第4章『マロと元少年』(5)

佐藤さとう』と名を告げて店員に案内されたのは、店内の一番奥にある小さな個室だった。

 なるほど、と思う。カフェやレストランみたいな開けた空間で気軽にできる話ではないのだろう。大手チェーンの大衆居酒屋とは、初対面の人間を呼び出すには気の利いた選択とは思えなかったが、個室となれば内緒話をするにはちょうどいい。薄い引き戸で仕切られただけのこの空間は大して機密性は高くないが、これだけ店内がざわついていれば声が外に漏れる心配はいらないだろう。

「中村さんですね?」先に来て手前の席に腰かけていた男が言った。「来てくれてよかった。僕が佐藤です」

 佐藤と名乗ったその男は、物腰は柔らかいが、見た目の雰囲気は暗く、怪しげな印象だった。黒くて重たい前髪を目にかかるギリギリまで伸ばし、一昔前に流行ったような太いフレームの眼鏡をかけている。十代の頃からファッションセンスをアップデートできていないタイプだな。と、半ば無意識に、早々に見下していた。

「どうも」とだけ答え、なんの遠慮もなく上座に腰を下ろす。「で、どういうご用件なんですか?」

 中村にはまだ、この男をどのように扱うべきなのか判断がついていなかった。弱味を握られているとすれば、ぞんざいに扱うのは得策ではない。機嫌を損ねると面倒だからだ。かと言って変に下手に出て舐められてしまえば、不利な条件をふっかけられる恐れもある。結局、ぶっきらぼうな丁寧語という、中途半端な態度にならざるを得ず、そんな自分の情けなさに苛立っていた。

 佐藤が中村のSNSアカウントにメッセージを寄越してきたのは数日前のことだ。

 そのやり取りは、「突然すみません」から始まった。謝れば何を言ってもいいとでも思っているのだろうか、そこに続く内容は本当に突然で、「あなたのファンです。僕を弟子にしてもらえませんか?」というものだった。

 弟子にしてくれ、と言われて心当たりがなかったわけではない。真っ先に思い浮かんだのは仕事のことだ。中村はフリーのカメラマンであるから、遂に俺の名も弟子入り希望者が現れるほどまで売れたか、と浮かれる気持ちもあった。

 違和感にはすぐに気付いた。佐藤からのメッセージを受け取ったのは、仕事用のアカウントではない。趣味に関する情報を収集するために作ったアカウントだった。それも、自分が投稿したことは一度もなく、他人の投稿を閲覧するのに使っているだけだ。趣味用のアカウントからは、自分がカメラマンであることなど分かるはずがなかった。

 今にして思えば、無視するべきだったのかもしれない。だが、今考えても、無視してもよかったのか分からない。悩んだ末に、「何の話ですか?」とだけ返した。

「多分、ここで具体的な話はしない方がいいですよ。今時の警察は、SNS上のやり取りまで徹底的に調べるそうですから。よかったら、直接お会いできませんか?」

 佐藤からの返信に、中村の背筋は凍りついた。『警察』の二文字に目が釘づけになる。

佐藤は何かを知っているのか? いや、そんなはずはない。あり得ない。あってたまるか。

 しかし、仮に佐藤が中村の『趣味』について知っていたとして、弟子入りというのは意味が分からなかった。もしかすると、中村の興味を引くために適当なことを言っただけで、深い意味などないのだろうか。だとしたら、佐藤の真の目的はなんだ。

 一番考えられるのは金だ。佐藤が握っている情報をダシに、中村を脅そうというのだ。あるいは、中村を呼び出して復讐をしようと企てている可能性もあるかもしれない。

 いずれにせよ、万が一『趣味』について知られているとしたら、かなり危険だ。口封じも考えなくてはならない。そこで中村はできる限りの準備を整え、佐藤の指定した場所へやって来た、というわけだ。

「メッセージの通りですよ。僕をあなたの弟子にしてほしいんです」佐藤は穏やかな口調で言った。

「だから、その意味が分からないんですよ。弟子を取るような覚えはないんですが」カメラのことですか? とはあえて言わなかった。相手がどこまで自分の情報を握っているのか分からないが、自ら手札を見せてやるつもりはない。

 ふふふ、と佐藤は怪しく笑う。「その前に自己紹介と行きましょうか」

 佐藤は尻を浮かせてポケットから財布を取り出し、運転免許証を抜き取ってテーブルに置いた。

「普通なら名刺を渡すところなんでしょうけど、こっちの方が信用してもらえそうですから」

 その氏名欄には、『佐藤さとう貴司たかし』と印字されている。

「偽名みたいな名前だな」中村は疑念を隠さずに言った。免許証の偽造なんて、騙す相手が警察でもない限り、大して難しいことではない。

「はは、よく言われます。全国に何万人同姓同名がいるんでしょうね。おかげさまで下手な偽名よりも、よっぽど本名の方が足がつきにくくて。だから、信じてもらえないかもしれませんけど、その免許証は偽造じゃないですよ」

 中村は、ふん、と鼻を鳴らした。今のところ、『佐藤』が本名なのかどうかはどうでもいい話だ。

「職業はシステムエンジニア、趣味はアプリケーション開発です」佐藤は一方的に自己紹介を続ける。「最近趣味で作ったのは、このヘルスケアアプリなんですけど」そう言いながら、左手首のスマートウォッチを操作して見せてくる。「スマートウォッチって、心拍を計測するセンサが内蔵されてるでしょ? 僕の心臓が止まると、警察と救急に自動的に通報されるようになってるんです」

 一体これはなんの時間なのだと、中村はまた苛立った。野郎の趣味の話なんて、聞く価値があるとは思えない。

「ただこのアプリ、ちょっと不具合があって。スマートウォッチを手首から外したり、電源を切ったりしただけでも通報されちゃうんですよ。だから」佐藤はにやりと口角を上げた。「僕を殺そうと思わない方がいいですよ。警察、来ちゃいますから」

 背筋に鳥肌が立った。まさに、いざとなれば佐藤を殺してしまえばいいと思っていたからだ。やはりこの男は知っているのだ、と確信しかかったが、いや待て、と思い直す。モテない男にありがちな悪趣味な冗談、という可能性もあるか。

「で、ここからが本題です。実は僕、もう一つ趣味があるんですけど、そのことで今、ちょっと行き詰まってることがあって。中村さんに色々教えてもらえたら解決するんじゃないかなと思って、連絡してみたんです」

「何の話か分からないが、それはあんたの見込み違いですよ。俺には人に教えられるような特技なんてありませんから」中村は意識的に迷惑そうな口調を作った。

「じゃあ今日は、どうして来てくれたんですか?」佐藤が中指で眼鏡を押し上げた。その動きで、レンズに反射する照明がぎらりと光る。「『警察』って単語に、反応しちゃったんじゃないですか?」

 一度は寝たはずの鳥肌が、再び総立ちになった。間違いない。佐藤は、中村の『趣味』のことを知っていて鎌をかけてきているのだ。思い過ごしであることを望んでいたが、これ以上は自分を誤魔化し切れない。

 無意識に鞄を手元に引き寄せていた。店員に顔は見られている。この場で殺せば、真っ先に自分に容疑がかかるだろう。まずは眠らせて人目のつかない場所へ運び出すべきか。睡眠薬は用意してある。

「ああ、待って待って、早まらないで。忘れちゃいましたか? ヘルスケアアプリのこと」佐藤がひらひらと手を振り、中村を制止した。「勘違いしないでくださいね。僕はね、あなたを警察に突き出そうなんて、微塵も思っちゃいないんですよ。僕はあなたのことを、心から尊敬してるんです」

 穏やかに笑う佐藤に、中村は底知れぬ不気味さを感じていた。この男は、中村が自分を殺そうとすることも計算に入れていたのだろう。心臓が止まると通報される、という話が本当かどうかは定かではないが、はったりだと高を括って考えなしに殺すこともできない。牽制としては充分効果的だ。

 隠し切れていないはずの中村の動揺を気に留める素振りもなく、佐藤は勝手に話し続ける。「僕の趣味はね、いわゆるストーカーなんですよ。その呼び方は好きじゃないんですけど、分かりやすく言うと、そうです。街中で見かけた素敵な女の子の後をつけて、身元を特定して、その子のことを調べ上げるんです。住んでる場所から、健康診断のデータ、とにかく、何から何まで。そうすると、その子が僕のものになった気がして、ものすごく興奮するんですよね」

 恍惚と語る佐藤の様子に、悪寒が走った。女をつけ回すことで性欲を満たすなんて、気色悪いにも程があるだろう。もし自分が相手の女だったらと思うとぞっとした。しかしそれと同時に、話が思わぬ方向に転がっていくことに混乱を覚えていた。

「ただ、最近それだけじゃ満足できなくなってきちゃって」佐藤がわざとらしく眉毛を八の字にした。「所詮僕が集められるのって、女の子に関する『情報』だけなんですよね。その子の尿酸値が分かったところで、肌の柔らかさとか、体内の温もりとか、そういう数値化できない『感覚』については知ることができないんですよ。僕はそれがどうしても、悔しくなっちゃって。まあ、要はセックスがしたいんですよ」

 佐藤はまるで政治の話題でも口にするかのように真剣に、気が狂っているとしか思えない己の性的嗜好について語る。

「でも、これがなかなか難しいんですよね。セックスって、相手に許可を取らないと犯罪になっちゃうじゃないですか。でも僕、見ての通りモテないから、誘ったところで許可が得られるはずがないんです。仕方ないから犯罪覚悟で無理やりするしかないかなあなんて考えてたんですけど、さすがに刑務所に入りたくはないんで、何か上手い方法はないかと探してたんですよ」そこで佐藤は、パチンと指を鳴らした。「そんな時に見つけたのが、中村さん、あなたですよ」

 ようやく理解が追いついた。『弟子入り』とはそういうことか。要するにこの男は、ストーカーを拗らせて強姦に走ろうと考えているが、その方法について先駆者である中村に教えを請いたいというわけだ。どうやって中村の『趣味』を知り、SNSアカウントを見つけ出したのかはまるで見当がつかないが、つまりはそういうことだろう。しかしこんな話、信用できるわけがない。油断した中村が『趣味』について語り始めるのを、どこかに潜む警察官が、今か今かと聞き耳を立てて待っているのではないか。

「気色悪い話を聞かされたかと思えば、なんなんだ。そこで俺の名前が出てくる意味が分からない」あくまでも強気の姿勢で、しらを切り通す必要がある。

「ふふ、そう簡単に認めるわけには行かないですよね。僕のことも信用できないでしょうし、仕方ないです。でも僕、本当にあなたに憧れてるんですよ。だって中村さん、強姦界のヒーローじゃないですか。過去に六件もの事件で逮捕されながら、全部不起訴になってるなんて。僕はあなたに、その秘訣を教えてもらいたいんです」

「人を犯罪者呼ばわりとは失礼な奴だな。誰と間違えているのか知らないが、俺はそんなことはしていない。どうしても俺が強姦魔だと言い張るなら、証拠を見せてみろ」

「いやあ」佐藤は困ったように眉を下げた。「証拠は持ってないんですよ。一応、確信を持つきっかけはあったんですけど、手元には残してないです。最初は、あなたにも証拠を見せた方が話がスムーズかなって思ってたんですけど、そんなことしたら脅すみたいじゃないですか。僕は中村さんに信用してもらいたいんで、持って来るのはやめました」

 その言葉に、中村の警戒心は揺らいだ。もし佐藤が中村と敵対する人物であるなら、証拠を突きつけて無理やりにでも中村の『趣味』について吐かせようとするはずだ。そうしないメリットが分からない。脅して金をむしり取るにしても、復讐をするにしても、警察が絡んでいるとしても、まずは中村が認めなければ始まらない。まさか、佐藤は本当に中村に弟子入りしたいだけだというのか?

「でね。僕、どうやったらあなたに信用してもらえるか考えて来たんですよ」中村の戸惑いをよそに、佐藤は自分のリュックサックを漁りだした。「手始めに、僕と一緒にひと仕事やってみませんか? 共犯になれば裏切ることはできなくなるでしょ?」タブレット端末を取り出し、何やら画面を操作している。「中村さんにとっても悪い話じゃないと思いますよ。ほら、僕、ストーカーだから、調べ物は得意なんです。きっと役に立ちますよ。今回のターゲットにも、条件の良い女の子を見繕って来ました」

 佐藤がタブレット端末を差し出してきた。そこにはスライド資料が表示されている。表紙を捲ると、最初のページには、女の顔写真と、氏名や住所、勤務先などの基本的な個人情報がまとめられていた。次のページには彼女の人生に起こった出来事をまとめた年表。その次のページには彼女の交友関係を示した図表。さらにその次には、彼女の行動パターンを分析したデータが載っている。嫌な予感がして資料のページ数を確認すると、その枚数は百ページ近くにも及んでいた。

 頭がくらくらした。なんて気味が悪いのか。中村も下調べは入念に行う方だという自負はあったが、ここまでしようと思ったことはなかったし、自分にできるとも思えなかった。だが同時に、納得もしていた。これだけの調査力があるなら、中村の『趣味』について調べるのも容易いことだったのかもしれない。

「俺の好みの女じゃないな」

 もはや白を切るのは無駄だと感じ、中村はそう言った。少しでも怪しい動きがあれば殺す。その意志は変わっていないが、この男を利用するのもありだと思い始めていた。

「まあ、そう言わないでくださいよ。ちなみに、僕の好みでもないですよ。僕はビギナーなんで、とにかく強姦に適した条件の子を探したんです」

「『狩り』だ」

「へ?」佐藤が間抜けな声を上げた。

「俺の趣味は、『狩り』だ。強姦なんかじゃない」

 その呼び方にはこだわりがあった。強姦とは、性欲に任せて見境なく女に乱暴を働く行為のことだ。それは、便意を我慢できなくなって道端で野糞をするのにも近い、動物的な排泄行為だと中村は捉えている。俺の趣味はそんな低俗なものではない。標的を決め、行動パターンを調査し、計画を練り、実行する。成功すれば、恐怖と屈辱に震える女への絶対的支配という、最高のご馳走が待っている。それが『狩り』だ。知性のある人間にしか成し得ない、高尚な趣味だとすら思っている。

「ああ、分かりますよ。僕もストーカーって呼ばれるの、好きじゃないんで。じゃあ、狩り場を見に行ってみませんか? きっと気に入ってもらえますから」

 にこやかに笑うこの不気味な男に乗せられている自覚はあった。その事実に腹立たしく思う部分もあった。しかし中村は既に、新たな獲物を前に興奮を抑えられなくなっていた。


 深夜まで待ち、佐藤の車で連れて来られたのは、古びたマンションが建ち並ぶ団地だった。建物のデザインは、そっくりそのままコピーして並べたかのように全て同じで、数十年前に都市開発が盛んに行われていた時期に量産されていたタイプのものだ。こんな所に住んでいるのは、この量産型マンションが新築だった頃に働き盛りだった年寄りばかりではないのか。

「古い団地でしょ? 最近じゃこんな古い物件、もう買い手がつかないから、不動産屋が空室をまとめて買い取って賃貸を始めたんですよ。それでも古くてアクセスもいまいちだからあんまり人気はないんですけど、家賃の安さ故か、一人だけ若い子が入ったんです」

 車を路肩に止め、運転席の佐藤が説明を始めた。まるで中村の疑問を見透かしたかのようなタイミングだ。

「なるほど。それが『獲物』か」

「へえ、ターゲットのことはそう呼ぶんですね」佐藤が薄い笑みを浮かべる。「この団地、本当に設備が古いんで、防犯カメラが全然設置されてないんですよ。あるとしても、マンションの敷地内に侵入しない限りは映り込む心配はないです。注意しなきゃいけないのはすれ違う車のドライブレコーダーですけど、この通りを出入りするのは団地の住民くらいなので、夕方過ぎればほとんど車通りもなくなりますよ」

「そりゃあ絶好の条件だな。おまえの調べが正しければ、だが」

「そこは保証しますよ。失敗すれば、僕の人生だって懸かってるんですから」

 しばらく車内でじっとしていると、前方から小柄な女が現れた。暗くてよく見えないが、そのシルエットは佐藤の資料の中にあった写真と似ているように思える。恐らくあれが獲物なのだろう。

「見えますか? あの子ですよ」佐藤が先に口を開いた。「一人暮らしで、残業が多いみたいで、いつもこの時間に帰って来るんです」

「チビだな」中村は言い捨てた。小柄な女は好みではない。

「まあそう言わずに。こんな好条件の子なかなかいないんですから。よく見てください。あの子、脚を引き摺ってるでしょ?」言われてみれば、女はぴょこぴょこと不自然な歩き方をしている。「ちょっと前に結構大きな怪我をして、リハビリ中なんだそうです。だから、走って逃げられる心配もないですよ」

「ふん」と鼻を鳴らした。「やっぱり好みじゃない。好みじゃないが」そう言いながらも、己の本能が色めき立つのを感じている。「据え膳食わぬは男の恥、か」

 まるで『狩ってください』とでも言われているかのような好条件だ。ここまでの条件が揃っているのに手を出さないのは、自分のプライドに傷をつける行為のように思えた。

「あっはっは」佐藤が声を上げて笑う。「彼女は据えてるつもりはないと思いますけどね」

「決めた」中村は観念した。結局、全て佐藤の思うがままに事が運んでしまっているのは気に食わなかったが、やはり己の欲望には抗えない。「おまえの勝ちだ。次の狩りの獲物はこの女にする」

 写真で見た女の顔が恐怖に歪む光景を思い浮かべた。どんな風に髪を乱し、どんな声で許しを請うのだろうか。

 そうだ。せっかく二人で狩りに出るのだから、車に引き摺り込んだ後、山奥にでも連れ去ってしまおう。その方が、じっくりと時間をかけて女の自尊心を破壊することができる。

 問題は獲物の分け前だが、佐藤には俺の使い捨てをやれば充分だろう。

 来たる狩りの日に想像を巡らせ、自分の血流がドクドクと脈打つのを感じた。

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