延宝七年 秋  蓬莱楼喧嘩始末 その6

 唐犬権兵衛はいい仕事をした。

 彼が率いる町奴を使ってこんな噂を流したのである。


「今度吉原で行われる秋芝居。

 何でも幡随院長兵衛の話をするらしいぞ」


「あれを吉原でするのか!?

 『湯殿の長兵衛』って講談でも有名な話だが、旗本奴が黙っていないだろうに」


「あの騒動ももう三十年前だ。

 前々からやりたがっていたらしいが、旗本奴の目が怖くてできなかったいわくつきの芝居。

 吉原前に作られた芝居小屋で一夜のみ行うらしいぞ」


「ああ、将軍様が酒井様の御屋敷に御成りするからか。江戸中の芝居小屋を休ませなきゃ役者も集められないしな。

 しかし、誰が長兵衛役をするんだ?」


「それが聞いて驚け。

 市川團十郎だそうな」


「本当か!?

 吉原前の芝居小屋といい、二枚目の市川團十郎を連れて来るといい、誰がお大尽についたんだ?」


「決まっているだろう?

 霊岸島の豪商。河村十右衛門だよ」


「ああ。あの旦那ならできるのか。

 酒井様の御屋敷を造り、堀田様の老中就任に尽力したからこそこういう芝居ができると」


「先の東条大夫に冬花大夫の身請けといい、さすがの豪商よ」 


 見え見えの罠である。

 だが、旗本奴と言えども侍ならば、ここまで挑発された以上は出なければ町奴どもに舐められる。

 この時点で、彼らは罠にかからざるを得なくなったのだ。

 かくして、夜、作りかけの吉原前の芝居小屋を壊そうと二十数人の旗本奴が集まった所を、唐犬権兵衛率いる五十人近い町奴が取り囲む。

 取り囲まれた旗本奴を前に半兵衛が唐犬権兵衛に寂しそうに嘆く。


「旗本奴もここまで落ちぶれたか。

 水野十郎左衛門なら芝居を見る度量ぐらいはあったというのに。


「所詮。湯殿で闇討ちする輩。

 最初からその程度の連中でさぁ」


「黙れ!町人風情がお上を誹謗する事は許さぬ!!」


 激昂する旗本奴であったが、既に多勢に無勢。

 半兵衛たちに殴りかかろうとしても、それ以上の町奴たちに襲われる。

 喧嘩が剣を抜かず素手で行われたのは、剣を抜いて幕府に捕まったら言い逃れできないからである。

 しかも、忘八者を加えて数を水増しした上に火事場衣装で武装までしていた町奴に、刀を封じられた旗本奴の勝ち目はなかった。

 

「御用だ!貴様ら!何をしている!!」


 夜中の喧嘩に奉行所が出張らない理由はなく、この騒ぎを聞きつけた中村主計率いる同心達が駆けつけた時には、既に旗本奴は全員捕縛された後であった。

 もちろん町奴の姿は既に無く、吉原で暴れたという理由で残った忘八者と半兵衛が中村主計に旗本奴を引き渡す。

 ここまで半兵衛と中村主計が手を組んでいたなんて旗本奴たちに分かる訳もなく、捕らえられた彼らは口々に、


「自分達は何も悪い事をしていない。芝居を見ようとしただけだ」


と言い逃れようとするが、彼らの主張を聞いた同心達は呆れ果て、その言い訳を信じる者は一人もおらず、後日彼らに評定所より切腹が申し付けられる事で、一連の騒動は終わりを迎える。

 その旗本奴の中に、志賀仁右衛門が居なかった事を除いて。




 秋の夜長の吉原の小道を侍風の男二人が駆ける。

 一人は平然と、もう一人は息も絶え絶えに。

 吐く息粗く、志賀仁右衛門が小道に座り込む。


「ま、待ってくれ……もう動けぬ……」


 座り込んだ志賀仁右衛門を石川新右衛門は冷ややかな目で見ていた。

 疲れ果てた志賀仁右衛門の頭には、あれだけの町奴に囲まれながらも都合良く石川新右衛門に助けられ、吉原に逃げ込めたという出来すぎた話への疑問は浮かんでいない。


「もう少しでございます。この先の楼閣まで逃げ込めれば、町奴とて手を出せませぬ」


 石川新右衛門は毅然と言い放つ。

 吉原内の事は石川新右衛門の方がよく知っているからだ。

 実際、二人が目指した楼閣は、吉原の遊郭の中でも最高級の店で、遊女達の質もよく、金さえ払えば無礼講という事もあって客層もいい。

 町奴などが入れる店ではないのだ。


「そこまで行けば、町奴どもに襲われぬのか?」

「はい。酒井様もお忍びでいらした『蓬莱楼』ならば、町奴どもは入る事も出来ませぬ」

「ほ、蓬莱楼!?」


 志賀仁右衛門の声が上がる。

 彼は、高田藩重臣永見大蔵の依頼を受けて『蓬莱楼』への打ちこわしを企んでいたのだから。

 夜の闇によって立っている石川新右衛門の顔は彼には見えないが、腰の刀が抜かれ白刃が月に光る。


「ええ。ご存じでしょう?

 あなた方旗本奴が襲おうとした店です」


「ま、待て!

 某を誰と心え……」


 その先を志賀仁右衛門が言えなかったのは、石川新右衛門の刀が彼を突き殺したからだ。

 絶命した志賀仁右衛門を前に刀についた血糊を拭いて石川新右衛門が蔑むように言う。


「旗本奴でしょう?ただの?」


「終わったか?」


 半兵衛と唐犬権兵衛がやってきたのは、そんな時だった。

 丁度よい人手が現れたと石川新右衛門が破顔する。


「よかった。

 これを堀に投げ入れるのを手伝ってくれ」


「偉そうなお侍も、仏になれば堀に落とされる。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ……」


 手を合わせる唐犬権兵衛を後目に、足を持つ半兵衛と手を持つ石川新右衛門がお歯黒どぶに死体を投げ入れる。

 大きな音がしたが、吉原ではそんな音は気にしないし気にする訳が無い。


 こうして、蓬莱楼を巡る喧嘩は終わった。

 その後、沼田藩は藩主の病気を幕府に届け出るが、幕府は沼田藩領民の直訴を受けて沼田藩を取りつぶす事になる。

 この沼田藩取り潰しを主導したのが、新しく老中となった堀田正俊であった。

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