延宝六年 秋  風魔野盗 その三

 町にも臭いがある。

 その住人には嗅ぐ事は難しいが、だからこそ余所者の臭いを嗅ぎ分ける事ができるのだ。

 それは、ここ吉原でも変わらない。


「風魔の夜盗が火付けを行う。

 その狙いは大老酒井雅楽頭様の屋敷。

 そこまではいい。依頼はそれの阻止だからな」


 蓬莱楼の楼主部屋で酒をあおりながら蓬莱弥九郎がぼやく。

 その姿を半兵衛は眺めつつ彼の酒宴に付き合う。

 ただの簪職人が大手遊郭の主人の酒宴に付き合える訳もなく、そういう所からも半兵衛がこの蓬莱楼で特別な位置にいる事が分かるのだが、二人ともそれを気にしない。


「じゃあ、何でそれに合わせてこの吉原を焼くって話になっているんだ?」


 弥九郎の疑問に半兵衛は盃を置いて考えを述べた。

 二人とも酔ってはいるが、頭まで酒は回っていない。


「一つは囮だろうな。

 吉原が焼けるほどの火ならば、近くの火消しがいやでも集まる。

 その隙に酒井様の屋敷をという訳だ」


「一つという事はもう一つあるんだろう?

 もったいぶらずに言えよ」


 空の盃を持ったまま弥九郎が促す。

 徳利を持って空の盃に酒を注ぎながら、半兵衛は続きを口にした。


「もう一つは同じ囮だが、もう少しましな話だ。

 吉原を焼く話、かなり広まっているだろう?

 ここに目を集めさせて、焼くかどうかは知らん。

 その間に風魔夜盗は既に消えているという訳だ」

 

 半兵衛の言葉を聞いて、弥九郎は顔をしかめた。

 確かに、半兵衛の話通りなら上手くいくかもしれないが、そんな事が可能なのかと疑いたくなる。

 弥九郎の様子を見て半兵衛は苦笑を浮かべて説明を続ける。


「もちろん、そう簡単にはいかない。

 既に町奉行の耳に入るまでこの話は広まっちまった。

 酒井様とて手を打っているだろうし、お前さんだって知っているだろう?」


「その手の一つがお前なんだがな。半兵衛」


 注がれた酒をあおりながら吐く弥九郎の言葉に半兵衛は肩をすくめるだけで何も言わない。

 火付け自体はそれほど難しくはない。

 放火をする場所を決めて、そこに近い者を買収すればいい。

 後は買収した者に金を渡して、火を付けるように言い、火事が起こったらすぐに逃げる。

 逃げ足が速ければ速いほど疑われる可能性が減る。

 更に、放火の実行犯が捕まってしまっても口封じをしておけば証拠もないから問題はない。


「何で風魔の連中は吉原を焼くんだ?」


「おい。半兵衛。もう酔ったのか?

 その訳はお前が言ったばかりだろうが?」


 呆れ顔になる弥九郎に対し、半兵衛は顔をしかめて考え続ける。

 そんな彼を見て弥九郎は己で盃に酒を注ぐ。


「もっと生臭い所の話だ。

  お前の依頼を俺が断らないのは、しがらみもあるし金がもらえるというのもある」

「そりゃあそうだ」

「じゃあ、風魔の連中は吉原に火をつけるなんて依頼を誰から受けて、どれぐらいの金をもらったんだ?」

「それは……」


 半兵衛の言わんとしている事に弥九郎も盃の手が止まる。

 火付けで大老屋敷を狙うというのは普通ではない。

 しかも、今回の場合火付けそのものよりもその後の方が重要な意味を持つ。

 だから、弥九郎は半兵衛の言葉を予想していたはずだが、それでも驚きを隠せなかった。


「火付けは江戸の町では重罪だ。

 下手人は死罪だし、そそのかした幕閣のお偉方も良くて失脚、悪ければお家取り潰しだ。

 そんな手を堀田備前守様や館林宰相様が選ぶと思うか?」


 現状、大老酒井忠清よりも若年寄堀田正俊の方が勢いがあると言えよう。

 それは今の将軍で病弱である徳川家綱に後継者となる子供がいないからで、彼に何かあったら五代将軍になるかもしれないのが館林宰相こと松平綱吉である。

 彼らは待っていれば勝ちが転がり込む場所にいる。

 吉原を焼くなんて大逆転の手を打つ必要がない。


「で、俺たちにこんな依頼を持ってきた大老の酒井様も違う。

 吉原だけならまだしも、誰が己の屋敷に火をつけるというんだ?」


 半兵衛が言うまでもないが、今の江戸において大老酒井忠清の名声は高い。

 病弱な将軍家綱に代わって江戸城内の諸事を一手に引き受け、『下馬将軍』と呼ばれる権勢を誇っている。

 たとえ、その権勢が先に衰えるとして、己の屋敷に火を放つ愚物ではこの幕府を一手に引き受けるなんて事は出来る訳がない。


「じゃあ、この風魔夜盗が吉原を焼くって話、誰が黒幕なんだ?」


 そもそもの話として、この風魔とやらは何故こんな事をしようとするのか?

 単純に考えても、幕府に対する反逆である。

 しかし、ただそれだけではないはずで、そこには何かしらの意味が存在するはずなのだ。

 例えば、幕府に対する復讐という側面もあるかもしれない。

 弥九郎の低い声に半兵衛は盃を持ち、中が空だったのをごまかすようにつぶやいた。


「わからん。

 だが、幕閣のお偉方と違う意思を感じるんだよ。

 これにはな……」




 厠に向かう途中、ほろ酔い加減の半兵衛は、蓬莱楼で繰り広げられる宴の音や嬌声に昔の夢を見る。

 そうだ。江戸を焼くなんて事を言ったのだ。あの人は。


(まずは江戸を焼く。

 それを機に将軍様を奪う。

 同時に計画に賛同してくれた浪人たちが大阪と名古屋を焼き、朝廷に幕府の追討を認めさせるのだ……)


 結局、その計画は漏れて失敗し、由井正雪は多くの浪人たちと共に死に。

 この江戸という町はその後に起こった明暦の大火で灰に帰したが幕府は揺るがず。

 残った半兵衛はこんな所で白昼夢を見るのみ。


「あれ?

 半兵衛来ていたんだ?」


 後ろを振り返ると、数人の花魁を引き連れた大夫の冬花が居た。

 その姿は吉原の夜の頂点にふさわしく、そんな女が自分を好いてくれるという事も先の白昼夢かと夢見心地で呟く。


「ああ。弥九郎に呼ばれて愚痴につきあわせられていた」


「まったく……今日はそのまま泊っていくんでしょう?」


 大夫になる前と同じように冬花が俺に囁く。

 大夫になる前だったころは、空いた部屋に俺が泊まり、そこに仕事が終わった冬花がやってきてという事もあった。

 だが、今の冬花は吉原の頂点に座る大夫である。

 暇な時間すらないだろうに、その誘いはいつもの冬花と同じだった。


「ああ。まだしばらく弥九郎の愚痴を肴に酒をあおる事になりそうだ」


「わかった。

 じゃあ、いつものように……ね」


 それを言った着飾った冬花は、半兵衛の知るいつもの冬花の口調のまま、数人の花魁たちを引き連れて次の旦那の所に向かう。

 冬花も半兵衛も吉原暮らしが長すぎ、忘八者としてその臭いが染みつきすぎている。

 それを見送ると半兵衛は、苦笑して厠に歩みを進める。

 侍にも浪人にもなれなかった半兵衛を受けて入れてくれたのはこの吉原しかなく、侍にも浪人にもなれなかった半兵衛を忘八者にしたのもこの吉原である。

 それは、いい事も悪い事もあったが、まぁ感謝していいのだろう。


「だが、風魔の連中、まだ忍びとしての矜持がのこっていたのならば……」


 厠の前で立ち止まり、そのまま半兵衛は夜空にその思いを呟く。

 聞かれている者もいないその呟きは半兵衛の耳にしか入らなかった。


「夜盗や忘八者に成り下がるのは耐えられなかったのだろうな……」

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