本を読まない速読法の本

@imai101

本を読まない速読法

 その年のベストセラーは、他の本もベストセラーにするほどの本だったと言われていた。

 タイトルを「本を読まない速読法」という。

 速読法には数あり、画像記憶のようにインプットするものあり、眺め見するものあり、はたまた飛ばし読みするものあり、パラ読みして線を引くものあり、と様々だ。脳内の音声を止める、というものもあったとか。

 人により合う合わないが存在するのが世の常であり、また、その手のハウツーというのは孫本といえばいいのか、調べた他の本の内容を転記したようなものも少なくなかった。

 独自の方法を考案し、伝授できる人は案外少ないものだと人は言う。

 しかし、その本は違った。

 本当に読むことはない。ページを開くことも、文字を読むこともなく、ただ手に持っただけで読書になる。

 ほぼ無名の版元から出版されたこともあり、最初は眉唾ものとして扱われていたが、徐々に本物だと理解されていき、助走期間を得て飛ぶように売れていった。熟練者ともなれば、持つ必要もなく表紙に触れるだけで読書を終えてしまう。

 まさに読書の改革であった。読むことは現象としての変化を迎えた。

 読書家の反応は様々であった。やれ、そんなものは脳内に情報を突っ込んでいるだけだ、読書の本質性を損なっている、と主張する者も初めは少なくなかった。

 そういった者も、習得するや否や、意見を翻す。読書法の革命だ!と声高に叫ぶようになるのである。

 「本を読まない速読法」にはこうあったという。読書とは本と向き合い、中身と自分の解釈とを合わせた体験を取り入れるものである、と。この速読法は速読法であって、何やらデータ化して取り込んだり、或いは本自体を記録として焼くようなものではなかった。

 読書体験を触れ合いに変える魔術、とまで表現するものもいた。

 反面、読者の理解力頼りであることは普通の読書と何も変わらなかった。読んでも分からない本はその読者に応じて幾らでもあった。よく分からない本の、よく分からない感想だけが頭に残る、というのはその当時良くあることだったという。

 それでも手に取れば読書になることから、読書をする人はとても増えた。

 あの本読んだ? 今読んでよ。

 カバンの中に、机の上に、文字通り「すぐ読める」本が生活の風景に溶け込んだ。読書は限りなく身近なものになった。


 そんな速読法が広まる中で、最初に困惑したのは本屋だった。

 本が売れない。手に取ったら読了なのだから当たり前であった。

 立ち読みという概念も急速になくなりつつあった。いや、立ち読みこそが読書になったというべきかもしれない。当時はフィルムのかかった本もあったが、ブックカバーのある本も読めるこの速読法の前では紙同然の防御力であった。

 この速読法は記憶術の側面を強く併せ持ち、読み返しの要を極端に少なくしてしまう。より正確に言えば、初見時の体感を何度も呼び起こすことが可能なのだ。これが仇となった。

 本を買うことは突然に贅沢な行動になってしまった。

 電子書籍の売上も瞬く間に下がった。

 表紙から速読する熟練者でさえ電子書籍の表紙には無力であった。データを目で追うことを強いられた。読めないデータを好んで買うのは、実体的な本を買うことよりも更に好事家のする行動であった。

 物理書籍を求められながら、持って内容が分かる為に買われずに店に残る本たちは、化石ほども発掘されずに置き去られた。

 図書館に人が犇めくようになるのも当然であった。ただし空席は目立ち、椅子にも座らない来館者がゆっくりと本棚と本棚の間をすれ違い流れていく。

 国会図書館は閉架中心の運営を改めるよう突き上げを食らうようになった。図書館とは開かれているべきである、というわけらしかった。その上、急速に出版物の売上が落ち込んだことにより、出版物を収蔵する機能そのものにも大きな支障をきたすとの考えが強く生まれた。

 本は、出版物は、未だかつてないほどの需要が生まれながらも、金を出す客に恵まれないという絶滅の危機に瀕した。あたかも乱獲される野生動物のように、取り尽くされて躯をさらしていった。

 一方で各所の図書館には読み終わった本があらゆるところから数限りなく寄贈されるようになった。受け入れを断っても段ボールで、紐で縛って、紙袋やビニール袋に入れて、置いていく不届き者が後をたたないほどであったという。

 ここから大規模図書館のーーというよりは失われる本を無造作に収蔵する図書蔵というべきだろうーー計画が生まれた。とはいっても新しいハコモノを建てられるような地方は少なく、廃校や取り壊し前の公共施設を探して流用されることが多かった。煽りを受けたのは各家具メーカーで、本棚の製造にラインを大幅に割く必要にかられた。本棚バブルが少しだけ膨らんだ。

 問題は供給側だけに留まらなかった。読者の側にもあった。

 特に契約書の類でその手の問題は頻出し、読めると早合点して速読し細部を取り落とす人が大勢うまれ、またそれを商機として詐欺、或いは詐欺まがいの手法も多く取られた。読みづらい文章の一側面に「本を読まない速読法の対象外」になることも組み込まれた。

 感想を伝えることが難しいと感じられるようになったのもこの時期である。感想は「読ませる」ことができない。膨大な読める量に対して伝えられる量、アウトプットできる量は声であれ文字であれ限られている。

 感想文を「読ませる」こともされたのだが、結局はうまく伝わらなかったという。人同士のコミュニケーションが不全になったりもした。


 そんな混乱のさなか、次のハウツー本が生まれる。

 タイトルを「題名を読むだけ速読法」という。

 面白いことに、この本は「本を読まない速読法」が通用しなかった。手に持とうが、表紙に触れようが、開いた本に手を挟もうがーーこれは読まない読書法の初心者に向けた方法であるーー読書はできなかった。 

 人々はもう不慣れになった読書をなんとかこなした。この速読法は本を読まない速読法よりも遥かに習得が難しく、何度も本を読み返し、付箋を貼って、マーカーで線を引いて、理解する必要があった。これに限っては電子書籍も良く売れた。読む必要があったからだ。

 しかし、習得した先にあるのは別世界であると、読む以前より誰もが理解していた。

 あらゆるものが本になるのである。

 それは読書体験の変革ではなく、本そのものの形態の変化を意味していた。

 図書館が、出版データベースが、本物になると考える人間は少なかった。

 タイトルらしき文字の並びと著者名から、中身と感想が読み込まれると理解する人間のほうが当然多かった。

 人々はまるで本の世界を自由に改変する神のように、読んだことも見たこともない本の題名を生産した。

 当時当たりのタイトルと言われていたものは今でも名著として残っている。

 1919年ギーダー・スウェルツ「春好みの災い」、2034年舜到治「醉酒无宿蜗牛的下坠和着陆」、3442年伊藤竹春「CD、ベータ、ガンマ」、紀元前50年ゴルギダス「紅海紀」など。

 タイトルを見るだけなのだ。基礎教養としての名著はそれこそリストで本が作れる程に増え、ネットで公開・更新された。

 意外なことにというか、当然といえば当然かもしれないが、「読んだことのないタイトル」は「読めないタイトル」ではなく、発音可能であるというラインを充足することを求められた。これには生成AIが大きな役割を果たした。人間には、発音できて見たこともない文字の並びを作るのは上手くなかった。

 また出版年を固定する、というのも重要な点になった。ほんの一年ズレるだけで、同じ題名同じ著者であってもニュアンスにブレが生じるのだ。あたかも細かく作者が改定したように。流石に数ヶ月、もしくは数週、数日は好事家が気にするレベルの誤差ではあった。

 もう亡くなった著者の新作や書いたかもしれない著作を生産することも試みられたが、大概は駄作であったりもした。本人が出していない本なのだから当然という説と、この宇宙では読まれるべき本ではないのではないか?という説があった。

 また、しばらくして「題名を読むだけ速読法」は「本を読まない速読法」の熟練者によって改良され、本来であれば習得に必要だった文字を追う行為すら追い出した。コピー紙に印刷されたペラ一枚が、題名しかない本棚への扉になった。

 こうして本屋は、図書館は、出版社は、著者は、その任を終えた。

 驚くことは他にもあった。即ち「全知」の発見であった。

 当然ながら「宇宙の真実」であるとか、「物理法則の網羅」であるとか、「完全な数学の体系」であるとか、そういった類の本を読もうとするなら、読者にも相当の知識や理解力を必要とする筈だった。

 これを読者は「知識を必要としない読書術」や「理解力が極限まで高まる読書術」といったハウツー本で乗りきることにした。それでも読みきれない本は「読み切る読書術」でどうにかした。

 超光速航法が読み出され、エントロピーの無視が読み出され、不老不死の施術法が読み出された。

 「題名を読むだけ速読法」の掌中には法則同士の矛盾は存在しなかった。人間には構築しようのない完全性が、人間の知性ではピントも合わせられないような巨大さときめ細やかさで書かれていた。

 文字のカオスが駆動する人間社会はもはや地球上に留まることをやめるかに思われた。題名が作る知の階梯を軽やかに登って、宇宙進出を果たすのではないかと。

 しかし、人間は塩味のする産湯に浸り続けることを選んだ。全てが読み取れる位置にあった。内部と外部はいくらかの文字で接続されていた。

 「全てを読み取る本」を読了したのは人間ではなかったという。


 こうして本はなくなった。

 今では本とは何だったのか、知る者はいない。

 中身があるものだったとは伝えられている。

 とある銀河の、とある太陽系の、水が液体である岩石惑星で、本は読まれることを待っているとも、その深奥を封じられているとも言う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

本を読まない速読法の本 @imai101

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ