最後の食卓

春成 源貴

 

 カプセルの中の男が発見されたのは、ただの偶然だった。

 ある時、先の大戦で破壊を免れた、数百年前の遺跡であろう廃墟が発見された。

 ふとした弾みから落ちた地下室への入り口が見つかったのだ。地下の確認の結果、数個の冷凍冬眠用のカプセルが発見された。

 カプセルにはまだ人間が入っていたが、無事に稼働し命をつなぎ止めていたのはたったひとつのカプセルだけ。カプセルはすぐにストレンジ博士の勤務する研究所へ運び込まれ、時間をかけて覚醒のための処置が施された。

 古い文献がかき集められ、カプセルの製造元企業のデータバンクへ照会がかけられると、あっという間に男の情報は集まった。

 そして、ストレンジ博士の繊細な調整の末に、男は現世に復活した。

 博士は名医であり、もちろん研究者だった。

 博士が調べてみると、文献と共に集められた医療記録に男のことが記載されていた。年齢は三十歳には手が届かないところ。いや、正確にはそれは身体年齢の話であって、男の本当の年齢は六四一歳。つまり、装置によって六百年以上の眠りについていた計算になる。当時の不治の病で倒れ、治療を待つ延命処置として冬眠装置に入れられたらしい。

 ストレンジ博士がそこまで突き止めた時、男は目を覚ました。

 ベッドの上で眠りについていた彼は、ゆっくりと目を開き、数百年ぶりに瞬きをすると、ぐぅとお腹を鳴らした。

 当然である。

 博士は男の身体にたくさんの管を繋ぎ、血管や各器官に必要な栄養や酸素などを送り込んでいたが、口から食べ物を補給はしていなかった。おそらく冬眠前にも絶食を強いられていたのだろう。


「腹……減った……」


 復活した男の第一声だった。

 ろくに声にもならず、カスカスの空気が声帯を擦っただけのような、音声とも呼べないような声。だが、確かに彼はそう呟いた。

 博士は傍らに控えていた助手に命じ、すぐに食事を用意した。

 といっても、当然胃袋は全盛期の働きにはほど遠い程度にしか動いていない。

 用意されたのは重湯のようなものだった。重湯は米粒を潰し糊状にしたものをお湯に溶いたもので、消化だけはいい。

 腹の足しになるかは分からないが、博士が助手の用意したお椀を差し出すと、男は奪うように掴み取り、匙も使わずにずるずると啜り込んだ。


「げほげほ!」


 男はすぐにむせ返り、白衣の助手が呆れたように男の背中をさすった。

 そんな日が数日続いた。

 その間に男は自分が六百年眠っていたことを知り、ひどく驚いていたが、すぐに納得してしまった。もともと病気のせいで家族や他の人間たちとは疎遠であったようで、治療半分、実験大半分として冬眠していたようだ。

 男の記憶自体、細部は若干曖昧になっていたが大筋ではしっかりしていたし、驚くべきことに、冷静だった。

 六百年も寝坊してしまったにもかかわらず、だ。

 少しずつ体力が戻り始め、ようやく男が重湯を消化できるようになったのを確認すると、博士はお粥を用意させた。そしてお粥をしばらく続けると、今度は固形物を用意した。

 文献を調べ、調理担当に相談し、六百年前の食事を再現する。

 助手がやってきて、トレイに載った食事を差し出すと、


「ご飯と味噌汁と呼ばれたものです」


と説明した。

 真っ白な壁に囲まれた病室。

 男はベッドの上に上半身を起こしただけの姿勢で汁を啜った。


「……」


 男は渋い顔をしたが、そのまま無言で茶碗に箸を伸ばし、白い粒を少しずつ口に運んだ。

「どうですか?」


 ストレンジ博士は聞いた。男は肩をすくめると無言で箸を進めた。


「美味しいですか?」


 博士が重ねて聞く。男は少し困ったような表情を浮かべてから、ふるふると首を横に振った。


「よく分からないな。俺は味の記憶を失ったのかもしれないな」


 男は寂しそうに言った。


「検査の結果だと味覚部分は正常なはずなんですがね?」

「……味がしないわけではないんだが……」

「……食事が好みではなかったのかな?なにか好きだったものや食べたいものはないですか?」


 ストレンジ博士が訊ねたが、男は首を傾げるばかりで返事をしない。

 今度は博士が肩をすくめた。


「まあ、いろいろ試してみましょうか」


 その日の夕食には、何かの肉を焼いたようなステーキが用意された。鉄板の上で油が跳ねて、ジュウジュウと音がして、博士の鼻孔を香ばしい香りがくすぐった。

 これらは博士が研究の結果、味付けを忠実に再現した料理だ。

 男は少しの間、目の前のステーキ皿と跳ねる油を見つめていたが、おもむろに右手と左手の手のひら同士を合わせると、目を瞑り「いただきます」と呟いてから、ナイフとフォークを握った。それは、知識豊富なストレンジは博士でも知らない動きだった。

 ストレンジ博士は首を傾げると、今まさにナイフを入れようとする男に聞いた。


「なんです?その仕草」

「……食事前の挨拶というか……いや、お祈りかな」

「……お祈り?」


 博士は不思議そうに、それでいて興味深そうに訊ねた。男は持っていたカトラリーを元に戻すと、ポツポツとかすれ声で続けた。


「……信じるものによって作法は違うようだが……」

「信じるというのは……その……宗教とかいう?」


 我慢できないとばかりに博士が口を開く。


「どうだろう?……今の時代には信仰とかはないのか?」

「ええ、まあ。信仰というものは多分……信じるものはありますが、信仰とは違うものでしょう」

「なるほど。まあ、とにかく俺の住んでいたところでは、大体の人はこう手を合わせて……」


 男は先ほどのポーズをとる。


「いただきますと。食事をするというのは命を頂くこと。生き物の命を頂くということに対する感謝と、覚悟を現していると……死んだ父に教わったんだ」


「……命を……頂く……」


 ストレンジ博士は感心したように呟き、男はそれを聞きながら、再びカトラリーを手に取った。

 上手に塊を切り分けフォークに刺し口に運ぶ。

 男は口をもごもごと動かしながら首を傾げ、そして、また渋い顔をした。


「……不味いというわけではないんだが……なにかが……」


 男は口ごもり、博士は顎に手を当て考え込み、食事は終わった。

 その日の夜、博士の研究室に助手がやってきて言った。


「今日の検査結果が出てます」

「ああ、もう見たよ」


 博士はそう言って、デスクに着いたまま、机上の端末を触る。目の間にホログラムが浮かび上がり、空間ディスプレイとなってデータを表示した。

 助手はそのデータを目で追いながら言った。


「栄養状態は問題なく、各器官も正常に動いていますが……」

「いろんな数値が悪い。なぜだろう?」

「わかりません。博士の論文やこれまでの研究を踏まえても、上手く説明ができません」

「まったく困りましたね」


 博士はため息をついて続ける。


「覚醒のための処置に関してはなにも問題はないですし、直接的には食事かな?」

「しかし、博士。食事は専門の担当者がきちんと作っています。端的に言って栄養に関しては全く問題がないものです」

「ですけどねえ……」


 博士は再び考えに沈んでいった。


 それからさらに数日が経った。

 男は一見、快方に向かい回復を続けていた。病室から出ることを許され、隔離されたフロアの中を自由に歩けようになった。

 だが、すぐに問題は起きた。

 男の足腰が立たなくなってしまったのである。最初は自分の足で一日歩き回っていたが、日を追うにつれ、徐々に行動範囲と動ける時間が短くなっていった。一週間もすると、再び病室から出ることが叶わなくなり、そのままベッドの上の生活へと戻っていった。


「俺はいったいどうしてしまったんだろう?」


 博士がいつもどおりに朝の回診に訪れた時、男はぽつりと言った。


「……正直なところ我々にも分かりません。順調に回復していました。身体の各機能も一度は全快しましたし、実際あなたはこのフロアを元気に動き回っていました」

「確かに、そうだ」

「今現在も、単純に検査の結果を言えば概ね健康なんです。ただ、ごく一部の検査結果の数値が異常に悪いだけ。だけど、この悪い部分も悪いからと言って直ちに影響がある部分ではない筈なんですが」

「……病は気からって言うからな……」

「……何です?」


 男の呟きに、博士は首を傾げた。


「気持ち的なものなのかと」

「……どうでしょう?」


 博士は少し考えてから、真っ白な病室の隅に置いてあった木製の椅子をたぐり寄せると、ベッドの側に置いて座った。


「身体だけでなく、精神的な検査も行いましたが、特に所見はありませんでしたよ?」


 そして、男の腕を取ると手首に自分の指を当てて脈を診た。


「……でもなんだか人恋しいなとは思うんだがな」

「たくさんのスタッフが周りにいますが?」

「そうだな……でも自分を知っている人、自分が知っている人がいないからな」

「……」


 博士は手を離した。

 ちょうどそのタイミングで病室の白い扉が音もなく開き、助手がプラスチックのトレイに食事を乗せて入ってきた。汁物によく焼けたステーキ。朝からとても重たそうだ。

 博士が手早くベッドの上にミニテーブルを設置すると、助手はその上に食事を並べた。博士はとても香ばしい匂いに思わず喉を鳴らしてしまった。だが、男の顔は浮かない。


「どうぞお食べください」


 助手が後ろ手で扉を閉めて出て行った後、博士は笑みを浮かべて勧めた。

 だが、男は静かに首を振った。


「あまり食欲がないんだ」

「美味しいはずですよ。きちんと考えられたメニューですしプロのスタッフが作ったものですから……」

「……なんだか分からないんだが、食べるとあまり気分がよくないんだ」


 男は言った。そして、匙で汁を一口だけ啜ったが、やっぱり渋い顔をしてから、匙を置いた。


「それより、さっきの話だが、例えば動物とかいないのか?俺、ネコが大好きだったんだが……」

「ネコ……ですか……」

「ああ、六百年も経ってるんだ。さすがに知人はもう生きていないだろうさ。無理を言ったと思うよ」


 男は肩をすくめた。博士はつい真似をして自分も肩をすくめてみせた。


「……それは難しいですね」

「ま、検討してくれよ」


 男はそれだけ言うと、そのままベッドに倒れ込んで目を瞑った。


 次の日、博士は再び回診に訪れた病室で男の脈を取っていた。


「昨日の件ですが……」

「いや、無理を言ってすまない」


 男は苦笑いを浮かべて続けた。


「ネコが無理ならイヌでもいいんだ」

「イヌ?」

「ああ、なんなら実験用のラットぐらいならなんとかなるんじゃないのか?」


 男は無邪気に笑顔を見せ、博士は困惑したように眉を寄せた。


「あの残念ですが……」

「いや、すぐじゃなくてもいいんだが……なんとかならないかな?なんだかとても肌恋しいというか、温もりが欲しいんだ。さすがにあんたたちに甘えるわけにもいかないし……どんな生き物でも……」


 男が照れくさそうに顔を赤くし俯く。


「そうじゃないんです」


 博士は考える風にして頭を掻いた。


「じつは昨日研究室に帰ってから、いろいろと許可を取れるか確認しまして……まあ、取れたんですが……」


 男の顔がぱっと明るくなった。まるでスイッチを押して電灯を付けたかのように、顔色までが変わった。おまけに先ほどまで萎えていた足に添え物でも入ったかのようにベッドの上に立ち上がりかけたが、博士はすぐに男のパジャマの袖を引っ張り立たせなかった。

 いつものように足を伸ばし上半身だけをベッドの上に起こす。


「いや、違うんです。許可というのは……ああ、まあいいか」


 博士は独り言のように呟くと、男の顔を見つめて声を張った。


「あなたには真実を伝えなければならないと思い、許可を得ました」

「あ……ああ?」


 男は勢いに呑まれたまま頷く。

 博士は大きく息を吸い、すうっという呼吸の音だけが部屋を満たした。


「……信じられないかもしれませんが、あなたは最後の生き残りです」


 博士は一息で言った。

 男はきょとんとした顔を作ると、目を丸くして、それから顔を歪ませたが、それは笑っているようでもあった。最初はなにを言っているのか理解できていないようで、それから、じわじわと言葉の意味が男の身体を駆け巡っていく。


「あなただけが生きているんです」


 博士は再度言った。しばらくわなわなと震えていた男は、定まらない人差し指を博士に向けてようやく言った。


「……戦争でもあったか?人類は滅亡したのか?いや、でもあんた達が生きてるか」


 博士は表情ひとつ変えず、視線を床に落とした。


「おっしゃるとおりですが、訂正すると、人類ではなく、すべての生物が、です。人間だけではなく、動物だけではなく、植物からプランクトンに到るまで。微生物もごくわずかの例外を除いて。それにわれわれは人ではありません。バイオロイドです」


 男はハッとして口をパクパクさせた後、ようやく言葉を絞り出す。


「……バイオロイドって……」

「正確に言うといろいろ定義がありますが、わかり安く言えばロボット……アンドロイドの一種だと言えば……」


 男が博士の言葉を遮るように声を上げる。


「……じゃあ本当に……人類は……」

「生物は……です。植物も例外ではなく」


「……うわぁ!!!!!」


 男は雄叫びを上げた。博士はゆっくりと首を横に振る。

 いつかは伝えねばならないことだった。だが、このタイミングでよかったのだろうか?博士は自問した。男はベッドに上体を伏せると嗚咽を漏らし始めた。


「そんな……そんな……」


 博士は少し躊躇したが、手のひらを男の背中に当ててさすり始めた。男の背中が鳴き声とともに揺れる。

 突然、男は身体を起こした。


「ちょっと待て。俺はずっと食事をした。米やら麦やら肉やら、あれは何だ?」


 男は興奮したまま捲し立てた。博士は表情を抑制したまま答えた。


「あれはすべて我々が作り出した合成物です。炭素と水素と酸素と窒素と……その他必要な元素から……」

「あぁ……だからか……」


 博士の言葉をゆっくりと咀嚼した男は、虚脱したように背中を空に預けた。ベッドのパイプが背中に食い込み、男はもたれ掛かるようにして上半身を起こしたまま留めた。


「だから……食事が……力が」


 男は呆けたように言うと、そのまま目瞑った。博士は慌てて再び脈を取り、呼吸を確認した。

 男は生きている。ただ、脱力してしまっていた。虚脱と言うべきか。


「そうか、もう肉は食べられないのか……魚も、米も、野菜も……」


 うなだれたまま男はポツリと呟く。

 博士は機械的に作り出されたタンパク質の自身の脳に、直感を感じた。

 ああ、自分は勘違いをしていたのかもしれない。

 そして、悟った。

 この男は異常だと。

 天性なのか冬眠の後遺症なのかわからないが、博士が学んだ人類の道徳というやつにはまるで適合しない。生き物よりも食事の心配をする男。そして、バイオロイドである博士と同じ素材の食事をする男。

 この先、彼は博士たちの科学の粋を持ってして生かされるだろう。

 実際、やがて正気を取り戻した男は、ストレンジ博士によって様々な治療を受け、失意から立ち直った。

 けれども、もう男は二度と祈らなかったし、手のひらを合わすことはなかった。ただ、与えられた食事を作業のように口に運ぶだけだ。

 ストレンジ博士は人類の文化の深淵を覗き込む機会を失ってしまったのだった。

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最後の食卓 春成 源貴 @Yotarou2019

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