第3章『99GODS』

第3章『99GODS』(1)

 事務所内の人は、まだ疎だ。数名の徹夜組を除けば、大抵いつも志水が一番乗りで出勤する。職員たちの靴音や話し声、書類を捲る音、キーボードを叩く音。この早朝の控えめなざわめきが、潮風に乗って海辺の街に届く波音を思わせ、志水には心地良かった。

 やるべきことは山積みだ。任務の作戦の立案とその実行に必要な物品の手配、警察側との調整、各部への指示、完了した任務の評価分析と報告書の作成、その他諸々の雑務。加えて厄介なのは、宮本が書いた書類の添削と、彼女がやらかした事案の始末書の作成だ。宮本対応、と心の中で呼んでいるそれらは難しい仕事ではないものの、とにかく量が多い。

 緊急かつ重要なものから片付けるのがタスク管理の基本だが、今はただただ緊急なものに追われ続けていて息苦しい。かなりの猶予があったはずのタスクも、手が回る頃には緊急になっているのだ。志水に業務が過集中したこの状況は早々になんとかしなければまずいと分かってはいるものの、他の職員も皆それぞれに役割があり、志水が抱える業務を分担できるような人はいない。つまりは単純な人手不足であるわけだが、適任者が補充される兆しはないどころか、課せられる仕事は増えていくばかりだ。

 波音のようなざわめきが眼前まで押し寄せたことで、始業時刻が近づいていることを知る。隣の席の部下は、今日も遅刻寸前だ。しかし、それが志水には都合が良い。あと少しで、今日が期限の仕事は片付く。宮本が来る前に、と志水はラストスパートをかけた。


「おはようございます」

 その声の主が宮本だと気付くのにしばらく時間がかかった。普段の五月蝿いくらいに元気のいい話し声からは想像のつかない、低く掠れたか細い声だった。

 風邪か? と隣を振り返ると、これまた普段の宮本からは想像のつかないものがそこにあった。思わずキーボードを打つ手が止まる。

「どうしたんだその顔」

 宮本の目は真っ赤に充血し、瞼が重く腫れている。酷く泣いた跡だということは一目瞭然だ。

「聞いてくださいよ」と宮本は悲しそうな顔をする。「もうすぐ『ワケあり物件1DK』が最終回なんですけど、最近忙しくて観られてなかったんで、溜めてた録画を昨日一気に観たんです。そしたら」

「ちょっと待て」手を上げて宮本を制止した。「つまり、ドラマを観て泣いたせいでそんな顔になっているのか?」

「そうですけど」宮本は、何かおかしいですか? という顔をした。

 よくドラマなんかでそんなに泣けるものだ。心配して損をした。と志水は思う。宮本対応、つまり始末書の作成を再開した。

「それで、そのドラマが酷いんですよ」

「その話、俺にするのか?」こちらの気などお構いなしに続きを話そうとする部下に、志水は再び口を挟んだ。

「志水さんは大体なんでも聞いてくれるじゃないですか」

 その言い草に、衝撃を受ける。些細な事でも親身に相談に乗るよう心がけてはいたが、まさかそんな風に思われているとは。

 志水は観念し、溜め息をついた。「勝手にしろ」

 宮本は、嬉しそうににこっと笑い、語り始める。「前半はマンションの地縛霊のユウと家主の綾音のドタバタラブコメだと思って楽しく観てたんですよ。でも途中から雲行きが怪しくなって。まず、ユウの本当の名前は『かおる』で、『ゆう』はユウが生きてた頃の彼女の名前だってことが分かったんですよ。そんな酷いことあります? 綾音はもうユウのことが好きになっちゃってるのに、ずっと彼女の名前で呼んでたなんて」

 宮本は、まるで友人の失恋話でも語るかのように真剣に怒りながら喋っている。神谷が見たら喜ぶだろうなと、半分聞き流しながらぼんやりと思った。

「最新話で、ついにユウ、薫の死因が判明したんですけど、それがまた辛くて。優さんが長年の夢を叶えて入った職場で、酷いパワハラとセクハラ、というか、セクハラの域を超えた酷い性被害に遭って、心を壊してしまったんです」

 あまりの不意打ちに、胃がひっくり返ったかのような感覚を覚えた。その手の話に俺は弱い。頭から血の気が引いていくのが分かる。

「優さんは死を望んで、薫はそれを止め切れなくて。結局二人は、一緒に飛び降りて命を絶ったんです」

 動悸が激しくなった。志水は宮本に悟られないことを祈りながら、静かに息を吐いた。幸い宮本は、話すのに夢中でこちらのことなどまるで気にかけていない。

「何も悪くないのに自殺するほど傷ついてしまった優さんも、優さんと一緒に死ぬことを選んだ薫も、そこまで想ってる人がいるユウを好きになってしまった綾音も、誰ひとり救われなくて辛いです」

 志水はパソコンの画面を見ている振りをして、できるだけ興味のなさそうな態度を繕った。キーボードの上で漫然と動かした手は、始末書に意味を成さない文字列を刻んでいる。

「そりゃあ酷いドラマだな」

「良いドラマだからこそ、酷くて辛いんですよ。あと二話でどう収拾つけるんでしょう。みんな幸せになってほしいのに」

 ぷりぷりと怒る宮本の腫れた顔を見て、「だが」と口走った。

「一緒に死ぬことを選ばせてもらえただけ、その男は幸せ者なんだろう。それは他人には理解し難い不器用な選択だが、本人にとってはきっと、ただひとつの道だったんだ。俺にはその選択を責めることはできない」

 宮本は驚いたように目を瞬いた。当たり前だ。こんなことを言って、俺はどうするつもりなのか。

「そんなに真剣に聞いてくれるとは思わなかったです」宮本は志水の顔を凝視した。「神谷さんが見たら喜びますよ」


「志水さん、なんか顔色悪くないですか?」と言われ、志水の心臓は跳ねた。

 志水は宮本の方に顔を向けないようにしながら、しらばっくれて答える。「泣き過ぎて目がおかしくなったんじゃないか?」

「えっ、そんなことありますか? 眼科行った方がいいかな」真に受けて驚く宮本に、志水は申し訳ない気持ちになる。

 その会話に割り込むように、二人の間に丸い頭の形をした影が落ちた。「あんたたち、見る度にお喋りしてない? ちゃんと仕事してる?」

 振り返れば、そこにいるのは我が組織のマッドサイエンティストこと樋口眞希だ。こんな時にまた面倒なのが現れた。

「ていうか弥子ちゃん、その顔どうしたの? 志水君になんかされた?」樋口は宮本の泣き腫らした顔を見て、こちらに疑いの目を向けた。とんだ濡れ衣だ。

「まさか」と宮本は笑った。「昨日ドラマ観て泣き過ぎちゃって」

「ああ、神谷令のやつだっけ? 好きねえ」樋口は頬に手を当て、斜め上を見上げた。「あたし、テレビで観る神谷令と、あなたたちの話す神谷君が、どうにも同一人物だと思えないのよね」

「私だってそうですよ。神谷さんが神谷令だなんて、未だに信じられないです」

「神谷は神谷だろ」志水はパソコンを見つめたまま言った。二ページに亘って打ち込まれた無意味な文字列を、今度はひたすら消す。

「志水さんは俳優の神谷令を知らな過ぎるんですよ」

「まあ、それはそうだな」不服そうに言い返す宮本の言い分を、志水はあっさりと認める。早くこの場を立ち去りたい。

「で、そんな神谷君のために新作を作ったんだけど、ちょっと試してくれない?」樋口は怪しげな笑みを浮かべた。

「え、今度はなんなんですか?」宮本はあからさまに嫌そうな顔をする。「ていうか神谷さんのためって?」

「大丈夫よ、今回は怪しい物じゃないから」

ということは、日頃から怪しい物を作っている自覚はあるのか。

「聞くところによると彼、人の怪我をすごく怖がるでしょ? だから今まではあまり力入れてこなかったんだけど、新しい防具を作ってみたの。手始めに今回は弥子ちゃん用」

 樋口は手に持っていた紙袋を宮本に差し出した。袋の口からは黒い布のような物が覗いている。

「なんですか? これ」宮本が尋ねた。

「防刃タイツよ」

「防刃?」

「そう。特殊な繊維を織り込んであって、刃物が通らなくなってるの。大抵の切り傷はこれを履いてれば防げると思う」

「へえ、すごいですね。ありがとうございます」

「サイズと性能の確認をしたいから、着替えて来てもらえる?」

「分かりました」宮本は席を立った。更衣室に消えて行く小さな後ろ姿を、黙って見送る。

「それと、志水君にはこれ」樋口がこちらに投げ渡したのは、市販の胃薬だ。「お腹、痛いんじゃない?」

 そう言われて初めて、志水は自分が腹を押さえていることに気がついた。

「その顔、ひさしぶりに見た。あたしがここに入った頃は、しょっちゅうそんな怖い顔してたわね」樋口は宮本がいなくなった席に腰かけ、志水と向かい合う。「君にも色々あるんだろうけど、可愛い部下に見せていい顔じゃないわね。少し休んでらっしゃい」

 どこから見られていたのだろうか、お見通しだったというわけだ。樋口に礼を言いながら、やれやれ敵わないなと立ち上がった。


 トイレの鏡に映る自分と目が合った。なるほどこれは酷い顔だと思う。

 顔色は青白く、目は澱み、額には冷や汗が浮かんでいる。それでも少しは気分はましになったから、きっと宮本の話を聞いている時はもっと酷い顔をしていたのだろう。

 あなたってつまらない人ね。と呆れた昔の女の顔を思い浮かべた。


  ***


 あれは最悪な気分だったな。

 鍋をかき混ぜながら昨日のことを思い出して、また苛々している。

 平日だというのに、朝早くから警察官が家を訪ねて来た。会社に遅刻したらどうしてくれるつもりだったのだろう。もっとも、偶然休暇を取っていたから仕事に影響はなかったのだが、警察なんかの相手をするために休んだわけではない。

荻野おぎの結実子ゆみこさんですね」ドアを開けるなり、その中年刑事は言った。

 ここが私の家だと知っているから来たんだろうに、どうしてそんな分かりきったことを尋ねるのだろう。警察という生き物は、いつもそうだ。考えなくても分かるような当然のことを、いちいち私の口から言わせないと気が済まないのだ。

 警察官の用件は、私には知ったこっちゃない話だった。なんでも昔付き合っていた男が山の中で遺体で発見されたそうなのだ。

 そもそも、しゅん君と付き合っていたのは一ヶ月にも満たないほんの短い期間だった。別れた原因はしゅん君の二股だ。たまたま彼が他の女とデートしているところを目撃して、その後すぐに私から振った。

 だから、私は彼が死んだことなんて知ったこっちゃないのだ。全部しゅん君の自業自得なのだから。

 山に埋めたのがまずかったのだろうか。いや、そうとも限らない。三年前に川に流したハヤトだって、二年経ってから海岸に打ち上げられて見つかってしまった。

 その時も刑事が家に来て、昨日の刑事と同じように、彼と付き合っていた頃のことを根掘り葉掘りしつこくしつこく尋ねてきたのだ。私にとっては忘れたい記憶ばかりだというのに。


 おっといけない。また昔のことを思い出して嫌な気持ちになっていた。

 これまでたくさん辛い思いはしたけれど、やっと幸せになれたんだから、今を目一杯楽しまなきゃ。振り返れば、リビングには幸せの象徴がいるのだから。


 よく考えてみれば、今までの方がおかしかったのかもしれない。

 たっくんも、ハヤトも、マサも、しゅん君も、みんなみんな、最初からおかしかったのだ。

 きっと私は男運がないんだ。私にはまともな恋愛はできないんだと、内心諦めていた。こんなに幸せな日々が訪れるなんて、憧れはすれど思ってもみなかったことだ。


 出会いはいつもナンパだった。女慣れしている様子の彼らが、愚かにも格好良く見えた。私って案外イケてるのかもと、嬉しくなったりもした。調子に乗ってついて行き、決まってそのまま関係を持った。そうして愛を確かめ合ったと思ったのに、しばらく経つと一方的に捨てられた。


 りょう君も、いきなり声をかけてきたのは他の男たちと同じだ。でも、彼はどこか違った。

 見た目は派手なのに、どこか自信がなさそうで、私の目も見られないで、それがなんだか可愛く思えた。

 それでも私はもう、男を信じられなかった。だから、出会ったその日に身体を求めてくるようなら、今までの男たちと同じにしてしまおうと思った。

 でも、りょう君は違った。


 彼に出会った日、「一緒にお茶しない?」なんてベタな台詞で誘われた。本当にお茶だけして帰ったのはそれが初めてだ。でも、彼は大切なことを言ってくれた。

「出会ったばかりでこんなことを言ったらおかしく思われるかもしれないけど、俺は結実子さんのことが好きです。付き合ってください」

 その時の彼の、照れて揺れる瞳が、今も胸に焼きついている。


 恋人になって初めてのデートの日、先に着いていた彼を見つけて、「ごめんね、待った?」なんてベタな挨拶をした。

「うん、すごく待った。楽しみ過ぎて、一時間も早く着いちゃったから」

 そう言ってはにかむ彼の笑顔に、私の心臓は掴まれた。

 その日はたくさん話をした。彼がバンドをやっていること、いつかライブハウスを満員にするのが夢だということ、生活費はバイト代でなんとかやり繰りしているということ、店長の人遣いが荒いということ。

 抱かれる覚悟も準備もしていたが、新しくオープンしたカフェに行って、話題の映画を観て、少し背伸びをしたレストランで夕食を食べて、家まで送ってくれて、玄関で別れた。だか、大事にしてくれているようで、それが嬉しかった。


 そして今夜、彼が私の部屋にいる。

 彼と会うのはほんの三回目だが、私たちの間には確かな愛がある。私は今、彼が目の前にいる幸せを噛みしめている。


 料理が得意だと話したら、食べたいと言ってくれた。私はすっかり舞い上がって、わざわざ休みを取って昨日から丸一日かけて仕込みをし、腕によりをかけて彼のためだけの料理を作って、彼を家に招待したのだ。

「ゆみたん、すごいね! これ、俺のために作ってくれたの? 大変だったでしょ。頑張ってくれてありがとう」

 テーブルに揃った料理を前に、彼はキラキラした目でそう言い、私の手を握ってくれた。二人きりの時だけに聞かせてくれる、少し甘えた声だ。

「りょう君が来てくれるから、ちょっと張り切っちゃった。ね、食べて?」私は照れて笑いながらそう言った。

「うん、いただきます」りょう君は柔らかく微笑んだ。


 その時、涼太りょうたのスマートフォンがピコンと鳴った。メッセージの通知が目に止まる。

 涼太は反射的にスマートフォンをテーブルから取り上げた。まるで何かを隠すように。

「ああ、出しっぱなしにしててごめんね。せっかく二人きりなのに。今、バイトのグループチャットが盛り上がっててさ」

 涼太は訊いてもいない言い訳をペラペラと喋る。

「気にしないで。食べよ?」私は涼太の様子に疑念を抱きながらも、平静を装ってそう言った。

「うん」と言って涼太がスマートフォンを仕舞おうとした時、今度はピロピロと着信音が鳴った。涼太の顔が、彼に似合わない性格の悪そうな顰めっ面になる。

「電話? 出たら?」

 私がそう言うが早いか、涼太は席を立ち、キッチンの方に移動して電話を取った。

「もしもし、何? 今日は電話しないでって言ったじゃん」

 苛立ったようなその声は、私が初めて聞く声だ。

「え? そんなんじゃないってば」

 涼太は急に甘えた声になる。その声は、私だけに聞かせてくれるはずの声だ。

「分かったよもう。行けばいいんでしょ? すぐ向かうから。後でね」

 涼太は電話を切り、リビングに顔だけ出して言った。

「ごめん、ちょっとバイト出なきゃいけなくなったから、俺行くわ」

「そんな。ご飯は?」私は縋るように涼太に駆け寄る。

「いらない。食う時間ない」涼太は既に玄関に移動し、靴紐を結んでいる。

「じゃあ、明日来てよ。煮込んだらもっと美味しくなるから」

「あー、明日は無理。予定ある」

 そして涼太は私の顔もろくに見ずに「ごめん、じゃあね」と去っていった。


 私は絶望感に打ちひしがれ、その場にへたり込んだ。

 バイト? そんなわけあるか。だってあんな甘えた声で。


 許せない。


 許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。


 メッセージの通知を思い出した。

 送信者の名前は『*mikaミカ*』。

「ねえ、明日ここ行こ。新しくできたカフェ」

 そのメッセージの続きに貼られた写真は、私とりょう君が初めてのデートで行った店の看板メニューだった。


 同じにしてやる。

 りょう君も。女も。

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