延宝六年 夏  風魔野盗 その二

 江戸の町はとにかく火事に弱い。

 それは、明暦の大火で焼け落ちた町並みが再建されてからも変わらず、その弱点を突く火付盗賊が出るのはある意味必然だったといえよう。

 しかし、江戸という町はそれゆえに対策も講じていた。

 火付改と盗賊改の設置に、明暦の大火の復興に合わせて燃え広がりにくい町づくりを行い、更に武士以外の町民による自治にも協力を求めた。

 たとえば岡っ引などがこれに当たり、江戸の町の治安を守っていた。

 この岡っ引などを管理する組織が町奉行所であり、北町・南町奉行に属する与力・同心たちによって運営されていた。

 そんな町奉行所の番所は吉原大門の前にあり、同心と岡っ引が交代で常駐していたのである。


「これはこれは中村様。

 今日もお勤めご苦労様でございます」


 そんな番所に付け届けという名前の賄賂を遊郭の持ち回りで出しているので、町奉行所内でこの番所詰めは実入りがいいと噂されて多くの同心たちが羨望の眼差しを向けているのを知った上で、この座を射止めた中村主計を前にして蓬莱弥九郎は平伏する。

 ここの番所の同心と岡っ引は、吉原の汁のおこぼれが吸えるだけあって、金に溺れ、女に溺れ、身を崩す者が多い。

 中村主計も同心になった頃の正義感などは消え失せ、吉原の寄生虫として蓬莱弥九郎の付け届けを懐に入れた。


「うむ、いつもご苦労だな」

「ところで、お聞きしたき事がございまして……」


 中村主計はこの番所に来るために方々に賄賂を渡したという。

 その渡した分を取り戻すだけでなく、さらなる出世の為にこれまで以上に賄賂を渡しているのだろう。

 そのためか、この番所に来てからは吉原に付け届けを求める代わりに、口出しはしてこない。

 そんな事を考えながら、蓬莱弥九郎は平伏したまま言葉を続ける。

 半兵衛が聞き出した風魔の情報はこの吉原を焼くという聞き捨てならないものだったのだから。


「ほう、何か?」

「実は……昨日のことなのですが、さる筋からある知らせが入りまして」

「ふむ、それで?」

「その知らせが確かであれば、近く凶賊が吉原を焼くとの事でございます」

「何だと!?」


 中村主計の声色が変わった。

 吉原を焼くとは穏やかではない。

 平伏している弥九郎はその声で中村主計がこの事をつかんでいない事を察する。


「まあ待て。その話を詳しく聞かせろ」

「はい、では……」


 蓬莱弥九郎は、中村主計に平伏しながら、話を始める。

 そしてその話が終わる頃には、中村主計の声色は震えていた。

 江戸の町は今や大火災の連続によって深刻な被害を受けており、火事場泥棒の取締は町奉行だけでなく火付改と盗賊改の三者がやっきになって行っていたが、彼らの横行を許してあちこちに出没している始末だった。

 そんな状況下で、幕府直轄の組織とは言え町奉行所には町方同心が足りていない状況が続いている上に、こうやって同心たちへの買収すら行われて吉原内の揉め事に手を出させないようにしている訳で、ある意味自業自得ともとれなくもない。

 しかし、それが自分達の身に降りかかるとなると話は別である。

 中村主計は顔を引きつらせながら言う。


「そ、それは本当か? もし本当にそうならば……」

「はい、私も信じられぬ思いですが……。

 もしも真実とすれば由々しき事態でございます故、どうかお奉行様にご報告をと思いまして」

「わかった。

 この事は必ず奉行島田出雲守様にお知らせする事を約束しよう」


 中村主計はおちついた声で約束する。

 報告を終え、座を辞そうと振り返る蓬莱弥九郎に投げかけられた中村主計の言葉に、彼は背を晒したことを後悔する。


「で、だ。

 その話、酒井様から聞いたのか?それとも堀田様から聞いたのか?」


 蓬莱弥九郎はその問いに答えられずに聞き流す事を選び、中村主計もそれ以上問いかけることはしなかった。

 番所の外で待っていた半兵衛を前に、蓬莱弥九郎はやっと安堵の息を漏らす。


「あれはただの昼行灯じゃないぞ」


 ぼそりと呟いた蓬莱弥九郎の顔には冷や汗がたれていた。

 それでも半兵衛と共に吉原大門をくぐると、手ぬぐいで顔を拭く弥九郎に半兵衛は尋ねた。


「中村様って言えば、吉原に都合の良いお役人じゃなかったのか?」

「ああ。これまではな。

 これからもそうだとは限らないだろう?」


 中村主計の最後の一言を半兵衛に漏らせば、半兵衛の顔色も変わらざるをえない。

 何が起こっているのか?それが幕閣の争いとどう関わっているのかを察する人間がいつまでも都合の良い人間に留まるわけがない。

 二人に後ろから声がかけられたのはそんな時だった。


「おや。奇遇だな」


 聞きたくもない声に半兵衛はうんざり顔を見せるが、楼主である弥九郎は笑顔を作って声の主である石川新右衛門の方を振り向く。

 振り向いた二人を石川新右衛門はいつもの笑顔で出迎える。


「石川の旦那。

 安中藩食客というのはそんなに遊べるので?」


「おう。なかなかいい身分だろう?

 で、お前の隣の御仁は誰だ?」


 半兵衛との挨拶の後、弥九郎は石川新右衛門に挨拶をする。

 知っているが知らないフリというのも存外難しいが、そこは吉原の楼主。実に白々しかった。


「ここ吉原で『蓬莱楼』を営んでおります蓬莱弥九郎と申します。

 石川様のお話はこの半兵衛から聞いておりまして」


「ははは。

 遊び歩いている食客としてか?

 いつか俺も蓬莱楼を借り切って遊びたいものよ」


「その時を楽しみにしております。

 申し訳ございませぬが、急ぎますゆえこれにて」


 そう言って足早に去ろうとする二人に石川新右衛門はとてもいい笑顔で言葉を投げつける。

 聞き捨てならない言葉だったが、二人はそれに反応しないように歩みを進めざるをえない。


「呼び止めてすまなかったな。

 ああ。番所の中村主計は同門でな。

 これからもよろしく頼む」


 蓬莱楼に入った時、二人同時にため息を漏らす。

 半兵衛を待って出なくて良い昼見世に出ていた冬花が呆れ声で出迎えた。


「何だい。二人共汗びっしょりで。

 そんなに外が暑かったのかい?」

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