延宝七年 秋  蓬莱楼喧嘩始末 後始末

 半兵衛の所に唐犬権兵衛がやってきたのは、大老酒井忠清の屋敷に将軍徳川家綱が御成りしてからしばらくの事だった。

 吉原前の飯屋で昼飯を食べていた半兵衛の前に当然という感じで座るが、唐犬権兵衛の表情には陽気さはなく真剣な眼差しである。


「捕まった旗本奴の連中の切腹が決まったそうで。

 我々は打ち首獄門の所業も武士ならば切腹が許される。

 いい御身分ですな」


 唐犬権兵衛の言葉に半兵衛も眉をしかめるが何も言わない。

 口の中の握り飯が邪魔をしていたのもあるが、唐犬権兵衛の言いたい事もわかるしその通りだと思っているからとはいえ、それを言ったら自分たちも同じ穴のむじななので半兵衛は何も言わないし、言えない。


「評定所が素早く動いたのは、老中の堀田様が動かれたとかで」


 それを言いに来たのだろう。

 半兵衛たちが大老酒井忠清側なのを知って、唐犬権兵衛はそれを告げる。

 酒井忠清が失脚すれば、次は自分たちかもしれないのだ。

 飯を飲み込んで、茶を飲んた後に半兵衛は尋ねた。 


「霊岸島の旦那は堀田様についたと?」


 唐犬権兵衛の背後には霊岸島の豪商と呼ばれる河村十右衛門が居た。

 この出会いも河村十右衛門の言付けだろう。


「…………」


 半兵衛は無言のままであったが、それこそが答えであった。

 次期将軍を巡る幕閣の争いは、大老酒井忠清と老中堀田正俊の対決としてついに発火しようとしていた。

 そんな騒動の最中、江戸城では将軍家綱が病気がちて表に姿を現さず、政務は滞りを見せるかと思われたが、意外にも酒井忠清や堀田正俊の二者が率先して政務にあたり、幕府の体制が揺らぐことはなかった。


「旦那。こっちに来ませんか?

 吉原を出て」


 唐犬権兵衛がぽつりと呟く。

 半兵衛は答えずに外の鰯雲を眺める。

 唐犬権兵衛の呟きは半兵衛にではなく独り言に近い物だったが、言わんとする事は半兵衛にも理解できた。

 今ならば、半兵衛だけならば逃げられるのだと。


「旦那。少しの間ですが、旦那たちを見てきた。

 組んで楽しかったんでさぁ。

 このままだと、もう一人の石川の旦那と殺り合うことになりますよ」


 石川の旦那こと石川新右衛門は、堀田正俊の食客で、次期将軍に最も近い松平綱吉の剣術指南役である。

 酒井忠清と堀田正俊の暗闘が本格的に始まれば、石川新右衛門が半兵衛を殺しに来る可能性はいくらでもあったのだ。

 そして、酒井忠清がこの暗闘で負けた場合、半兵衛が居る蓬莱楼もただでは済まないだろう。


「……」


「だから、一緒に行きましょう。

 俺と一緒に来てくだせぇ。

 俺なら旦那を逃がす事が出来やすぜ」


 半兵衛の視線は鰯雲から離れなかった。

 眺め続けていた半兵衛は唐突に唐犬権兵衛の方を向いてゆっくりと目を閉じて首を横に振った。

 その決断に迷いはない。

 目を開けた半兵衛の先には唐犬権兵衛の驚きの顔が見えた。

 断られると思わなかったのだろう。


「最初は逃げようと思ったさ」


 ぽつりと半兵衛も呟く。

 また視線を鰯雲に向けるが、その目は鰯雲ではなくどこか遠くを見ていた。

 昔を思い出しているのか、あるいはこれから来る未来を思い描いているのか唐犬権兵衛にはわからない。

 だが、それも一瞬の事であり、すぐに半兵衛の目には光が宿る。

 決意の光だ。


「だが、俺を育ててくれた由井先生は浪人とはいえ俺を立派な侍に育ててくれた。

 ここで逃げたら、俺は由井先生に顔向けできなくなる」


 半兵衛は己を育てた男の名を告げた。

 それは半兵衛にとって命より大事な存在。

 半兵衛のその言葉を聞いて、唐犬権兵衛は説得を諦めた。

 どうあっても半兵衛は自分の意思を貫くだろうし、そもそも自分の誘いに乗るような人間であれば、こんな所で生きていないだろうと唐犬権兵衛は思ったのだ。


「ああ。そのお方の名前を出されると何も言えなくなるじゃないですか」

「そうなのか?」

「大親分だった長兵衛の旦那と由井先生は付き合いがあったんですよ。

 長兵衛の旦那は旗本奴の横柄に怒り、由井先生は浪人を救おうとしない幕府に憤りを覚えていたのはご存じかと」

「いいや。まったく知らなかった。

 あの頃は、何も知らぬ童だったからな」


 半兵衛は己の言葉に苦笑するしかない。

 本当に何も知らない無知な子供であったのだ。

 だからこそ、そんな半兵衛からすれば、自分を助けてくれる大人がすべてだったのだ。

 唐犬権兵衛はそんな半兵衛顔に羨望を覚える。


「旦那。最後にもう一つだけ忠告させてください」

「なんだ?」


 唐犬権兵衛は真剣な目で半兵衛を見る。

 そこには一片の偽りもなく半兵衛も唐犬権兵衛の言葉を聞くしかなかった。


「長兵衛の大親分の口癖だった言葉があるんでさぁ。

 『俺らでも幸せになってもいいんだ』。

 旦那もあっしもお天道様の下を歩けるような生業ではないと思いますが、それでも幸せになってもいいっておっしゃっていたんでさぁ。

 だから、旗本奴の横暴に怒り、由井先生と付き合っていたのだと」


 半兵衛はそれを聞いて嬉しそうに笑った。

 その言葉に従えないとはいえ、そんな生き方もあるのだと思うと半兵衛の心は少し軽くなった気がした。




 吉原大門に入ろうとした所で、半兵衛は足を止めた。

 そこに待っていたのは、石川新右衛門である。


「石川の旦那。昼から吉原とは良いご身分ですな」

「はは。この間の件で褒美が出てな。どうだ?俺の驕りで?」

「それはそれは。ご相伴に預からせて頂きたく……」


 こんなやり取りがもう長くは続かない事を、半兵衛も石川新右衛門もわかった上で、二人は吉原の大門をくぐった。

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