たら自動で爆発するようにプログラムしてある。橋の周囲、半径五十メートルの範囲は動物が嫌がる超音波を鳴らしてるから比較的安全だけと、たまに気にせず近寄って来ちゃう子もいるから油断はしちゃ駄目よ」

 宮本は腹を括り、運転席に戻った。「ちょっと持っててください」とライフルを神谷に押しつけ、車を対岸に進めた。


 窓から身を乗り出しながら、車の後輪が橋を渡り切ったことを確かめ、志水に目配せした。

 志水はジャンパーの胸ポケットから手のひらに収まるほどの小さな機械を取り出した。ピッという甲高い電子音がその機械から鳴る。

「今、首輪のプログラムを起動した」軽く咳払いをし、事務的な調子で説明を始める。「その首輪には心拍数や血圧を計測するバイタルセンサと、カメラとマイク、位置情報の発信機が内蔵されていて、おまえの生死と行動を常時監視している。橋を落としてしまえば他におまえが生きて下山できるルートはないが、万が一何かしらの方法で山を下りた場合には首輪が爆発する。どうにかして下山しようなんて考えず、大人しく山の中で過ごした方が身のためだ」

「ふざけんなよ」中村が声を震わせた。「一生俺をここに閉じ込める気だってのかよ? それじゃあ殺されるのと同じじゃねえか。俺は死刑になるようなことなんてしていない」

「まだ分からないのか」志水は呆れと嫌悪感の入り混じった溜め息をついた。「『疑わしきは罰せず』とは、冤罪を防ぐための大事な原則だ。だがおまえはそれを悪用するあまり、法に守られる権利を失った。刑法に則った量刑なんてされるはずがないだろう」

「違う!」中村が往生際悪く吠えた。視線が宙を泳ぐ。「俺は何もやってないんだ。俺じゃないんだ」中村は、まるで言い逃れの妙案でも思いついたかのように語気を強めた。「そうだ、俺じゃない。人違いだ。あんたらが何をやらかした奴を殺そうとしてんのかは知らねえが、それは俺じゃない。佐藤の奴にも色々言いがかりつけられたけど、あれはとんだお門違いだ。俺は一言も認めてない。今日だって俺は佐藤に頼まれた通りに動いただけだ。人違いで人を殺していいのかよ。俺がやったってんなら証拠を見せろよ」

「残念だが、おまえが認めるかどうかはどうでもいいことだ。確信があれば確証は必要ない。俺たちは公正な基準で物事を判断する組織ではないんだよ」志水は蔑むような目で中村を見下ろす。「だが、人の話はよく聞け。宮本も言ったはずだ。我々の目的は、おまえを殺すことではない」

「結果的に死ねば同じことだろうが! 屁理屈こねて正当化しようとしてんじゃねえぞ」中村は今にも噛みつきそうな勢いで喚いた。

「人の話はよく聞け」志水は淡々と繰り返す。「我々の目的は、過去の被害者の心を救い、未来の被害者をおまえから守ることだ。それが果たせるのならば、おまえの生死に興味はない」

 それは嘘だ、と宮本は思った。志水は、中村を生かすことなんて微塵も考えていないはずだ。

「山の中で考えろ。どうすれば命を落とさずに、我々の目的を満たすことができるか。幸い、おまえの行動は常に監視されている。良い方法を思いついたら、行動で示してみればいい」

 中村がまた何か言おうと口を開きかけたが、志水が「行くぞ」と乱暴に中村の後襟を掴み、車から引き摺り下ろしてしまった。

 何故志水はあんな嘘をついたんだろう。

 考えながら、神谷からライフルを受け取った。窓の外に銃口を向け、危険が迫れば即座に反応できるようにと神経を尖らせる。

 もしかしたら志水は、中村が自棄を起こすのを恐れたのかもしれない、と思った。

 孤立した山の中に囚われた中村が、一生山を下りることが叶わないと知れば、人喰い熊の恐怖に怯えながら過ごすよりはさっさと死んでしまおうと考えてもおかしくはない。だが、生きて帰れる可能性を仄めかされれば、きっと中村はその希望に縋りついて、なんとしてでも生きる術を探すだろう。

 志水は中村に死よりも重い罰を与えることを望んでいた。中村が自ら命を断つのなんて許せなかったのではないか。

「ミコちゃん、いつになく怖い顔してるねえ」助手席の神谷が穏やかな声で言った。「可愛いメイクが台無しだよ」

 可愛い、という言葉に、つい舞い上がってしまいそうになる心を鎮める。神谷の言う『可愛い』は、多分『こんにちは』とかとそんなに違いはない。

「キミがそんなに緊張してるのは、この場所のせい?」

「そうですね」

 こんな状況下で平然と話しかけてくる神谷に苛立ちを覚え、つい素っ気ない態度を取ってしまった。だがよく考えてみれば、おかしいのは自分の方だ。普段の宮本ならば、今頃『マロと元少年』や『スターダム』の感想をとうとうと語っていたに違いない。

「そりゃあそうか。あんな目に遭ったんじゃしょうがないよね」神谷が森の奥の闇を見つめるような遠い目をした。

 あまりに同情的な神谷の様子に、くだらない身の上話を聞かせてしまったことが急に恥ずかしくなってしまい、「あの話は、盛ってますけどね」と、悪戯っぽく笑ってみせた。

「盛ってるのかあ」神谷は愉快そうに笑った。じゃあ本当はどんなことがあったの? と、聞かずにいてくれることがありがたい。

「でも、事件のあった日に、ドラマを観るために叔母さんの家に帰ったっていうのは本当です」身体を捻り、神谷の顔を見る。「そのドラマ、『土器ラブ』なんですよ」

 神谷が目を丸くした。「へえ」と、驚きとも感動ともつかない中途半端な声を上げる。

「前に、私は『土器ラブ』に命を救われたって言ったの、覚えてますか? あれ、誇張表現でもなんでもなく、言葉の通りの意味なんですよ。あの日自宅に帰ってたら、多分私もみんなと一緒に大五郎に食べられちゃってました。私が神谷令が好きで、あの日に『土器ラブ』の放送があったから、私は生き延びることができたんです。だから、神谷さんには感謝してるんですよ」

「困ったなあ」神谷が眉を下げる。「オレ、そんなの背負えないや」

「なんでですか」宮本は笑った。「背負わなくていいですよ。私が勝手に思ってるだけなんですから。神谷令が好きでラッキーだったなあって話です」

 神谷は宮本の顔をまじまじと見た後、ふわりと微笑んだ。「そんな状況でラッキーを見出せるのは、キミの強さだね」

 春の柔らかな風が、緊張で逆立った宮本の心を撫でた。この風は神谷が吹かせたものかもしれないと思った。

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