第6話 前世と今世
王都のタウンハウスからオルドランド公爵領まで、馬車で二週間ほどの旅だった。
騎馬ならばもっと短縮できるだろうけれど、高位貴族の子女の嫁入りはそう簡単なものではない。荷物だけでも馬車が二十台ほど、警備や使用人たちの馬車を入れれば四十台を越える隊列を組み、その家格に相応しい支度と警備、侍女や侍従を従えているので、自然と進みはひどくゆっくりしたものになる。
メルフィーナと家族の関係に距離があったのは前述した通りだけれど、支度と持参金はクロフォード侯爵家の令嬢として相応しいものを用意された。
こうした形式を調えなければ家の威信と信用に関わることになる。簡素な支度はそれを受ける公爵家への侮辱にもあたるためだ。
長時間馬車に揺られるのは正直参ったけれど、旅程も半分を過ぎて少しほっとした頃、一行は長雨に晒されるトラブルに見舞われた。
この世界、すべての街道がしっかりと整備されているわけではなく、領地と領地の間になると特にその傾向が強い。どこの領主も身銭を切って他領との境界を整備するより、領都内に予算を割く方が直接税収につながるのだから自然とそうなるものだった。
馬車での長期間の移動は、こんなトラブルもあらかじめ勘案して幅を取ったスケジュールを組まれているけれど、一方で大貴族同士の結婚式の予定は参列する貴族や式を行う高位聖職者のスケジュールもあり、ズラすことが出来ない。大所帯であるメルフィーナの一行はスピードを落としながら移動を続けていた。
そして無理を強いた結果、事故が起きた。
山裾の街道を進んでいるときに山崩れに巻き込まれたのだ。
幸い直撃は免れたものの、馬車を牽いていた馬は混乱し、馬車が横倒しになった。中にいたメルフィーナに大きな怪我はなかったけれど、頭を打ってしばらく気を失うことになった。
その拍子に、前世での記憶が溢れるようによみがえり、これまで生きてきた世界が前世で自分がプレイしていたゲームの中に酷似していることを思い出した。
――ここ、ハートの国のマリアの世界じゃん!
ハートの国のマリアは、ある日異世界から訪れた聖女「マリア」をめぐって巻き起こされる、宮廷を舞台にした乙女ゲームである。内政や外交戦略、魔法医療や軽いミステリ要素もあり、選択したルートによって攻略できるキャラが変わっていくという内容だ。
シナリオがしっかりしていてライトモードでもそれなりに面白いけれど、ノーマルモード、ハードモードとモードによって求められる知識にも幅があり、ネット掲示板ではハードモードをプレイすると、全ルートをクリアする頃には雑学王になれると冗談のように書き込まれることも多かった。
ゲームの中で、メルフィーナ・フォン・オルドランドは、この国の数少ない公爵にして辺境伯であるアレクシス・フォン・オルドランドルートのヒロインに立ちはだかる悪役令嬢である。
実際には公爵夫人なので令嬢と呼ぶのはおかしいのだろうけれど、二年後、マリアがこの国に降り立った時でさえメルフィーナはまだ十八歳、前世で暮らしていた日本で言えば高校生程度の年頃なので、あえて令嬢と呼ばれていたのだろう。
そのルートでメルフィーナは、公爵領から離れ王都のタウンハウスで暮らしていた。
この国――もちろんハートの国は正式名称ではなく、フランチェスカ王国という名前がある――では、王族を除けば最も高位の女性はメルフィーナであり、領地に戻ることなく王都に滞在し続け王家の夜会にも積極的に顔を出していたことから、神から遣わされた聖女であるマリアの宮廷での教育係に抜擢される。
ゲームの中でメルフィーナは、聖女とはいえ平民出身であるマリアを軽く扱い、こんなことも出来ないのかとあざ笑うキャラだ。アレクシスルートに入ってからは苛烈な嫉妬をマリアに向け、聖女であるマリアに命に関わるいじめを仕掛け、それが発覚したことで失脚するキャラクターだった。
アレクシスに離婚を突き付けられ、聖女に対する嫌がらせをした娘を実家であるクロフォード侯爵家も完全に見放し、氷の公爵であるアレクシスの心を溶かしたマリアが寄り添い合うスチルの後、一年中吹雪いている地にある過酷な修道院へ送られたという一文だけが悪役令嬢、メルフィーナの末路だった。
――メルフィーナは確かに意地の悪いキャラクターだったけれど、我が身になってみると言いたいこともたくさんあるわよね。
ゲーム内でメルフィーナは気が強く性根が歪んでいて贅沢が好きな女性だが、それでも侯爵家出身の公爵夫人だ。
貴族の結婚は家同士の契約でもある。教会が基本的に離婚を禁じていることもあり、本来ならメルフィーナが聖女に嫌がらせをしたなら夫であるアレクシスも連帯責任を問われる立場である。
そんな前提があるにもかかわらず、メルフィーナと離縁しアレクシスとマリアが結ばれたのは、白い結婚だけは教会も離婚を認めているからだった。
白い結婚――要するに、原作ゲームにおいて、アレクシスとメルフィーナは一度も夫婦としてベッドを共にしたことがないのだ。
それがなぜなのかゲームの中では語られていなかった。政略結婚で仕方なく受け入れたものの、意地悪で贅沢好きな貴族の女性であるメルフィーナをアレクシスが嫌っていたという描写があり、そのためだろうと何となく思っていたけれど、実際メルフィーナとしてアレクシスと結婚してみて、その理由も分かった。
多分メルフィーナも、最初からゲームの中でそうだったように、他人に厳しく人を見下し強権的に振る舞う女性ではなかったのだ。
両親に愛されず、幼少期から心無い噂が付きまとっていたとしても、少なくともメルフィーナは侯爵令嬢という高い身分に相応しくあろうと誰よりも努力していた。
記憶がよみがえるまでの自分がそうだったように、家族との関係を諦めても、嫁ぎ先で幸せになりたいという願いを持って嫁いだはずだ。
そんなメルフィーナの祈りにも近い願いを、アレクシスはいとも簡単に踏みにじったのだ。
ゲームのメルフィーナも愛する気はない、公爵位は甥に継がせる、どこででも好きに暮らせと言われ、きっとそこで、彼女の心は決定的に壊れてしまった。
それまで己をぎゅうぎゅうに戒めていたタガが外れ、努力することが馬鹿馬鹿しくなり、贅沢三昧に暮らしながらそれで心が満たされることはなく、次第にどうしてそんなことも出来ないのか、努力が足りないのではないかと他人に当たり散らし見下すことで心のバランスを取るようになり……。
そして、自分に与えられることのなかった愛情をいとも容易く向けられるヒロインに嫉妬して、破滅した。
他人事でもひどい話だと思うけれど、これは自分の身に起きたこと、そしてこれから起きるかもしれなかった未来だ。
前世の記憶を取り戻した今、身勝手な理由でメルフィーナを遠ざけた両親の愛も、アレクシスの愛も要らない。彼らが勝手にするのなら、メルフィーナにだって勝手にする権利があるはずだ。
「護衛騎士にセドリックがいた時にはびっくりしたけど、今オルドランドの騎士ってことは、ヒロインが現れるまでに伯爵位を継ぐってことよね」
ゲームの中でセドリックは王宮騎士団の騎士団長であり、伯爵家の当主でもあった。そんな彼がなぜ今オルドランドにいるのかは知らないけれど、何かしら事情があるのだろう。
「とりあえずここから二年、王都には近づかなければヒロインの教育係になるルートは回避できるはず。念のための領主の地位も手に入ったし、これから飢饉が来るし、領主の仕事が忙しいと言えば無理に呼び出されることもないわよね」
マリアがアレクシスルートに入れば結局離婚というシナリオになるのだろうけれど、エンカー地方の領主は正式に書面を交わして譲り受けたものなので、離婚後も取り上げられることはないはずだ。
実家に帰ったところで出戻り、それも最初の結婚で子供が産めなかった貴族令嬢の価値などゼロどころか外聞が悪いばかりでマイナスである。今度こそ実家を経由して下位貴族や有力商人の後妻に下げ渡されるか、断罪ルートより環境が良い修道院に入れられる可能性が高いだろう。
修道院に行くのは悪いことではない。慎ましい生活をして、財政に余裕があるところなら、お酒やお菓子を作って売る暮らしをしたり、本をしたためてそれが後世に残るという文化的な暮らしをしていたりする。
少なくとも平民や農民より、裕福な修道院の修道女というのはよほど良い生活をしているものだ。
――でも、こんな世界の神様に仕えるなんて、絶対に嫌。
前世の記憶を取り戻した今、メルフィーナの人生がいかに理不尽な運命だったかよく理解出来る。神様なんてものがいるとして、その存在を慕い敬うことなど、出来そうもない。
ではどうするか? 好きにしていいという証文は取ってある。黙って離婚してやる義理などこちらにはないのでその時は慰謝料をたっぷり頂くとして、それとは別に実家に帰らなくてもいい名目として、新しい身分を手に入れる必要があった。
それがエンカー村を含む一帯の所領権の入手、要するに小規模な領地の領主となることだ。
身分制のある世界で爵位と財産があればそれなりに安泰と言える。前世の記憶を取り戻したことで、メルフィーナ・フォン・クロフォードの人生を客観的に見ることが出来るようになった。
面倒な実家も婚家も知ったことか。それが今のメルフィーナの偽らざる本音だった。
「万が一、領地ごと奪われた時のために、現金を貯めておいた方がいいかな。離婚されたら持参金の土地や鉱山も結局侯爵家に取り上げられるだろうし。……いざとなったら王都で白いパンを焼くパン屋でもやれば、暮らしていくのには困らないかなあ」
それも先立つものがなければどうにもならない。何もかも奪われても生きていけるよう、自分の自由にできる資産を早急に形成しなければ。
メルフィーナ・フォン・クロフォードの人生は、始まった時から受難の連続だった。
けれど未来は、この手で切り開いてみせる。
運命に泣き寝入りするなど、決してするものか。
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