リプレス・オブ・エスケープ

砂々波

第1話

うだるような暑さ、汗と水たまりが混じり合うような七月。

私たちは逃げ出した。

何から。とは、聞かないでほしい。

ただ、どこまでも青く、春めいた二人の夏を聞いてほしい。


暑い。

どちらかが言った。あるいは二人かもしれない。

とにかく暑さで目も、耳も、脳もやられてしまっていた。

光、あるいは汗で静かに閉じた目が痛んだ。

蝉、あるいは耳鳴りが鼓膜を混濁させた。

日曜の昼下がり。

ラケットケースが背中で轟轟と光を招いている。

蝉、死にかけの、ただ青々とした木の葉で誰にも見えず、独りで泣き叫ぶ。

泣いているのか、聞かれるまで時間はかからなかった。

彼はいつもと変わらぬ夏には少し冷ややかすぎる顔で私を見ていた。

家庭に文句があるわけじゃない。

暖かい人たちだ。ねじれた私をどうにか矯正しようといつももがいている。

貧乏なわけでもない。

ただ、私には根本的な暖かさが足りていないのだ。

底の開いたバケツのようだ。

滴り落ちた水は、やがて腐敗し、土壌を汚染する。

汚染された土地で育つ植物がどんなか、君は想像に容易いだろう。

元より存在することのない添え木を探し、ぐるぐる、ぐるぐる、馬鹿の一つ覚えのようにその場を放浪している。

かといって、学校に文句があるわけじゃない。

確かに授業は退屈だが投げ出す程落ちぶれてもいない。

担任もクラスメイトもクソみたいな奴らだが我慢できないこともない。

彼らは少々幼いのだ。それが肉体に相違しているのかいないのか私にはさっぱり分からないが、きっと彼らにとってはそれが正解なのだ。

私が馬鹿だったら、どれほど良かっただろう。

「別に、汗が目に入っただけ」

彼は何も言わなかった。

目と目でものが言える、

とはよく言ったものだが、

不思議なことに私達にはそれが叶った。

年月がそうさせたのか、互いの周波数が共鳴の範囲内にいたからかは分からない。

周波数。

「口で言わないと分かんねぇよ。」

「分かってるくせに。」

何十と繰り返した台詞。彼は意地悪く笑う。

その眼に宿る決心を私は見た。

蜃気楼のように、彼の瞳孔が揺らめく。

「どっか行こう。」

「どっかって?」

「…どこでもいいだろ」

頬を掠める突風がその身を翻しすべてを攫って行く。


「行ってきます。」

返事はない。

母親は怒ると2,3週間は口を利かなくなる。

これが最後のやり取りになるかもしれない、と思うと私の心にはどうしようもない優越感が湧いた。

蜃気楼に踏み出す右足

アスファルトは太陽の僕なのかもしれない。

「おはよ」

「ん」

彼はいつもと違い、私からリュックを奪い取らなかった。

筋トレ、と称しながら教科書が破裂しそうなくらい詰まった私のリュックを自身の前にかける。

紳士にはなりきれないその姿はなんとも面白い光景だった。

一度彼のリュックを持ったこともあるが、

彼はいったい学校に何をしに行っていたのだろうか。

驚くほどに軽かった。

でも、今日は違う。

私のカバンは、彼のいつものカバンと大差ない。

財布と、携帯と、それで十分だった。


しばらく、灼熱の太陽の下を無言で歩いた。

一歩前を歩く彼がどこに行くのかは知らない。

でも、どんな地に行くかは分かっている。

行きかう人の群れがだんだんと色を帯びていく。

形骸化した外殻の外に居る人々。

私たちも、同じように見えているのだろうか。

「いくら持ってきた?」

「7万」

合計15万。

それがどれだけ旅の延命をするのかは分からない。

でもそれでいい。

調和のとれた旅も、計画じみた旅もつまらない。

答えの分かりきった計算をやり直したくはない。


電車をいくつか乗り継いで、片田舎に来た。

田んぼの青々とした香りを肺いっぱいに吸い込む。

沈殿していた空気が回送し、鼻が痛んだ。

海風が前髪を掬い、山風が私たちを急かす。

急かされるままにアスファルトを踏みつけた。

蜃気楼の向こう側へ、たどり着くまで。


私の想像通り、彼は山へ足を踏み入れた。

送電塔も立っていないような田舎だ。

道という道はなく、私は渋々草をかき分け獣道を進んだ。

葉の間から漏れる日光が彼の肩に落ちるのを、ただ見つめていた。

彼が肩を揺らして歩くたびに、光は肩と肩甲骨を行き来する。

反復横跳びが苦手だったことをちらりと思い出した

ふと、彼が足を止めた。

思わずぶつかりそうになり、傾けた額から汗が滴り落ちる。

滑り落ちた汗の先には、錆が群がる看板が立っていた。

その文字を認識する前に、彼はそれを難なく乗り越える。

そして、早く来いと言わんばかりに私に視線を送った。

「た…ち…入…立ち入り禁止???」

「そうだな。」

慌てふためく私を前に、彼は冷静だった。

それが何だと言いたそうな目で、こちらに近づいてくる。

「早く」

「ちょっと!」

柵を跨いだ彼の腕は私の手首をつかみ、強引に、常識の向こう側へ連れ去った。

「…変わらないね、あんたは。」

「お前は固すぎ、」

私は足を止めた。数歩歩いた彼から腕が離れる。

忘れていたと言わんばかりに、蝉が鳴き始める。

「…生きて行かなきゃいけないからね。」

「普通じゃない私たちに、手を差し伸べてくれるほど世界は優しくない。」

一つに束ねた髪が首筋に張り付く。

だんまりになった蝉がこちらを見ている。

その静寂の中に彼の呼吸が聞こえる

「…他の誰がお前を何て言ったって、お前は変わらないだろ。」

いつもと変わらない調子で言い放ち、私の返事を待つことも無く彼は私に一歩近づいた。

この言葉に、彼に何度救われたことか。

目頭が痛んだ。暑いせいだ、汗のせいだ、

全部、全部、夏のせいだ。

私を一身に見つめる彼の瞳は、凪いだ日の海のようだった。

春風を運ぶ波が、瞳孔を揺らしている。

その瞳孔に映る私の何と惨めなことか。

何かを察した彼は私の瞼をゆっくりと撫でた。冷えた指先が視界を奪う。

「お前、俺と出会わなければよかったと思うか、」

「思ったことない。そんなこと。」

思うはずがない。

彼の居なかった人生を想像すると、まるで一筋の汗が流れ落ちるように背筋がひやりとした。

理解者が一人も存在しない世界。

誰にも届かないラジオのようだ。

噛み合わない周波数に、気づかぬまま朽ち果てていく。

「お前がもし普通の人間だったら、俺とお前はこうはなってない。」

その言葉の先を、彼が紡ぐことはなかった。

でも、打ち寄せる波が砂を吸収するように私にはすべてわかってしまった。

砂は必ず波打ち際に帰る。

何年、何十年、何億と掛かろうと、必ず。

再び海へと潜るのだ。誰かのために。

私ではない、誰かのために。


冷えた鼻先に落ちた木漏れ日が熱い。日が落ちかけている。

地面に落とした氷菓のように、木々の合間でじわじわとその身を溶かしている。

溶け出た夕日が木の葉を伝い地面を赤く染める。

足を止めた彼の顔にも、燃えんばかりの夕日がかかっていた。

「見事に野宿だな。」

「キャンプ慣れしてる私がいて良かったね」

持ち出してきた懐中電灯を彼の顔に照射すると、彼は目を細め、私の手を押した。

俯いた明かりが寝袋に反射する。

7月とはいえ、山の中はさすがに寒かった。

リュックを肩から落とし、寝袋の中にもぐりこんだ。

ひやりとした感覚が肌に甘い。

怠惰を極めるべく、私は寝転がったままリュックの菓子パンを漁った。目が合った彼にふふんと得意気に笑うと彼は鼻で私を嘲笑し、同じように寝転がってリュックに右手を突っ込んだ。何を取り出すのかと横目で見ていると、その意外さに私は吹き出さざるを得なかった。必死に菓子パンで口をおさえる私に見せびらかすように、彼は左手から水を取り出した。もう耐えきれなかった。

「そ、それ、どうやって沸かすの?」

切れ切れの言葉に、彼は手に持っていたカップ麺を落とした。


「ほんとに馬鹿だね」

「そうだよ」

同じ菓子パンを口に含みながら彼は開き直っていた。開き直ってはいるが、私は彼が本当に馬鹿ではないことを知っている。確かに勉強はできない。だけれども彼は頭がいい。本質的な頭の良さだ。人に愛される人だ。

私と違って。

「…明日、街に行かなきゃね。」

「ガスコンロでも買うか」

微かな笑いの中、私はいつの間にか眠っていた。


「ガスコンロは?」

「ない」

7月31日 逃亡3日目

昨夜話した通り、私達は麓の商店街に降りてきていた。田舎とはいえ、町一番の商店街なのでそれなりに買い物客はいた。

「大人しくパンでも買ってきな」

そう言い放ち、彼が渋々踵を返した瞬間。

背後から右腕を掴まれた。

「君たち、ちょっといいかな」

上から降る変に間延びした声に、背筋が凍る。声を出すより先に、彼が動いた。私の左腕を引いて。

事態を察知した警察は右腕を離すことはせず、私を強く引き寄せようとした。

「痛い!」

声を張り上げた。痛くはないが。

全員の視線がこちらに向く。私服警察の仇。

一瞬警察が怯んだ隙に、彼は再び私の腕を引いた。少し痛むくらいに。

「逃げよう」

夏風薫る午後、商店街を走り抜ける。

固まりかけていた足が嘘のように、軽いステップを踏み出す。どんなワルツよりも軽快で愉快なリズム。気づけば引かれていた腕はいつの間にか彼の横にあり、私達は競うように走っていた。それがなんだか可笑しくて、警察の怒号が聞こえる中、2人笑った。

伸びきった影、焼けて痛む耳、路地裏の湿気、その全てが夏を証明していた。


「振り切ったな。」

膝に手を着き、肩で息をする彼が、座り込んだ私の背中をぱしっと叩く。

「警察、お前に叫ばれて超戸惑ってたな。」ばーか。彼は無邪気に笑っていた。

跳ねていた拍動もいつの間にか落ち着きを取り戻している。

山を抜けた先は、やはり海だった。

黄金色の砂浜に燃えた夕日が滲んでいる。

昼の輪郭を崩し始めるそれを、しばらくぼうっと眺めた。

赤が溶けて、そこに青が滲む。

混ざりあった紫は、やがて黒に包まれその鮮やかさを失う。何億年と光った星雲が、宇宙に引き裂かれるように。

ふと、彼が立ち上がった。

「どうしたの?」

彼が問に答えることはなかった。

ただ、にやりと大きな目を三日月に閉じ、唇から笑みを零し、靴を脱ぎ捨てた。

駆け出す彼、振り返るその目に、言われた気がした。

私の手は既に蝶の一片を掴んでいた。形を捨て去る蝶。湿った足裏に張り付く夏の粒子。

1.2.3と駆け出した足で思いっきり、海を蹴飛ばした。悲鳴を上げ、分裂する海が彼の髪に降りかかる。

公園の水道を大暴走させたあの夏が思い出される。あの頃の私は無邪気だった。後先なんて考えず、ただ思いのままに彼と走って、転んで、笑って。

口元が緩んだのも束の間、水分の障壁が見え、舌が痺れるくらいの塩分を感じる。

前方にで笑う犯人は、してやったりという顔でくるりと背中を向け、波を走った。

もう転ぶことは無くなったその背中を、

いつまでも見ていたいと思った。


「何も押し倒すことないだろ」

「ごめん転んだんだよ」

不満げな顔でTシャツを絞る彼に、上着を投げる。夕日はついに、月から逃げるように頭を隠してしまった。まだ、頭隠して尻隠さずの状態ではあるが冷えてきた。風邪をひいてしまう。

大人しく上着を羽織った彼は、リュックひとつを隔てて私の隣に座った。

日に焼けた頬が赤くなっている。

まるで夕日が彼の頬に移ったようだ。

「…短い逃避行だったね。」

「終わりか?」

そこに名残惜しさはなかった。星の瞬きは絶えず私達に祝福を降らせている。耳を澄ますと、街の喧騒が聞こえてくる。足音を聞き取った彼もまた、静かに星空を見上げている。二人で雪虫を追いかけた、あの日のように。

差し出された右手に乗っているのは冬の妖精ではなかった。

星を弾き落としたように、冷ややかに香る三日月。

彼の顔を見た。

「要るか?」

咲きかけの桜のように微笑むその顔を、私はきっと忘れないだろう。分かっているくせに。小さく、首を横に振った。

でも彼は私の答えを待っては居なかった。

私が首を振り切る前に大きく振りかぶった右腕は未来を描き出した。海が月を支えるように高く舞い上がる。落ちかけている月を再び空に押し上げるように。

「覚えてる?あの約束」

「覚えてるよ。」

打ち寄せる波を写す彼の瞳と視線が交差する。

「愚問だったね」

まったくだ。とでも言うように彼はふっと鼻を鳴らし、再び海に視線をやった。

幾千もの星が海を漂っている。

輝いたと思えば、隆起する波にその姿を奪われ、消えたと思えば、彼の凪いだ瞳の中でひっそりと光を放っている。


「忘れないでね。」












18回目の夏がきた。

うだる暑さだ。

蝉が鳴いている。

右手が振動し、画面がぱっと色付く。

浮かんだ文章に、その足を早めた。

湿った路地裏を抜け、あの背中を探した。

今にも転びそうな背中。

俯くその背中を弾く。

「なんで泣いてんの?」

「…汗だよ」

彼は振り向くことなく、ただ膝に抱いたラケットケースに汗を落としている。

日光を吸収した水滴が眩い光を放っている。

次の汗が落ちきらぬうちに、その背中に私は小さく呟いた。

「…どっか行こう」

「…」

少し驚いたように固まってから、振り返る彼の口角が柔らかく上がるのを見た。

潤んだ大きな目が三日月に閉じる。

「どっかって?」

力なく垂れる彼の左腕を引く。

立ち上がった彼に、私は持ちうる限りの祝福を与えたい。

「どこでもいいでしょ!」

力ずくで引っ張る左腕。

ラケットの落ちる音がした。

駆け出す左足。

走り出す彼の背中を追う二度目の夏。

あの日捨てたナイフを探しに行こう。

約束を果たそうよ、この夏に。











「私はあなたで、あなたは私」

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