第19話 近藤社長


 私が急成長中のITベンチャー企業に入社したのは、4年ほど前のことだ。

 もともと小さな広告代理店に勤めていたのだけど、ちょっとした備品を買うのにも決裁にハンコラリーが必要なタイプの昔ながらの社風が肌に合わず、画期的な教育系アプリを開発して注目され始めていた今の会社に転職したのだ。


 今の会社は、とても自由な社風。フレックスタイム制で、リモートワークも認められている。おしゃれなオフィスで、これまでとは比べ物にならない裁量を与えられて働くのは楽しかった。


 しかし、当初は宣伝部で部長のアシスタントをつとめていたのだけど、2年前から社長秘書に任命されたことで、私の生活は一変した。


 原因は、社長の近藤英介。


 天才肌でわがままな近藤社長は、若くして起業して会社を大きくさせたすごい人だけど、人遣いの荒さも人並み外れている。

 社長秘書に就任してからというもの、業務時間外の残業は当たり前、休日に呼び出されることも桁違いに増えた。――もちろん、そのぶん手当はもらえているし、収入も増えているから悪いことばかりではないのだけど……。


 私はこの風変りな社長に、振り回されてばかりなのだ。



「おはようございます、社長」


 できるだけ不機嫌そうな声を作って、ミーティングスペースのソファのに寝そべっている社長に声をかけると、彼はがばっと起き上がって心底嬉しそうに笑った。


「おー、永森! 助かった~」

「これ、コーヒーです」

「うおー、生き返る!」


 私が差し出したコーヒーを有難そうにすする社長を横目に、私は向かいのソファに腰かけてノートパソコンを開いた。

 今年で34歳になる社長は、いつもヨレヨレのTシャツやジャージといったラフすぎる格好をしていることもあって、無邪気にコーヒーを飲んでいる姿はまるで大学生のように見える。


「また会社に泊まったんですか? 昨日と同じ服着てますけど」


 私のツッコミに、「あ、気づいちゃった?」と社長はいたずらっ子のように頭をかく。


「いやちょっとね、おもしろいこと思いついちゃって。そしたら止まらなくなってさ……これ見てくれる?」


 社長がパッドを取り出して、昨日タブペンで書きなぐったらしい新アプリの構想を見せてきた。そして、目をキラキラと輝かせながらアプリのアイディアを話し出す。


「育児中のママさんが、子供がお昼寝してるとか幼稚園いってるとか、ほんのわずかな空き時間に資格の勉強ができるようなアプリを作りたいと思ってたんだよな。たとえばファイナンシャルプランナーとか、歯科助手とかさ」


「ああ、いいですねぇ。めっちゃニーズありそう」


「だろ!? ママさんに限らず、たとえば病気で休職中の人とかにも、イラストとかライティングのスキルを身につけることで、フリーで無理なく働ける仕事を探す一環に使ってもらえないかなぁ。このへんの求人アプリと連携させて」


「求人アプリとつながってたら安心ですよね。資格を取ってもその先の就職が心配な人も多いでしょうし」


「そーなんだよ!! 従来の、テキスト売る商売じゃなくて、人材を育てて就職までサポートできるアプリ!!」


 私はボイスレコーダーを回し、適宜パソコンにメモをとりながら、社長の話を聞く。


 頭の中に常に新しいアイディアが次々浮かんでくるという天才型の社長は、そのあふれ出るアイディアを誰かに話しながら、考えをまとめていくタイプである。そのため、秘書である私の一番重要な仕事は、“社長の話の聞き役”なのだ。



 ひとしきり新アプリの構想を話し終えると、社長は満足そうに伸びをした。


「よーし、これ、ちょっと簡単な企画書にまとめといてくれる? 週明けの会議で出すわ」

「わかりました」


 ――またしても、ムチャぶりしやがって。これで私の土曜日は一日潰れることになる。

 心の中で舌打ちをする私をよそに、社長は晴れやかな笑顔で立ち上がった。


「よーし、んじゃ俺、ちょっとランニング行ってくるわ!」

「はいはい、どうぞ」


 これもいつものことだ。ひととおりアイディアを出し切って頭が空っぽになると、今度は体を動かしたくなるのだという。まったく、天才の生態はよくわからない。

 社長は勢いよくコーヒーを飲み干してから、「あ、そうだ」と企画書を作り始めた私を振り返った。


「今度リリースする、学生向けの卒論サポートアプリ。CMキャラクターのタレントさんが決まったって代理店から連絡きたんだけど」

「へー。誰になったんですか?」

「マッキーっていうアイドルの子だって」


 社長が何気なく口にしたのは、かなり有名な男性アイドルだった。確か最近初の著作も出版していて、司書として働いている冴子さんが、図書館で特集コーナーを組んだとか言っていた気がする。


「いいじゃないですか、若い子にすごい人気みたいだし」

「そうそう。んで、担当者が今度顔合わせに一席設けたいって」

「律儀な事務所ですねぇ」


 私は社長のスケジュールアプリを開く。プレゼンや会食でびっしり予定が埋まっているが、今月の後半ならなんとかなりそうだ。


「じゃあ日程調整しときますね」

「うん、よろしく」


 社長は軽くうなずいてから、コーヒーのカップをゴミ箱に向かって投げた。カップは見当違いなほうへ飛び、壁にぶつかって床に落ちる。――スタミナはあるけど、運動神経は悪いのよね、この人。


「ああー! 失敗したぁー!」

「それ毎回失敗してますよね? いい加減諦めたらどうです?」


 カップを拾いにいくジャージ姿の背中に、呆れながら声をかけると、「ふざけんな」と口をとがらせた社長が私をにらみつける。


「俺の辞書に、諦めという文字はない!」

「ハイハイ。――よーく知ってますよ」


 おそらく、私のその小さなつぶやきは彼の耳に届かなかっただろう。


「じゃ、いってきまーす! 企画書、よろしくな」


 無邪気に私に笑いかけると、社長はスキップするような軽い足取りでオフィスから出て行った。昨日と同じ紺色のジャージを着た社長の背中が、ガラス張りの廊下の向こうへ消えていく。その背中を見送ってから、私は深くため息をついてデスクに突っ伏した。


 ――私も昨日と同じ服を着ているけど、この人は気づかない。


 私が昨日ほかの人と寝たことだって、いつもよりメイクが適当なことだって、私が彼の前で必死で“社長秘書の永森”を演じていることだって……この人は、まったく気づいていないのだ。

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