第4章『マロと元少年』(4)
我が組織専用の駐車場である地下二階からエレベーターに乗り込み、ある一定の順番でいくつかの階数ボタンを押した。目的地は四階だがこのエレベーターに『4』のボタンはなく、四階に行くにはこうする必要があるのだ。
三年前、総合調整局の設立に併せて、警視庁舎の建て替えが行われた。新しい庁舎は変わった構造をしており、四階にあたる階層には配管や機械設備が詰め込まれているため、一般従業員は立ち入ることができない。
とされているが、実際に四階にあるのは配管などではなく、組織の事務所だ。
ドアが開き、エレベーターホールを抜けると、エントランスの前に見慣れた姿があった。出会った頃は頼もしさしか感じなかったその背中は今やひと回り萎み、疲労と陰鬱が滲み出ているように感じる。
「松岡係長」とその背中に声をかけた。約束の時間には随分早い。「すみません、お待たせしてしまったようで」
「ああ、志水」松岡がこちらを振り返った。徹夜が続いているのだろうか、顔が浮腫んでいる。「いや、早く着き過ぎてしまってな」
「どうぞ、中にお入りください」
そう言いながらカードキーを取り出し、鍵を開けたところで、「志水」と呼びかけられ、ドアノブを引く手を止めた。
「今日は会議室を使わせてくれないか」
「構いませんが、どうして」
いや、なんだ。と松岡は言い淀む。「多分、おまえは周りの奴、特にあのちびっ子には聞かれたくない話だろうから」松岡は、宮本のことを『ちびっ子』と呼んだ。「だから、今日は二人きりで話がしたい」
ぴくりと心臓が反応した。だが、気付かない振りをして答える。「さっぱり意味が分かりませんね」
会議室に着いても、松岡はしばらく険しい顔で腕を組んだまま、黙り込んでいた。
「ご用件は?」と尋ねてもうんうんと唸るような声を上げるばかりで、返事らしい返事がない。
そこにコンコン、とノックが鳴り、事務職員の女性がお茶を持って現れた。彼女がお茶出しを終えて立ち去ったところで、ようやく松岡と目が合うようになる。
「それで、今日はどんなご用件なんです?」志水はもう一度、尋ねた。
すると、松岡は深く息を吐いた。天井を仰いでから、志水の顔に視線を戻す。「おまえには辛い話だ。覚悟して聞けよ」
「覚悟ならもうできています」
本当は、昨日松岡からの電話を受けた時点で察していた。普段はこちらの都合も顧みず、無茶な注文ばかりつける松岡が、終始志水を気遣う様子を見せているのだから。
聞きたくない気持ちと、いっそ一思いにさっさと済ませてほしいという思いが、ぐるぐると回るルーレットのように交錯している。だが当然聞かないわけには行かず、『いっそ一思いに』の方でルーレットを止めた。
「先月、都内で強姦事件が発生した」松岡の視線は、真っ直ぐに志水を射抜く。「被疑者は、四年前にも類似する複数の事件で容疑をかけられながら、不起訴処分になった男」
『中村靖治だ』。そのひと言で、後頭部をぶん殴られたかのような感覚に襲われる。脳内にその名が反響し、増幅して、こびりついて離れない。
覚悟はしていた。しかし、察しているのと事実として突きつけられるのでは、全く違った。
四年前の事件の捜査には、志水も一捜査員として関わっていた。あの時中村に罪を認めさせることができなかった身を引き裂くような悔しさは、まるで忌々しい烙印のように痛みを伴ったまま、志水の胸に消えない跡を残している。
そうか。あの中村は、被害者たちから尊厳も希望も何もかも奪いながら、自分だけは何も失わないまま変わらぬ日常を生きていて、今もまた同じ罪を繰り返しているのか。そうか。
強く握った手のひらに爪が刺さった。
中村が二度と同じ罪を犯せないようにしてくれ。方法は問わない。
それが松岡からの依頼だ。
先月の事件で中村を有罪にできる可能性はゼロになったわけではない。しかし仮に有罪になったところで、与えられるのはたかだか数年の懲役刑のみ。中村が出所すれば、再犯の可能性は極めて高い。
守るべきものが守れなくなるのなら、法律を守るのは二の次だ。警察はあえて中村を泳がせたまま、我々組織に依頼をした。
殺してしまえば簡単だ。だが、まずは別の方法を探る。いつもの手順だ。
例えば、中村の性器に重大なダメージを与え、性交が不可能な状態にしてしまえばどうか。いや、それは危険だ。性欲の捌け口を失った中村が、どのような凶悪な行動に走るか分からない。
では、中村を捕らえて性欲が起こらなくなるように洗脳を施すのはどうか。もし洗脳が成功すれば、中村は今より真っ当な人生を送ることができるようになるかもしれない。被害者たちを絶望の底に貶めた中村に、そのような権利があるのだろうか。
それなら、無期懲役以上の刑罰に値する罪を着せるか。それは現実的ではないな。無期懲役ともなれば、かなり悪質な方法で人の命を奪っていなければならない。そこまでの舞台設定と、中村を犯人に仕立てるための証拠を揃えるのは、困難を極めるだろう。
やはり、殺すしかないのか。
本当にそうか? 都合良く己の思考を誘導してはいないか? 俺は、合理的な判断ができているか?
どのような選択をしても、そこには私怨が混ざってしまっていそうで、志水は自分の判断に自信が持てなかった。
それに、別の懸念もある。
仮に殺すことを選ぶとして、中村が罰を受けないまま死んだとなれば、それは『逃げ切った』ことになってしまわないだろうか。過去の被害者たちは、中村の死をどう受け止めるのだろうか。また彼女たちを傷つけてしまうことにはならないだろうか。
何度考えても、志水の思考はそこで行き詰まってしまう。被害者の苦しみなんて、自分の想像力で理解し切れるとは思えなかった。
「さっちゃん?」神谷が心配そうに志水の顔を覗き込んだ。
しまった、と思う。
悩みなんてない。考え過ぎだ。仕事が忙しくて、疲れが溜まっているだけだ。
そう言って一笑に付してやるべきだった。こんな悩み、神谷に相談できるわけがないのだから。
「なあ神谷」しかし、志水の意に反して口は動いていた。「おまえなら。おまえなら分かるか? 彼女たちの気持ちが」
言ってから、自分の意図を理解する。
神谷は、まるで何かに取り憑かれたかのように、他人の感情を自分の中に再現する天才だ。神谷になら、中村の被害に遭った女性たちの気持ちも分かるのではないかと期待したのだ。
「ある女性が、強姦被害に遭ったんだ。夜道で突然、路肩に停まる車の中に引き摺り込まれ、刃物で脅されて抵抗することもできないまま、暴行を受けた」
神谷は戸惑うような顔を見せながらも、静かに耳を傾けてくれている。
「強姦事件というのは、『合意なく性交が行われた』と客観的に証明できるような証拠が残らないことも多いんだ。事実を明らかにするため、思い出したくもない辛い体験について何度も何度も語り、普通なら絶対に人に話さないような自分の性に関する質問に答えることまで求められる。そんな辛い捜査を耐え抜いたところで、犯人の自供がなければ起訴に漕ぎ着けられないことだって稀じゃない。この事件の犯人は、それを熟知している常習犯だった。多数の余罪の疑いがあり、何度かは逮捕もされているが、一度だってまともに取り調べに応じず、結局全ての事件で不起訴になっている」
こんなことを言われても神谷は困るだけだ。分かっているのに、志水は止めることができない。
「なあ、神谷。教えてくれないか。彼女はどう思ってるんだ。どうすれば彼女は救われる? 犯人が死ねばいいか? 刑罰を受けて欲しいか? あるいはもっと酷い目に? なあ。おまえはミミズにだってなれる天才俳優だろ? 彼女の気持ちくらい分かるだろ」
だが神谷は、悲しそうな目で首を振った。
「駄目だよさっちゃん。たしかにオレはそこそこキャリアのある天才俳優だから、それらしいことをそれらしく言ってキミを納得させることはできる。でもキミが求めてるのはそういう表面的な言葉じゃないはずだ。神谷令の売りは、緻密な役作りとそこから生まれる生々しい感情表現だよ。その人のことをもっと知らなきゃ、本物の感情を再現することはできない」
そうか、と落胆が隠せない。
そりゃあそうだよな。俺は何を言っているんだろう。しかし、ならばどうすればいい? どうしたら正解に辿り着けるのか、他に手立てが思い浮かばない。
火にかかったままの鍋が、ぐつぐつと音を立てている。湯気で視界が曇って、神谷の顔が見えない。
「でもさっちゃん。キミになら分かるんじゃないかな。その子の気持ち」神谷が泣きそうな顔で笑いかける。「多分、その子のこと一番よく知ってるのは、キミ自身でしょう? きっとキミにしか分からないはずだ」
「は?」息が止まった。「何を。俺には、分からない。分からないから困ってるんだろ」
「分からないのは蓋をしてるからだよ。ぐちゃぐちゃに絡まったまま隠してしまったキミの思いを、四年前まで遡って解いてあげなきゃいけないんだ。今キミが直面してる問題は、あの頃から繋がってるんでしょ?」
「そんな。どうして」どうして分かったんだ。
「だってさっちゃん、泣いてるんだもの」
「は? 泣いてなんか」と言いかけて、自分の声が震えていることに気付き、そして頬が濡れていることを知った。「あれ、なんで」
気付いてしまえば、もはやその冷たい流れを止めるのは困難になっていた。何度拭っても、ワイシャツの袖は濡れていくのに、頬は乾かない。
「あの頃もきっと、キミは同じように泣いてたんでしょ? キミが約束をすっぽかしたまま音信不通になった時、仕事が忙しいのかもしれないとか、返信を忘れてるのかもしれないとか、携帯が壊れちゃったのかもしれないとか、色んな理由を考えたけど、本当は分かってたよ。キミはそんなことする人じゃないって。キミは優しいから、きっと見ず知らずの人のためにだって命を懸けることができるけど、キミからそこまで冷静さを奪えるのは、世界でたった一人なんじゃないの?」
そう言って不貞腐れる女の顔が脳裏に浮かんだ。
書けば『長瀬』と間違えられて、読めば『マコト』と間違えられる。いちいち訂正するのも億劫だし、もううんざり。
「なら、せめて名字だけでも変えてみるか?」
志水としてはかなり思い切って言ったその台詞を、意味を理解した上で彼女は笑い飛ばした。
嫌だよ『志水』なんて。『永瀬』以上に紛らわしいじゃん。
「ねえ、さっちゃん」神谷の気遣うような優しい声で、志水は我に返った。「キミと連絡がつかなくなったあの頃、キミの身には何が起きていたの?」
しゃくりが上がり、まともに喋れない。嫌だ。そんなこと訊かないでくれ。「前に言っただろ。話したくないって」
「ねえ、分かってるよ。さっきの話は、キミの大切な人の身に起きたことなんでしょ?」神谷は目を逸らしてはくれない。こんな姿、見せたくないのに。
「うるさいな。おまえには関係ない」
「さっちゃん。キミはそうやってずっと、一人で全部背負い込んで、誰にも吐き出せずに苦しい思いをしてきたんでしょう?」神谷は悲しげに微笑んだ。「そんなの苦しくて当たり前だよ。息はね、吐かなきゃ吸えないんだよ」
神谷の瞳に見つめられる。いつも彼の中にある、人を茶化すような気配は、今はどこにも見当たらなかった。
「ねえ。キミの溜め込んでるもの、全部ここで吐き出してよ」
胃が痙攣を起こし、呼吸すらままならなくなっていた。「しつこいぞ」と、たった五文字を発するだけで精一杯だ。
「だってキミは、本当は誰かに聞いてほしいと思ってることでも、『聞かせて聞かせて』ってしつこくされなきゃ、なかなか言いだせない人でしょう? だからオレは何度でも言うよ」神谷の視線が、志水の心臓を貫く。「ねえさっちゃん、聞かせてよ。あの頃キミに、何があったの?」
もはや神谷を突き放す言葉は何も思い浮かばない。乱れた呼吸は、なかなか整ってはくれない。こんな状態で話せるはずもなく、えずきそうになるのを必死で堪えるばかりだ。
吐かなきゃ吸えない。神谷はそう言ったが、痛くて痛くて吐けない場合はどうしたらいい。無理にでも吐き出してしまった方が、楽になれるのだろうか。
志水は揺れて定まらない意志の中、勢いに任せて息を吸い込んだ。しかし、次に口から出てきたのは空っぽの空気だった。言葉が喉の奥で渋滞を起こして、詰まってしまっているのだ。
神谷はただ静かに、俺が言葉を紡ぐのを待っている。
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