延宝七年 夏  蓬莱楼喧嘩始末 その3

 旗本奴の頭目。志賀仁右衛門。

 幕臣でありながら、将軍がおわす江戸の町で暴れる無頼集団の頭目の彼は、『性格は残忍で、常に喧嘩を積極的に行い、血を見ることを楽しむ』という札付きの悪であり、幕府も彼の行方を追っていたのである。


「それがどうして見つからないんで?」


 吉原大門前の番所の中で半兵衛はぼやく。

 吉原からの差し入れらしく番所の前には朝顔の鉢植えが置かれており、朝には花を咲かせそうになっていた。

 助力を求めた石川新右衛門と番所の役人中村主計は同門の知り合いという事もあって、情報交換と協力を石川新右衛門は求め、半兵衛は石川新右衛門のお付という事でこの場に入っている。

 もっとも、石川新右衛門と中村主計は半兵衛を肴に酒をあおっているだけなのだが。


「いくつか理由があってな。

 まず、志賀仁右衛門は多分本名ではない」

「はい?」


 行灯の灯かりに映る石川新右衛門の答えに半兵衛が素っ頓狂な声を出すと、今度は中村主計が楽しそうに続きを口にした。番所故に灯かりも困らず、だからこそこういう話は夜に行われる。


「我々だって仕事はしている。

 幕臣を調べ志賀家に対しては詮議すら行った。

 そして、志賀家には志賀仁右衛門なる人物は居ないという事が分かった」


「はぁ!?

 そりゃあ、おかしいでしょう?

 じゃあ、今、江戸の町を騒がせている志賀仁右衛門なる御仁は誰だって言うんですか!?」


 半兵衛の言葉に、石川新右衛門は苦笑する。

 確かに、幕府の面子を潰されたのだから、普通ならもっと必死になって探すだろう。

 半兵衛がそんな事を考えている間に、石川新右衛門は話を続けるついでに塩を舐めた。


「先代頭目だった水野十郎左衛門が寛文四年に切腹。

 他の名だたる旗本奴の頭目も切腹や改易などの処分に追い込まれて、馬鹿正直に名乗る訳がないだろう?」


 確かにその通りである。

 旗本奴とは言ってしまえばヤクザ者の集団であるが、武家社会においてその存在は決して無視できるものではない。

 何しろ、幕府から旗本として取り立てられる程の名門ばかりなのだ。

 下手に手を出せば後々面倒になる事は目に見えていた。


「更に厄介なのが、志賀仁右衛門の事を志賀家側が庇っている節があってな。

 戦が起これば、強い侍と足軽が必要になる。

 志賀仁右衛門を名乗る男は強い上に旗本奴の頭目だ。

 それが勝手に志賀家を名乗って戦で功績を立てようものならば、我が家の誉となる訳だ」


 中村主計にそこまで言われて半兵衛にも事情が見えてきた。

 太平の世ではあるが、武家はまだ戦を忘れた訳ではない。

 その時に、この様な無頼漢でも使えると判断しているからこそ、捜索がなおざりになっていたのだ。

 浪人として暮らしていた半兵衛にはこのあたりの機微が分からないが、なんともやりきれない気持ちになったのは確かであった。


「それで、志賀仁右衛門は何処にいるといいうので?」

「何処にいるかは分からないが、どこに来るかは分かるだろう?」


 酔っている中村主計の実に楽しそうな顔で半兵衛も察するしかない。

 そもそもここに来たのは、その志賀仁右衛門率いる旗本奴たちが蓬莱楼を襲うかもしれないという所から始まっているのだから。


「蓬莱楼を囮にするとおっしゃるので?」

「吉原を囮にすると言っているのさ。

 お上にとっては、旗本奴も吉原もそれぐらいの価値しか見ておらん」


 酔っているようで頭は酔っていないらしい中村主計の実にあっさりとした言い回しに半兵衛は苦笑するしかない。

 ここまで言われると怒るどころか、笑いたくなるもので、半兵衛も石川新右衛門が差し出した盃をあおる。


「蓬莱楼での喧嘩、お上公認と思ってよろしいと?」

「あいにくそこまで偉くはない。

 せいぜいお上黙認程度に考えてもらえると俺としても助かる」

「はははははっ! それはいい!」


 中村主計の言葉を受けて、半兵衛は腹の底からの笑い声を上げる。

 その言い方ではまるでお上の後ろ盾を得たようなもの。それならばこの程度の無茶は許されると言う事であろう。

 何しろ、ここで暴れているのは江戸市中を荒らす無頼どもであり、それを成敗するのはお上の仕事なのだから。


「大小神祇組の連中は十数人から二・三十人で徒党を組んで悪さをしている。

 これ以上だと多すぎて捕まり、少ないと町奴の徒党に数で負けるからな。

 喧嘩となれば、蓬莱楼もそれぐらいの忘八者を集める必要があるだろう」


 中村主計の言葉に、盃をおいて石川新右衛門が続きを話す。

 半兵衛は口を挟めないが、酒をあおる石川新右衛門の目もまったく酔っていなかった。


「半兵衛。集められるか?」

「蓬莱弥九郎に頼めばそのあたりは。

 ただ、そんな連中を率いて旗本奴に勝てるので?」


「勝つ必要はない。

 逃げ場のない吉原で志賀仁右衛門が喧嘩をすることが大事なんだ。

 その横から我らが捕まえるからな」


 そう言って、中村主計は不敵に笑う。

 そんな中村主計に半兵衛は尋ねざるをえなかった。


「ちなみに、この喧嘩吉原にお咎めとかは出ないでしょうね?」


 半兵衛の不安そうな顔に石川新右衛門が酒をあおりながら冗談を口にした。


「念のためだ。

 やる前に大老酒井雅楽頭様に話しておいた方がいいのかもしれんな。

 何しろ、将軍様が酒井様の御屋敷に御成りになる所で騒ぎを起こすのだから」


 石川新右衛門は知らなかった。

 半兵衛がかなり深い所に居るという事を。

 豪商河村十右衛門や酒井家で女中修行中の冬花とのコネを使えば、対面越しは無理でも大老酒井忠清の耳に入れる程度の事はできるという事を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る