2
朝は雨の音を纏いながら、静かに忍び寄るように訪れた。私は目覚まし時計を止めて、シーツの中で深く伸びをした。
先程から、インターホンがけたたましく鳴り響いている。1LDKの空疎な雰囲気を纏う部屋の隅々まで、音は響き渡っていくようだった。
頭を掻くと、髪がボサボサだった。扉の前まで歩いていき、あくびをする。
あくびに答えるかのように、聞き慣れた空の青を連想させる澄んだ声が扉の向こう側から響いてきた。
「リリィ、起きてるんでしょ。朝ごはん買ってきたよ。一緒に食べよう」
補給係の、アンナの声。「今いくよ」
扉を開けると、昨日も見たワンピースの色違いをスッポリと羽織ったアンナが、ビニールの包みを二つ抱えて手持ち無沙汰そうな雰囲気で立っていた。
「おはよう」
「おはよ」
アンナが買ってきてくれたのは、この区画の近くにあるパン屋の惣菜パンだ。毎日同じ。少なくとも、アンナが暇である時は。惣菜パンは栄養バランスが比較的良いからと、彼女なりに気を利かせてくれているのだが、メンバーの中にはそういった気遣いが嫌で、アンナからの支給を断っている者もいるらしい。誰とは知らないのだが。
「私が呼ぶ前に、起きてた?」
「ちょうど起きたところ。今何時?」
「九時前。あんまり早いと良くないかなって思ったから。ほら、……任務の次の日だし。疲れてるかもしれないから」
「うん、ありがと」
正直な所、私は軽度の二日酔いの他、疲れのようなものはまったく感じていなかった。彼女に適当に相槌を打って、時間をやり過ごしながら、物資を受け取る。符牒も何も使わずに。それがアンナの『使い方』の暗黙の了解だった。
アンナは甲斐甲斐しく動き、ダイニングテーブルの上に、惣菜パンを並べ始める。どれも一度は見たことのあるパンだ。だが、私が自分で買いに行っても、誰も売ってなどくれない事を私は既に知っている。
今日はね、ハムとレタスとチーズ、それからピクルスを挟んだやつがオススメだって、おばさんが言ってた。二つ買ってきたから。それでいい?
曖昧に頷き、私は彼女のパンを並べていく手際の悪さを見ながら、「コーヒーを淹れるよ」と言って、何気なさを装いつつ、立ち上がった。
「あ、うん、悪いね」彼女は言い、私は無言でコーヒーメーカーの前に立ち、水を入れ、湿ったコーヒー豆の粉をフィルターの上に乗せて、機械にかけた。出来るのに1分ほどかかる。その間の無言の間が出来るのが私は嫌だと思っている。
案の定、気まずさを誤魔化すようにアンナが何かを言った。
「あのさ、今度、古い雨が上がる雨転祭があるんだけど、もしリリィが良ければなんだけど、一緒に見て回らない? あの、嫌だったら別にいいんだけど……」
アンナにしては結構踏み込んだ物言いだ、と私は思い、少し驚く。だが、その気遣いはありがたかった。そういう長文で話してくれるおかげで、余計な会話をしなくて済むからだ。そうして意味ありげに沈黙している間にも、コーヒーは確実に入っていってくれる。
私は十分すぎると感じられる程に時間をかけた後、口を湿らせて答えた。そっけない口調だった。「うん、いいよ。仕事がなければね」
「やった」
アンナが本当に喜んでいる、控えめなはしゃぐような笑い声が、背中越しに伝わってくる。本当に嬉しいのだろう。その時、唐突に目の前にある壁が石を転がすような音を立て、熱を思わせるような作動音がその後に続いた。雨力発電のタービンだ。定期的に回転し、電気を使うと余計に回る。雨が降り続いている、その証だった。
私はコーヒーメーカーからを取り出し、カップに注いだ。アンナの分には、牛乳と砂糖を入れてかき混ぜてやる。最初は彼女に自分で混ぜさせていたのだが、毎回同じ分量を混ぜているから、いつからか、彼女の手間を省き、私が混ぜてあげるようになった。砂糖二杯、ミルク約百ミリリットル……。真顔で彼女の前にカップを置くと、純朴な笑顔で「ありがとう」とアンナが言った。私は軽く頷いた。
この街で焼き上がるパンは、雨に打たれた後のようにいつも湿っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます