第13話 希望
――この人が、ヒロキさんかもしれない……。
私は、三葉商事のエントランスから出てきたその男の人の横顔を凝視した。
年齢は同じくらいだろう。背が高く整った顔立ちをしていて、スーツの着こなしもおしゃれで――いかにもエミリちゃんと付き合っていそうなタイプの男性だ。
私は震える手でスマホを取り出して、桃花に教えてもらった“ヒロキさん”の番号にかけてみた。すると、目の前の彼がポケットから携帯を取り出し、ちょっと首をかしげてから電話に出る。
『はい、もしもし?』
目の前の彼の声と、私のスマホのスピーカーから聞こえる声が重なった。
――この人だ!!!
そう確信すると同時に私は通話を切り、激しく高鳴る鼓動を必死で落ち着けた。
ヒロキさんは、突然切れた電話に不審そうに眉を寄せ、しばらく携帯を見つめて何か考え込んでいた。しかし、すぐに再び携帯をポケットにしまって歩き出す。私は、慌てて彼のあとを追った。
なんて声をかけよう。
あなたの彼女、浮気してますよって言う?――でもなんだか、そんな言い方は卑怯な気がする。第一、いきなり見ず知らずの他人からそんなことを言われても、信じてもらえないだろう。
背が高く大股で歩くヒロキさんの背中を必死で追いかけながら、私は耐えられずにまた涙がボロボロ出てきてしまった。
考えがまとまらない。追いかけたところで、何もできない。だけど、だけど……。
「きゃっ…!」
次の瞬間、歩道沿いのカフェの入り口に置いてあった立て看板に、思いっきりぶつかってしまった。
ガシャンと大きな音をたてて看板が倒れ、私はバランスを失って倒れこむ。道行く人たちが、冷たく横目で私を見て通り過ぎていく。
――恥ずかしい。みじめだ。何やってるんだろう…。
涙が止まらない。なんとか立ち上がろうと唇を噛みしめたとき、頭上から声がした。
「あの、大丈夫です……?」
心配そうに、ヒロキさんが私をのぞき込んでいた。
驚きと恥ずかしさで、顔が真っ赤になるのを自覚しながら、私は彼の手を借りて立ち上がる。とめどなく涙をこぼす私を見て、ヒロキさんはすっかり慌てていた。
「だ、大丈夫です? ケガされました? 救急車とか…」
「うっ…ちが……ちがうんです……」
ヒロキさんはオロオロしながらハンカチを差し出してくれて、倒れた看板を立て直し、泣きじゃくる私に代わってお店の人に頭を下げてくれた。――ほんとに、何やってるんだろう、私。
「本当に……ごめんなさい…ううっ…」
「ホンマに、痛いところないですか? 頭ぶつけたりとか」
純粋に心配そうな目で見つめてくるヒロキさんの整った顔を見ていると、より一層つらくなった。自己嫌悪で、全身がカッと熱くなっていくのがわかる。
見知らぬ他人が道路に転倒していても、たいていの人が見て見ぬふりで通り過ぎていく中で、この人だけが立ち止まって手を差し伸べてくれた。――きっと裏表なく、優しい人なのだと思う。
エミリちゃんには、こんなに優しくて、素敵な彼氏がいるんだ。それなのに、なんで康太のことを……。
私は意を決して、彼のスーツの裾をぎゅっと握りしめた。
「――実は私……失恋して……今すごくつらくて……」
「ええっ、そうなんや」
ヒロキさんは突然の言葉に驚きを隠せない様子で、慌てつつも私の肩をポンと優しくたたいてくれる。
「そっかそっか、それは大変やったね。でも、前には気を付けて歩かんと、ケガしてまうからな」
泣きじゃくる子供を慰めるような、関西弁の優しいイントネーションが、胸に染みる。私は大きくうなずいて、ますますあふれてくる涙を指で拭い、思い切って言った。
「いきなりこんなこと……知らない人に頼まれてもご迷惑でしょうけど――どうしても今日はひとりで飲みたくなくて…。一杯だけでいいので、付き合ってくれませんか?」
肩を震わせながら泣く私を前に、ヒロキさんはめちゃくちゃ困った顔をした。
当然だ。もし逆の立場だったら――道端で突然、初対面の異性からこんなふうに飲みに誘われたとしたら、まず間違いなく断るだろう。
私は下を向いて、小さく鼻をすする。
「……ごめんなさい、無理を言って。もう大丈夫です」
「いや、大丈夫じゃないやろ」
だけど、ヒロキさんはどこまでも優しかった。
彼はまだ少し戸惑いつつも、思いやりにあふれた目で私の顔をのぞきこみ、安心させるように微笑みかけてくれた。
「俺でよければ、一杯おごるで」
「……ありがとうございます…。本当にすみません……」
「ええって、ええって。このへんの店でいい?」
「もちろんです。ありがとうございます…!」
今度は感激の涙が流れて、そしてそれはすぐに後悔の涙に変わった。私はこの優しい人に、なんて最低なことをしているんだろう。
=====
近くにあった居酒屋に入ると、私たちはひとまずビールで乾杯した。
「そういえば、お姉さんのお名前は…?」
今更だけど、と笑いながらヒロキさんに聞かれて、慌てて自己紹介する。
「サクラって言います。あの、怪しいものではないです。住吉銀行に勤めてて…」
「そうなんや。俺はヒロキっていいます。そこの三葉商事で働いてる」
すでに知っている情報だったが、そうなんですね、とうなずいておく。
ヒロキさんはとにかく優しい人だった。関西人らしくユーモアを交えながら、私の緊張をほぐしてくれる。
「いやーでもビビッたわ、いきなり背後でテロでも起こったくらいのすごい音がしてんもん。振り返ったら看板倒れとって、女の子が号泣。どんな事件やねん、東京こわっ!てなったわ」
「び、びっくりさせちゃいましたよね」
「しかもその女子にいきなり飲みに誘われて、今こうして腰据えて飲んどるという状況がおもしろすぎるわ」
「私も、まさかこんなことになるなんて……」
「自分で誘っといてよう言うわぁ」
からかうように言うヒロキさんの笑顔につられて、私も思わず笑ってしまう。
ヒロキさんは、ちょっとホッとした表情になった。――私があまりに思いつめた顔をしていたから、「下手したらコイツ自殺しかねないぞ…」くらいの危機感を覚えて、飲みに付き合ってくれたのかもしれない。
彼の優しい茶色の目で気遣うように見つめられ、私はますます罪悪感で胸が痛んだ。
それからしばらく、私たちはお互いの自己紹介もかねて、他愛もない会話を続けた。
日本有数の総合商社・三葉商事で、自動車関連の海外営業部で働いているというヒロキさんは、笑いを交えながら色々な国へ出張にいったときのエピソードを語ってくれた。
銀行の窓口という内勤の仕事しか経験のない私にとって、彼の話はすべてが新鮮で、思わず聞き入ってしまう。
そのうえ、ヒロキさんはとびきりの聞き上手でもあって、私の仕事や学生時代なんかのつまらない話を、絶妙な相槌をうちながらとっても楽しそうに聞いてくれた。
「へぇ、サクラさんはずっと女子校やったんや。ええなぁ、女だけの世界って。めちゃくちゃ憧れるわ。1日だけでも女子校に通う女子に生まれ変わりたいって、毎年初詣で願掛けしてたで、思春期の俺」
ヒロキさんが、あまりに大げさに女子校を持ち上げるものだから、私はこらえきれずに吹き出してしまった。
「そこまで言われると、なんだか変な感じです。全然普通の高校でしたよ」
「いやー、男からしたらマジで神秘の世界なんよ。デパートの化粧品売り場みたいな。めっちゃ良い匂いするし、女子同士で盛り上がっててめちゃくちゃ楽しそうやけど、でも男は絶対入られへん聖域というか」
ビールのジョッキをぐいっとあおってから、ヒロキさんはキラキラと目を輝かせる。男性って妙に女子校を神聖視したがるけれど、同性同士の排他的な雰囲気という意味では、男子校だって同じだと思う。
「それなら、男性にも男子校があるじゃないですか。女性からみると、男子校だって神秘的ですよ」
「男子校が神秘的ぃ~!?」
ヒロキさんがふざけて大声を出すものだから、私はつい笑ってしまう。
「ちょっと、ヒロキさん声が大きいですよ…!」
「いやだって、サクラさん、男子校ってアレやで。いかに授業中カップ麺をバレないように食うか真剣に議論したり、下半身裸で授業受けて先生にいつバレるか賭けたり、あほなことしか考えてへん集団やで」
「もうやめてください……笑いすぎて、涙でてきた…」
正直、いつまでもヒロキさんとおしゃべりしていたかった。――このまま何もなかった顔をして、ただ笑いながら話を続けていられたら、どんなに良かっただろう。
とはいえ、ずっと例の話を避けるわけにもいかない。
どう切り出そうかと迷った私が黙り込み、ふいに会話が途切れた瞬間、ヒロキさんが優しい声で遠慮がちに聞いてきた。
「……失恋、したって?」
その声があまりに温かく、気遣いにあふれていて、私はまた涙がにじんできた。
「無理して話さんでもええからな」
慌てたようにヒロキさんが言ってくれたけど、私はブンブン首を振って話し出す。
「3年付き合った彼氏に、別れを切り出されたんです」
言葉にすると、改めて涙がポロリと頬を流れる。ヒロキさんの目が、悲しそうに揺れる。
「……そうかぁ」
「同じ銀行の人で……――最近忙しいみたいでなかなか会えなくて、3週間ぶりに会えたと思ったら…っ……ほかに好きな人ができたって……」
「それはつらいなぁ」
優しさがにじみ出るような、柔らかい声。それに励まされるように、ハンカチで涙をぬぐって言葉を続ける。
「……心変わりは、仕方ないと思うんです。私はそんなに…――魅力的な女じゃないってこと、わかってるし……。だけど……すごく好きだったから……愛してたから、悲しくて…」
そうだ、私は康太のことを本当に愛してた。――自分自身の言葉で、改めて思い知った。
自分の幸せよりも康太の幸せを願っていたし、だれよりも大事にしてきたつもりだった。いつでも彼の支えになりたいと思っていたし、彼がいつも笑顔でいられるように、私にできることは何でもしようと決めていた。
――だけど、それはすべて私の、ひとりよがりな思い込みだったのだ。
可愛い後輩に言い寄られたら、すぐに心変わりしてしまうような、脆い関係しか作れなかった。
それは、康太だけのせいじゃない。私たち二人が、そういう関係になれなかったという、それだけ。
……こんなことをたどたどしく語る私の話を、彼は静かにうなずきながら聞いてくれた。
「そっかぁ。サクラさんは、なんていうか、ええ恋愛してたんやなぁ」
思いがけない言葉だった。
「でもフラれちゃいましたよ」とつぶやいた私に、ヒロキさんはアハハと優しく笑いかける。
「まぁ結果は残念やったけど、サクラさんが彼氏さんを大事にしてきた時間は、めっちゃええ時間やったと思う。そんなふうに愛してくれる人がおって、彼はホンマ幸せやったな。自分でそれを手放すあたり、ちょっとおバカさんやけど……」
「おばかさんですか?」
その言い方がおかしくて、思わず吹き出してしまう。そうそう、とヒロキさんは楽しそうに身を乗り出した。
「サクラさんがそんな好きになるくらいやから、彼もええ奴なんやろうね。でも、サクラさんみたいに何の打算も掛値もなくだれかを愛せる人は超貴重な存在よ。それに気づかずに手放すなんて……正直“ちょっと”やない、“めっちゃ”おバカさんやな。俺が3時間説教したるわ」
ヒロキさんの真摯な言葉は、私の心を驚くくらい温かく癒してくれた。
そうなんだ。私は、康太を否定したいわけじゃない。好きだった人だから、幸せになってほしい。彼を好きだった自分のことも、否定したくない。
エミリちゃんの存在でドロドロと濁っていた心が、すっきりと晴れていくようだった。
「――ヒロキさん、本当にありがとうございます」
「おっ、いい笑顔」
ヒロキさんが嬉しそうに笑う。クシャっとした、柔らかい笑顔。――エミリちゃんが、うらやましい。こんなに素敵な彼氏がいるなんて。
「本当に優しいですね……ヒロキさんの彼女さんは、幸せでしょうね」
ほとんど無意識のうちにそうつぶやくと、思いがけない言葉が返ってきた。
「えー? 俺、今彼女いてへんよ」
――え?
ヒロキさんはまったく表情を崩さずに、優しそうな笑顔のまま続ける。
「もう1年くらいおらんなぁ。俺、こう見えてモテへんねん。いや、どう見えてんねん、って話やけど」
「……そうなんですか」
ヒロキさんのその言葉は、正直言って、今日一番のショックだった。
彼女がいるのに、彼女の存在を隠してる。こんなに優しくて誠実そうに見えるのに、平気な顔をして嘘をついてる。
――ああ、結局この人も、同じ穴のムジナなのだ。
失望感が暗い雲のように心を覆っていく。一度は癒されたはずの胸の奥から、またあの復讐心が頭をもたげてきた。
私は妙に冷静な気分で小さく深呼吸をして、改めてヒロキさんの顔を見つめた。ヒロキさんは、きょとんとした茶色の目で、不思議そうに私を見つめ返している。
「――本当に、彼女さんいらっしゃらないんですか?」
「おらん、おらん。浮いた話一切なし」
それは、最後の希望が打ち砕かれた瞬間だった。
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