延宝七年 夏  蓬莱楼喧嘩始末 その1

 冬花が吉原を去っても半兵衛は吉原に居た。

 元から居場所がなかった身の上、行く当てもなかった半兵衛は今日も蓬莱楼楼主である蓬莱弥九郎の愚痴を聞く。


「……で、だ。

 聞いているのか?半兵衛?」

「すまん。聞いていなかった」


 半兵衛の気の抜けた返事に弥九郎はやれやれとため息をつく。

 今の半兵衛は表も裏も仕事をしなくていいだけの金が入った事もあり、仕事を断る事もできたからだ。

 酒に酔ってもいないのに、目は心ここにあらずという顔もちで半兵衛は弥九郎を眺め、弥九郎は呆れつつ盃をあおる。

  

「お前という奴は……。

 逢瀬が終わった蛍じゃあるまいし。

 折角の千両箱が泣くぞ」

「光る事もできやしない……ん?

 弥九郎が使ったんじゃないのか?」

「ふざけた事を言うな。

 冬花の身請けは、河村十右衛門の旦那名義だろうが。

 お前の千両箱にはびた一文手をつけていないよ」


 弥九郎はぼやくが、手を出すつもりがなかったと言えば嘘になる。

 だが、手を出して半兵衛を敵に回す事よりも、半兵衛に失望される事の方が弥九郎には怖かったのだ。

 忘八者ではあるが、命の恩人を裏切るような人間がこの吉原の大店を差配する事はできない。

 忘八者には忘八者なりの筋があるのだ。


「それで、蛍がなんたらと……何の話だったか?」

「……まったく、人の話はちゃんと聞けと言っているだろうに……。

 大老酒井雅楽頭様の屋敷へ将軍様が御成りする話だ」


 やっと半兵衛の目に色が戻る。

 その大老酒井忠清の屋敷に身請けされた冬花は、お満流の方こと東条高尾の女中として働いているからだ。

 会えなくなったが、寂しさから別の女に手を出す事もなく、それがまた男を上げると蓬莱楼の女たちにもてているなんて半兵衛が知る訳もなく、弥九郎も言うつもりはない。


「やっと少しは聞く顔になったか。

 御成りの後、幕閣の人事も動くらしく、若年寄の堀田様が老中になられるそうだ」

「……そうか」


 大老酒井忠清と若年寄堀田正俊の対立が発生している幕閣の暗闘だが、老中土屋数直と老中久世広之が相次いで病死した事で後任を決める必要に迫られたのだ。

 ここで、館林宰相松平綱吉の後援があった堀田正俊が老中の座に上り、残り一人は徳川家光時代の大老土井利勝の四男である土井利房が座る事になる。

 現状、四代将軍徳川家綱には子供はおらず、何かあった際の五代将軍は松平綱吉になる可能性が高い。

 これは、次期将軍が松平綱吉となる前準備の人事とも取れる訳で、この人事が決まった後に将軍徳川家綱が酒井忠清の屋敷に御成りとなる事をうけて、『酒井忠清の権勢は未だ衰えず』と幕閣をはじめ諸大名や御家人たちは噂しているのだろう。


「で、だ。

 この御成りに騒動を起こそうという馬鹿たちが居る」

「……まさかとは思うが、あの高田藩の連中か?」

「それ以外に誰が居るってんだ?」


 正しくは高田藩お為方で脱藩した浪人連中で、天を見上げる半兵衛に弥九郎が苦笑するが、実は他人事でないのは弥九郎も同じである。

 何しろ、酒井忠清の手駒として高田藩の騒動で陰に要人を始末していたのがこの二人であり、面子を潰された彼らが風魔夜盗を使って報復した所返り討ちにあっているのである。

 彼らの論理からすれば面子がつぶれたままであり、なんらかの報復は必然と言えるだろう。

 苦笑を引っ込めて、真顔で半兵衛に告げる。


「さすがに将軍様に直訴ってのはしないだろうが、邪魔をした俺たちを始末するぐらいの事はしてくるだろうな。

 御成りに合わせて」

「だろうな……」


 吉原とはいえ御成りの直後に騒動が起これば、二人の雇い主であり天下を差配し『下馬将軍』と呼ばれるほどの権勢を誇っている酒井忠清といえど面子は丸つぶれである。

 なお、表向きは浪人と忘八者の喧嘩でしかないから、下手に手を出して高田藩の名前が出ようものならば酒井忠清が穏便におさめようとしていた越後騒動にまで火がつきかねない。

 

「で、勝てるか?」

「……無理だろう。浪人とはいえれっきとした武士だ。

 俺みたいな奴じゃない」

「だよなぁ~」


 二人そろってため息をつく。

 半兵衛と弥九郎にしてみれば、日常茶飯事な忘八者による吉原の騒ぎなど可愛いものである。

 その騒動に乗じて自分たちを殺そうとする者がいるかもというのも覚悟の上だ。

 だが、この騒動が幕閣の、いや天下を左右するなんて言われた所でという訳で、表にでようものならば吉原は取り潰し。連座がどこまで広がるか考えただけでも恐ろしい。

 それがわかっているだけに、二人の口から出る言葉も重く顔色も悪いのだ。


「ならば少し、武士の真似事でもしてみるか」


 半兵衛が呟き、弥九郎が盃を置く。

 今のままでは負けるならば、何か手を打つ必要があった。

 そして、その手も当てがあったのである。


「お前さん、何を考えている?」

「昔、由井先生が語ってくれた話が合ってな。

 それを思い出したのさ」


 半兵衛がニヤリと笑う。

 それはまるで悪戯を思い付いた子供のようで、弥九郎は不安しか感じなかった。


「何だ? その話というのは?」

「有名な話で弥九郎も知っているだろう?

 伊賀越の仇討ちさ」

「ああ。歌舞伎や浄瑠璃や講談でよくやるからな。

 あれがどう……まさか!?」


 察した弥九郎の顔色が変わり、その表情を見て、半兵衛が満足げにうなずく。

 伊賀越えの仇討ち、別名鍵屋の辻の決闘と呼ばれ、剣術指南役荒木又右衛門の名前を世に知らしめた決闘。

 彼の剣は新陰流だった。


「鍵屋の辻の決闘ほど派手ではないが、助太刀を頼むのさ。

 石川新右衛門に」

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