二香

小野繙

二香

 あなたはもうすぐお姉ちゃんになるのだと教えられたその日から、一香は赤ちゃんのことしか考えられなくなってしまった。いつ産まれるか聞くと、だいたい九ヶ月くらい先かなとママは言う。九ヶ月って何日くらい?とママに聞くと、二百七十日だと言う。それでも全然イメージできなかったので、あと何回寝たら赤ちゃんに会えるの?と聞いてみると、ママは優しく「あと二百七十回寝たら会えるわよ」と言った。全然分かりやすくなっていない。一香としてはできれば明日くらいに産まれて欲しかったので、ユーチューブの広告みたいにスキップできないの?とパパに尋ねてみるのだけれど、「そんなことできないよ」とパパとママは笑った。二人が笑ってくれたのは嬉しいが、赤ちゃんがすぐに産まれてこないのは困ってしまう。せめて何か一香にできることはないかと聞いてみると、そうねえとママはしばらく考えてから一香を優しく抱き寄せ、「一香はこの子のたった一人のお姉ちゃんで、あなた達は世界でたったふたりきりの兄弟になるんだから、どんな子が生まれてきても、この子を大切にしてあげてね」と耳元で囁く。それはママがいつも大切なことを一香に話すときのやり方で、一香はこのちょっぴりこそばゆいママの息遣いや話し方が大好きだった。

 うん、と一香は頷く。

 絶対に大切にする。

 どんな子が生まれても、きっときっと大切にする。


 正確にはそれから二百二十二日後に、ママとパパは病院に行った。出産のためだとパパは言った。一香はおばあの家に預けられて、二人の帰りを待っていた。一香なりにできることは全てやったと思う。図書館でママと一緒に赤ちゃんについてのご本を読んだり、街で知らない人がベビーカーに乗せている赤ちゃんをじっと観察したり、ママのお腹が膨らんでくると、毎日毎日お腹を撫でて声を掛けてあげていた。

 その頃にはもう、産まれてくる子が女の子であることも分かっていて、名前は一香の次だから二香にかにしようという誰が言い出したのか分からない短絡的なノリにもきっと何かしらの祈りは込められていたので、家族みんなで二香、二香と呼びかけていた。実際にお腹の中にいる二香が

 ドン!

 とママのお腹を蹴ったときには、おー蹴った蹴ったと家族みんなで喜んだ。

 そんなこんなで、一香は二百七十も二百二十二の違いも分からないような早寝早起きが骨身に染みついた子供であるからして、息の荒いママと切羽詰まったパパがザアザア雨の降る深夜にタクシーを呼んで急いで病院に行ったことにも一香は全然気付かなかったし、パパとママに代わって一香の子守を任されたおばあがすぐそこでバゴーンと鳴り響く雷に打ち震え、死んだおじいの遺影が飾られている仏壇に線香をあげてどうか二香をどうか二香をとぶつぶつ呟いてチーンと仏壇のりんを鳴らしていたのも一香は知らなかった。

 だから、次の日にママが笑顔で「ただいまー」と帰ってきて「ついにお待ちかね、二香ちゃんのお出ましだよー」と玄関から二人を呼んだ時にはおばあは心底驚いたし、一香は発狂寸前の奇声を上げて玄関へ飛び出したのだった。玄関ではすっかりお腹の凹んだ母親が笑顔で真っ白なおくるみを抱いていて、あそこに二香ちゃんがいるのだと確信した一香は、ねえ早く一香ちゃん(一香は甘える時に自分のことを一香ちゃんと言った)にも見せてお願い見せて二香ちゃんの顔見せてとぴょんぴょん飛び跳ねながらママに纏わり付き、まあまあ落ち着きなさいと玄関先で腰を下ろすママが抱いているおくるみの中にいるだろう真っ赤なお猿さんみたいなかわいいベイビーを期待して覗き込むと、そこには

 女の子のぬいぐるみ

 が、やわらかく白い布に包まれて微笑んでいる。

 一香は言葉を無くした。ママは喜ぶ一香を期待していたのか、目をキラキラさせて一香に「どう、赤ちゃんのご感想は?」と尋ねてくるが、正直言ってこの状況でご感想もクソも無かった。一香にもう少し語彙があればここで「これ詐欺じゃね?」という言葉が出てきたのだけれど、一香の通う保育園では詐欺とかいう語彙が飛び交わないように細心の注意が払われていたし、パパとママも普段から丁寧な言葉遣いを心がけていたので、一香がなんとか頭を捻り出した言葉は、

「これ、にせもの?」

 だった。一香の期待に反して、ママは「本物の二香ちゃんよ」と笑う。

「由佳さんっ!」

 後ろでぶるぶる震えていたおばあが声を荒げる。

「あまりっ、そういう冗談はよろしくないと思うのだけれどっ!」

「お義母さん……どうしてそんなこと言うんですか」

 ママが本当に悲しそうな顔をしたので、おばあは言葉を失う。そこに車を留めていたパパが遅れて玄関にやってきて、「ちょっとママはリビングで休んでいて」とママを追いやると、玄関に残されたおばあと一香の前でパパはレシートを取り出して、

「商品名『おしゃべりぬいぐるみ ピュアハート』」

 とまるで裁判の罪状のように宣言してから、

「今日から、僕たちはあの子を育てることとなる」

 と、けっこう絶望的なことを真顔で言いのける。

「圭ちゃん、アナタまで何を……っ」

 おばあは身体も声もブルブル震わせるが、パパは首を静かに横に振り、

「分かってるよ、おかしいことを言っているのは。でも、そうでもしないと、ママの心が持たないんだ」

「ママ、つらいの?」

 一香の言葉に、パパは黙って一香の頭を撫でる。

「うん、ちょっとね……だから、ママには優しくしてあげないといけないんだ」

 分かった?と聞くパパに一香はひとまず頷くが、「ねえ、二香ちゃんはどこ?」という質問をしてしまうあたり、一香は状況を理解できていないのだろう。パパは頷いて「よし、ママのところに行くか」と固まっているおばあの横を通って二人でリビングに向かうことにする。ママはぬいぐるみに「あばばばば」と舌を出してあやしているところだったが、一香に気が付くと、

「一香」

 と優しい声で呼んで、近くに来るように言う。一香は近寄って、再びおくるみのなかを覗き込む。そこには(やはり)布製のぬいぐるみが笑顔を見せている。顔はアニメ調にデフォルメされていて、衣装がひらひらしていて可愛らしい。一香はアンパンマン大好きっ子ゆえに他のアニメには疎いのだけれど、保育園で歳上の女の子が持っている女児向けアニメのキャラクターに似たような子がいたことを思い出す。名前は分からないが、人畜無害そうな笑みを浮かべている。

「かわいいでしょ」

 ママが笑う。確かにかわいい、と一香は思う。なんというかこう、まるっとしていて、誰をも癒やしてくれるかたちをしている。それはそれで良いのだけれど、やはりこれはぬいぐるみであって赤ちゃんではないわけで、

「これが二香ちゃんなの?」という一香の質問に、

「そうよ、何度も言っているでしょう?」

 とママは微笑む。


「それとも、この子は二香ちゃんじゃないって言うの?」


 恐ろしい問いかけだった。肌で母の奥底にある冷たさを察知した一香は、ううんと素早く首を横に振り、「ねえ、さわってもいい?」と尋ねてみる。

「おててだけね、まだ首もすわってないから」

 一香はママに言われた通り、おくるみに包まれている二香の手を慎重に探った。これか、と思うものを取り出すと、指のないドラえもんみたいなものが出てきて一香はビックリする。

「指がないんだけど!」

「二香ちゃんはそういう赤ちゃんなのよ」

 一香はそうかと思い、それを優しく握り締めた。

 柔らかい。驚きのふにふに触感である。

「ふにふにしてるんだけど!」

「赤ちゃんの手はふにふにしているのよ」

 一香はそうかと思い、しばらく二香の手をふにふにして遊んでいたが、一分もしないうちに飽きてしまった。

「そういえば一香ちゃん、二香ちゃんに挨拶はした?」

 していなかった。ぬいぐるみに挨拶をしたところでこの子が返してくれるとは思わないし、そもそもこの子に挨拶をすれば、「二香」と呼びかけてしまえば、いよいよ一香は本当の赤ちゃんに出会えないような気がした。だから一香としては、このぬいぐるみを二香と呼ぶことが本当は嫌で嫌で嫌で仕方なかったのだけれど、ここで二香と呼んであげないと、優しいママがあの一瞬だけ怖かったママになってしまうのかと思うとそちらの方が怖くて、一香は恐る恐るぬいぐるみに触れて、

「二香ちゃん、」

 と呼んでみると、一香の手がお腹に触れたのか誤作動したのか、ぬいぐるみからは『だいすき!』というボイスが再生される。

「喋った!」

 一香は興奮と驚きと喜びが絡み合った感情でママとパパを見つめる。ふたりはにっこり頷いている。ふつう、赤ちゃんはあぶあぶとかばぶうといった喃語から話すようになるので、産まれてすぐ「だいすき!」とか言う子は、誕生してすぐ天上天下唯我独尊と叫んだ釈迦と同じくらいすごいのだけれど、一香にとってはそんな常識よりもぬいぐるみが自分の呼びかけに答えてくれたことが何よりも嬉しくて、ああ、この子は本当にママのお腹にいた二香ちゃんで、私がずっと呼びかけてきた二香ちゃんそのものなのだと、一香はすっかり理解する。


 その日から『おしゃべりぬいぐるみ ピュアハート』は、一香の家で二香と呼ばれることになった。

 普段はママが子守りをしているが、ママが見ている場合に限って一香も二香に触っていいことになっている。一香はとにかく二香の声が好きだったので、暇さえあれば二香のお腹を押してその反応を楽しんでいた。基本的に二香の台詞はランダムで、晩飯時に「おいしい?」と聞きながら二香のお腹を押してやると、『もぐもぐ』と言ったり、『おはよう!』と言ったりする。たまにママお手製のハンバーグを目の前にして『ピュアハートハリケーン!』と必殺技を出したりするのだけれど、その時には「おっ、二香ちゃんってば、喜びのあまり必殺技が出ちゃってるな(笑)」とパパが揶揄うのを、ママと一香で笑うのがお決まりの流れになっていた。

 ある休日には、家族みんなで近くの公園に行ったり、近くのスーパーに買い物に行ったりする。一香はパパと手を繋ぎ、ママはベビーカーに二香ちゃんを乗せて押していくのがお決まりの移動スタイルになっていて、たまに近所のおばさんが、あら日吉さん二人目生まれたの?と聞いてくるので、家族みんなで「はい!」と答え、あらそうよかったわねえ、男の子女の子?という質問に一香は女の子!と叫び、あらそう妹さんなのね、お顔見せてと興味津々な様子でベビーカーの日よけをガバッと開けると、ベビーカーのど真ん中にちょこんと鎮座する『おしゃべりぬいぐるみ ピュアハート』と目が合って、おばさん達はギャーと叫んだり真顔のまま動けなくなったりする。

 そうこうしているうちに、一香の所属する日吉家は死んだ娘の代わりにぬいぐるみを育てている狂人一家として近所ですっかり有名になってしまい、同地区の住民が通う保育園でも同様の噂(事実ともいう)が流布されるのにも時間は掛からなかった。一香は保育園に二香を連れてきたことがなかったのに(ママは一香がひとりで二香を外に持ち出すのを許さなかった)、恐らくみんな、親から日吉さんとこの一香ちゃんと遊ぶのは止めときなさいと言われているのだろう、これまで一緒におままごとやうんちごっこで交友を深めてきた仲間は誰も目を合わせてくれなくなってしまった。

「みんな冷たいねえ」

 と言うのは、孤立した一香に唯一着いて回ってくる加奈ちゃんで、彼女は昔とあるグループに虐められていたのを偶然通りがかった一香に助けられて以来、何かとつけて一香に執着し、勝手に一香との運命を感じるようになったという異色の経歴を持っていた。加奈ちゃんは大好きな一香が孤立している現状を最大限に利用して、

「私だけは一香ちゃんのこと、信じているからね……」

 と大仰に腕に抱きついて恩着せがましい台詞を吐いてきたかと思えば、

「一香ちゃんの妹は、ぬいぐるみじゃないもんね?」

 と上目遣いで聞いてくる。一香は二香のことをぬいぐるみではなく妹だと信じていたので、そうだよと頷く。加奈ちゃんはほっと安堵しながら、

「よかったあ! 本当はちょっぴり怖かったんだ! ねえ、じゃあ今日は一香ちゃんの家に遊びに行ってもいい?」

 と尋ねてくる。一香は何も考えずに「いいよ」と言った。加奈ちゃんは激しく興奮し、一香のパパのお迎えの車の中でも何度も深呼吸をしては「これが一香ちゃんの家の車の香りかあ!」とおよそ未就学児とは思えない感想を口にしていたのだけれど、大好きな一香のお家につくといよいよ息遣いが荒くなってしまい、「もし一香ちゃんの妹ちゃんが一香ちゃんにとても似ていて、そのうえ私のことを好きになって姉妹の間で私の取り合いになったらどうしよう!?」という都合の良さと異常さに関しては日吉家に引けを取らない妄想を繰り広げながら家におじゃましますと入ってみれば、そわそわしていた日吉家が「せーの」と声を揃えて「ご紹介します、うちのかわいい二香ちゃんです!」と見せてきたものが『おしゃべりぬいぐるみ ピュアハート』だったのだから、加奈ちゃんは「ひえー!」と言ってずっこけてしまう。

「う、噂は本当だったんだ……」

 加奈ちゃんはまるでオバケ屋敷に間違えて入ったかのような心地になっていたが、ふと何かを叫びかねない表情になったかと思うと、何を思ってか一香のママに向かってタックルするように転がり込んで二香を奪い、そのまま日吉家から飛び出していく。

 一瞬の出来事だった。

 みんなぽかんと彼女の背中を眺めていたが、やがて

「いやああ! 二香ちゃんが! 私の二香ちゃんが!」

 というママの絶叫で日吉家は我を取り戻す。

「一香ッ! はやく二香ちゃんを取り返して!」

 とパパに言われるより先に一香は外に飛び出していて、靴も履かずに外を見渡すと、視界の端で加奈ちゃんが角を曲がっていくのが見える。あの角か、と思って靴下のまま全力で追いかけてはみるものの、残念なことにめちゃくちゃ路地が入り組んでおり、一香はすっかり二香と加奈ちゃんを見失ってしまう。はぁ、はぁ、と一香は肩で息をしながら、なぜ加奈ちゃんはあんな突飛な行動に出たのだろうと考えてみたものの、よくよく考えると一香は加奈ちゃんと喋ったことが殆ど無かったし(加奈ちゃんは一香が他の子と話しているときはじっと陰から見つめるだけだった)、一香は加奈ちゃんに対して「何故かずっと自分のことをつけ回している女の子」以上の情報を持ち合わせていなかったので、捜査は早々に詰んでしまった。仕方が無いのでひとまず帰ってみるのだけれど、家ではママが赤ちゃんのようにワンワン声を上げて泣いていて、ママの背中を擦りながらパパは携帯のスピーカーで警察に電話を掛けていた。

『はい、一一〇番です。事件ですか、事故ですか』

「じっ、事件です!」

「落ち着いてください。どのような事件ですか」

「娘が……うちの娘が誘拐されてっ!」

『誘拐ですって?』

「ええ、もう本当にどうしたらいいか……」

『分かりました。すぐに捜索いたしますので、娘さんの特徴を教えてください』

「えーと……」

『身長とか体重とか、服装でも結構です』

「ちょっと待ってください、確か取扱説明書がこの引き出しに……」

『え?』

「ん?」

『お父さん、いま取扱説明書って言いました?』

「いや、言ってませんけど。あっ、すみません、身長が分かりました、えー、読みますよいいですか?」

『……どうぞ』

「全長約十六センチ(座り)」

『はい、全長約十六……は?』

「なんですか?」

『「なんですか」ってなんですか? えっ、すみません、これイタズラ電話だったりします?』

「違いますよ! 本当に娘が誘拐されたんです!」

『いや、でも十六センチって、ぬいぐるみみたいなサイズっていうか』

「あっ、よく分かりましたね。確かにぬいぐるみで(ぬいぐるみじゃないでしょ!)すみません、ぬいぐるみじゃないんですけれど」

『すみません、お父さん酔ってます?』

「酔ってないです」

『酔ってますよね?』

「酔ってないです」

『ご自分のお名前言えますか?』

「日吉アキラ」

『日吉?』

「はい」

『もしかして、あのぬいぐるみ一家ですか?』

「だったらなんですか?」

 ブツッ、ツー、ツー。

「あ、切られちゃった」

 パパは悲しそうに言う。

「切られちゃったなあ」

 ママの泣き声が家に響き渡る。

 結局、加奈ちゃんは二香を抱いたまま家に帰ったらしかったのだけれど(加奈ちゃんは何故か自分の家から一香の家までの道程をしっかり覚えていた)、当然家に帰ってきて謎のぬいぐるみを抱いている娘に親は「なによそれ」と聞くわけで、加奈ちゃんもうまく嘘でもつけば良いのにバカ正直に「一香ちゃんを助けるために呪いのぬいぐるみを奪ってきた」とか言うものだから、一香ちゃんが日吉家の娘であると知っていた加奈ちゃんママは顔を真っ青にして娘をめちゃくちゃ叱って車をぶっ飛ばし、夜更けにすみませんと日吉家に頭を下げにやってきて、我らが二香ちゃんを返しに来たのだった。

 一香のママはもうすっかり憔悴して部屋の奥で寝込んでいたので、比較的ショックの小さかったパパと一香で加奈ちゃん親子の対応をしたのだけれど、めちゃくちゃに泣きじゃくり、時に嗚咽で断絶する加奈ちゃんの説明曰く、日吉家のみんながぬいぐるみの二香ちゃんを可愛がるせいで一香ちゃんがみんなからハブられているから、その元凶のぬいぐるみを隠してしまえば、きっと家族の目も覚めて、一香ちゃんもみんなから仲良くしてもらえると思ったのだという。

 それを聞いて一番驚いたのはパパだった。

「一香、お前保育園でハブられていたのか?」

 一香がそうかもと言うと、パパは笑って、

「奇遇だな。パパも会社でハブられていたんだ!」

 とめちゃくちゃなことを言うので、なんだか可笑しくなってふたりでケラケラ笑ってしまう。加奈ちゃん親子はドン引きしながらその様子を眺めていたが、

「でも、皆さんの気持ちは分かりますよ」

 という加奈ちゃんママの言うことには、

「私もね、この子を産む前に流産しちゃって……この子のお兄ちゃんを元気に産めなかったことに、ずっと心を痛めていたんです。だから、一香ちゃんのお家は、その……少し変なやり方かもしれないけれど、そうやって二香ちゃんのことを大切にしてあげるっていうのは、きっと二香ちゃんにとって嬉しいことで、優しい嘘で、」

 加奈ちゃんのママは目をうるませながら言う。

「だから、きっと、天国にいる二香ちゃんも……」

 そこから先は何も言えなくなったようで、何度も何度も頭を下げて、加奈ちゃん親子は日吉家を去って行った。

「なんというか、いい親子だったな」

 パパは玄関を見つめながら言う。一香も加奈ちゃんの顔を思い出して静かに頷いた。一香にとって、加奈ちゃんは変な子で、正直今だって何を考えているのか分からない部分がある。ただ、加奈ちゃんが一香の敵ではないことは確かで、それが分かっているだけで、一香はほんの少しだけ心に余裕が生まれるのを感じる。

「一香はどう思う?」

「なにが?」

「二香ちゃんの居場所」

 パパは一香の頭を撫でながら呟く。

「二香をこのままここに閉じ込めておくべきなのか、それとも天国に返してやるべきなのか」

 それは一香には難しい質問で、困った一香は二香のお腹をギュッと押してみるが、空気も読まずに『ピュアハートハリケーン!』と必殺技を出す二香に、ふたりはクスクス笑ってしまう。

「なあ、一香」

「なあに?」

「明日から、家族みんなで見ようか。プリピュア」

「どうして?」

「だって僕たち、散々笑っているけどさ、生のピュアハートハリケーンを一度も見ていないだろ?」

 一香は頷く。異論はなかった。


 翌日、有給休暇を取ったパパと保育園を休んだ一香は、二香を抱きかかえながらレンタルビデオ屋でピュアハートの出ている『プリピュア』シリーズのDVDを全巻借りた。帰り道にパパはこれも忘れちゃいけないなあとウキウキしながら近くのスーパーに立ち寄ると、カゴの中にポテトチップスやらチョコスナックやらクッキーやらコーラやらサイダーやらお酒やらを大量に入れて、クレジットカードの一括払いで気持ちよく支払いを済ませたあと、ブーンと車を飛ばして家に帰るなり、ノータイムで上映会の準備をした。

 最初、ママは部屋に籠もって億劫そうにしていたけれど、二香の晴れ姿が見れるからと一香が熱心に誘うと、渋々リビングに顔を出した。テレビの前のソファーにはパパとママと一香が並んで座り、二香は一香に抱きしめられ、じっとテレビを見つめている。全部のカーテンが閉められて真っ暗になったリビングのテレビに、プリピュアのアニメ映像が映されると、

「全部でどれくらいあるの?」

「多分、二十時間くらい」

「なっが」

 という会話を最後に、日吉家の上映会が始まる。

 みんな、オープニングから息を呑んでいた。そこにはピュアハートに変身するだろう女の子が出ていて、彼女は立ち位置的に主人公というわけではなかったけれど、脇役という訳でもなさそうだった。ピュアハートに変身しそうな女の子は第三話で出てきて、その名をアイと言った。どうやらイケメンに惚れやすいキャラのようで、イケメンを見つけるたびにきゃあきゃあ叫ぶうるさい女子中学生だった。けれども根はとても優しいので、主人公の女の子たちがピンチになった記念すべき第五話に、彼女たちを助けたいと強く願うことで魔法のアイテムが反応し、アイは戸惑いながらもピュアハートに変身するのだ。

 一香はアイの変身シーンが一番好きだった。キラキラ花開く映像のなかで、普通の女の子が誰かを守れるプリピュアに変身する。

 二香だ、と誰かが呟いた。それはママで、パパで、一香だった。二香が画面に現れて、キライダーと呼ばれる悪の一味と戦う度に、傷つく度に、一香たちは興奮し、傷つき、涙を流した。ピュアハートが必殺技の『ピュアハートハリケーン』を繰り出した時には、家族みんなで感動して、ただじっと画面を眺めていた。

 それからアイは友達と旅行に行ったり、学校でイケメンに恋をして振られたり、ピクニックで山道から滑り落ちたりプールで溺れたりと散々な目に遭うのだけれど、いつもアイの傍には友達がいるので、アイは笑顔で立ち上がり、未来に向かって走り抜けていく。


 眩しい。


 一香はうっすらと目を開ける。

 何かと思えば、パパとママが部屋じゅうのカーテンを開けている。おはよう、と笑うママに一香もおはようと寝ぼけ眼で返す。日吉家のリビングには眩しい日差しが差し込んでいて、時計を見ると午前九時、小鳥のさえずる朝である。途中で一香、寝てたよなあと笑うパパに、一香はそんなことないよ、と返そうとする。けれども差し込んでくる日光があまりにも温かいものだから、一香は何も言わずにぼんやりと二香と一緒にソファーに埋もれている。ああ、この時間がずっと続けばいいのにと思い二香をギュッと抱きしめると、きっとお腹が押されたのだろう、

『だいすき!』

 と喋るアイの声に、一香の目からは涙が溢れる。

 本当は二香の声で聞きたかった。本当は一緒に手を繋いで、公園や買い物に行きたかった。一緒の保育園に通って、一緒の小学校に通って、一緒にプリピュアを見たかった。二香の本当の声はどんな感じだったのだろう。どんなしゃべり方をして、どんな笑い方をして、どんな風に一香のことを呼んでくれたのだろう。

 一香は二香を抱きしめる。この子はアイで、ピュアハートで、ぬいぐるみだ。それでも一香にとってこの子が二香だった時期は確かにあったわけで、その記憶はこれからも消えないのだろうと一香は思う。きっとそうだと信じている。

 私もだいすきだよ、と一香は二香を抱きしめた。

 『だいすき!』とアイの声で二香は答える。

 一香の顔は、この世界でたった二人きりの、優しいお姉ちゃんの顔をしている。

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二香 小野繙 @negishiso

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