妹の最期
妹の死について、僕の知っていることは多くない。
妹はある日、近所の友人たちと一緒に街に行った。
僕たちの住んでいた村には畑以外に何もなく、従って楽しい体験をしたければ街に行くしかなかったのだけど、片道で半日かかる距離。
一日のうちに行って帰って、をやるには夜明けに出てもギリギリというところで、健脚なら手紙を届けて軽く食事くらいする余裕はあるかな、というところ。土産を買おうとなんてしていたら、村に着く前に日没だ。
日が暮れてから山道を歩くのは無謀なので、大抵は翌日かその次の日に帰ってくる。
一人では決して行かせなかったが、幸いにして妹は友人受けがよく、遊びに行くにも相手がいないということはなかった。
ごくたまに僕自身も彼女たちの付き添いとして街に出ることもあったが、僕はオシャレな服なんて持っていなかったのでいつも野良着。
街でそんな僕と兄妹とは思われたくなかったのか、ちょっと離れて行動しようとするので困ったものだった。
その日も、また明日か明後日には「街は楽しかったぁ」と満足そうに帰ってくるものだと思っていた。
けれど、次の日も、その次の日も帰ってこなくて……一緒に行った友達数人も帰らず、村が騒然となって。
やがて、友達のうち一人だけが、村に帰ってきた。
帰ってくるなり大げさに泣き崩れた彼女は、村への帰り道に「みんな乱暴な男たちにさらわれた」のだという。
彼女だけは足が速く、隙をついて街への道を駆け戻って無事だったが、友人たちがどうなったのか、あの男たちはまだいるのか……恐ろしくて何日も村への道を辿れなかったらしい。
そして、村への行商に向かうという行商人を見つけて、彼にしがみつくようにして村に帰ってきたのだという。
そして、襲われた場所で血の跡があり、森の藪の中に点々と続いていた、と僕たちに語った。
その話を聞いた時、僕はどう思い、何を言ったのか覚えていない。
そんなのは作り話だ、と言ったような気もするし、何も聞こえなかったふりをしたような気もする。
あわただしく村人たちによる捜索隊が結成されて、僕はもちろんその中にいた。
たいまつと、もしもその「乱暴な男たち」に出会ってもやられないよう、武器になりそうな農具を手にして、いなくなった彼女らの家族を中心とした二十名ほどの村人たちは暗くなった森に踏み込んでいった。
いつもなら闇夜の森は恐ろしいが、朝になってから、なんて言っていられない。時間が経っているのだ。その瞬間にすら娘たちは生き地獄を味わっているかもしれない。
血が流れたというなら誰かは死んでしまったかもしれないが、誰かはまだ生きているかもしれない。
死んだ誰かが自分の娘、僕の場合は妹でないことを祈りながら、もしかすると生きているかもしれない娘が、もっと幸運にも無事であったら、などと空しい願いを誰もが抱きながら。
たいまつの群れは生き残りの娘や行商人が示した場所から血を辿り、その果てで。
最悪の姿となった少女たちを見つけることになった。
辱められただけならまだしも。
一思いに殺されたのならまだしも。
獣に腹を食い破られ、内臓を啜り尽くされた少女たちの死体は、あまりにも凄惨で。
……そのうちのひとつが、僕の妹だったものだ、と、すぐには理解できなくて。
そこからは途切れ途切れにしか記憶がない。
このあたりには狼なんて何年もいなかった。それ以外の肉食獣なんてなおさら見ない。
おそらく娘たちは存分に辱められた末に殺され、そのうえ獣の仕業と見せかけるために、犬か何かにはらわたを食わせたのではないか、という憶測を誰かが話していた。
もしもただの山賊ならばそこまで気を回すまい。もしかしたら貴族の放蕩息子あたりの戯れに巻き込まれたんじゃないか、とか。
違う。どこかからオークか何か、野蛮極まるモンスターが流れてきたのだ。あの生き残りの娘は見間違えたのだ、とか。
……冒険者の仕業だ、とか。
僕たち田舎のの農村の住人には、死体や状況から理由を探ることもできないし、犯人を追うこともできない。
ただ、娘たちが何人も死んだ。
それを「天災」と捉え、嘆き悲しみ、しかしそれをいずれ過去として、忘れていくことしかできない。
どんなに理不尽でも、誰も真実を解きほぐしてはくれない。
どんなに大切でも……僕自身よりもずっと大切でも。
何を差し出しても、妹を返してくれる神などいない。
ただただ、僕は妹だったものを抱きしめて、嗚咽し続けた。
寝食も忘れて。
凄惨な死体が、日に日に腐臭を放ち朽ちていく妹のかたちが、気持ち悪い、あるいは恐ろしい、忌まわしいものだなんて感覚も抱くことなく。
やがて、僕自身も憔悴し……おそらく死の淵に近づいていたのだと思う。
だが、実際死んでもいいと思っていた。
妹を失った絶望は深かった。
そして、僕から妹をも奪ったこの世界への失望と嫌悪も深かった。
物心つく前に死んだという両親の温もりに、憧れたことはあっても、悲しんだことはない。僕よりも妹の方がよく泣いたから、悲しんでいる暇なんかなかった。
だがその妹すらも、僕から、こんな最悪の形で奪うのか。
彼女が笑顔なら、他のどんなことにだって耐えられた。たとえ両腕を失っても、両足を、目を失っても、僕は妹が無事だったなら、きっとヘラヘラしていられただろう。
それほど大切なものだったのに。
……そして、何日経ったのか。
涙は枯れ、心も枯れた。
いくら悲しくても農奴には畑がある。家畜がある。
悲しみ、うずくまることを、村の人々もある程度は許容してくれた。でも、ある程度だった。
いつまでも遺体を抱いて嗚咽を続ける僕に、いつ頃からか、もう墓に入れてやれと村人たちが声をかけるようになった。
当然だ。いくら愛しい家族とはいえ、惨死体をいつまでも抱きしめて過ごすなんてどうかしている。
……どうかしていたのだ。
僕はそれに何も疑問を持っておらず、墓に入れたらもう触れることができないじゃないか、と本気で思っていたのだ。
ただ、それでは苦しんで死んだであろう妹さんをいつまでも安らかにしてやれない、と説得されて、僕は彼女から身を離すことになった。
村人たちとしては、全て墓に入れることで事件を過去にしたいのだろう。
冷たいようだが、犯人探しも何もできない以上、それしかない。
運が悪かったのだ。そう納得するしかない。
山崩れで死ぬこと、鉄砲水で死ぬこと……モンスターや、戦争で死ぬことと同様に。
そして僕には、いい加減に働け、と言いたかったのだろう。それを直接言うほどには無神経ではなかったけれど。
そうして、僕と妹の小さな生活は、あまりにも酷い終わりを迎えた。
やがて、生き残りの娘も心を病んだ末に、森に消えてそれっきりになった、と聞いた。
「迷いの森」の彼方に行ったのだと。
しばらくして、村にどこからかバケウサギが迷い込んだ。
それに村の農夫の一人がやられ……僕はたまたまそれに対峙し、からくも勝利したことで、冒険者になることを思いつく。
そこから先は、もう語るほどのことはない。
戻り道のない新米冒険者がひとり生まれた。それだけだ。
「……そっか」
「つまらない話だったろ」
「そうでもないさ。……なんか、いろいろ……腑に落ちたよ。お前がちっこい女に妙に優しいこととか……変な風に覚悟が決まってるのとか」
そんなに体格小さい女の子限定で態度変わるかな僕。
いや、もちろん恩人でもあるユーカさんには特別な態度を示しているつもりだし、双子姫にはもちろん丁寧に対応してるつもりだし、ドラセナは爺さんたちに囲まれて一生懸命で微笑ましかったけど。
「……覚悟のしかた、そんなに変かな」
「本当にヘボな新米は、覚悟してるつもりでできてねーんだ。ま、それが普通なんだけど……お前は、時々本当に死ぬまでこのまま真顔でいるんじゃねーか、って思うことあるから」
「…………」
「傍から見りゃカッコイイかもしれねーけど、本当は覚悟ってのは背負うものあってのもんだぜ。背中がカラのまま、無駄に辛抱強いのは全然いいことじゃねーんだ」
「……耳が痛いなぁ」
背中がカラ、か。
確かにな。
僕は気楽だ。誰の期待も、自分の期待さえ背負っていない。
……ユーカさんの渡したもの以外には。
今のところそれは不確か過ぎて、本当に意味があると信じているのはどれだけいるのやら。
ユーカさん自身だって、僕にあげたかったというより手放したかったというのが真実のようだし。
……いや、背負うものなんて他人に求めるものじゃない。僕自身が決めるもの。
他人がどれだけ勝手に期待してたって、僕にその気がなければ無いのと同じ。双子姫の期待もそうだ。
そして僕が背負いたいのは、そんなややこしいものじゃない。
「これからは中身のある覚悟になるよう、心がけるよ」
静かに凪ぐ湖を前に、ユーカさんに微笑んで。
……ユーカさんが安心できるように、強くあろう。
僕に預けたことが正しかったと思えるように。荷を下ろしたことが罪ではないと思えるように。
そのために痩せ我慢をするならきっと、僕はもっと人間らしく恐怖に立ち向かえるはずだと、信じる。
「……最後に聞かせてくれるか」
「ん?」
「妹。なんて名前だった?」
「……聞いてどうするの」
「お前が寝言で言ったときに納得するために」
「…………」
寝言って。
それ普通
いや、まあ冒険者だから寝言の聞こえる距離で一緒に寝るのは珍しいことじゃないんだけど。
「な、なんだよ! そんなに言いたくないのかよ!」
「……まあ気づいてないならいいです」
「何をだよ!」
「……シーナ。シーナ・ランダーズ」
ずいぶん久しぶりに。いや、一年と少しぶりに。
固い固い記憶の底から、妹の名前を掘り出して。
「……い、いい名前……だと思うぜ?」
「うん。僕もそう思う」
……それを大切な宝物から、いくぶん過去にする。
いつか癒えるだろうか。いつか忘れるだろうか。
まだそんな未来は、想像ができないけれど。
ユーカさんが僕だけの過去と想いを少しでも担ってくれたことで、楽になった気はした。
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