境界線
惣山沙樹
01
兄は僕より三つ年上だから、常に先を行ってしまう。僕が中学生になれば高校生。そして大学生。以前から一人暮らしをしたかったらしく、遠くのところを受け、合格した。
荷造りを手伝っている時、僕はすっかり顔に出ていたみたいで、兄が苦笑しながら頭を撫でてきた。
「もう、ユズ。二度と会えへんわけやないねんから」
「だって……ハルくん……」
「時々やったら遊びにきてもええよ。電車で一時間半や」
兄がいなくなった子供部屋は、途端に広く感じた。僕は二段ベッドの下の段にもぐりこんだ。兄が寝ていた場所だった。かすかに残る兄の匂いも、いずれ消えてしまうのだろう。
僕も四月から高校生になる。兄の後を追いたくて、必死に勉強して同じところに合格した。地域の公立校の中ではトップの進学校だ。早速課題が出ていて、入学するまでに終わらせねばならなかった。
生まれて初めて一人ぼっちで眠る夜、僕は耐えきれなくて泣いた。兄は当然のように一緒にいる存在だった。けれど、どこかで別々の人生を歩むことになる。そんなことくらい、わかっていたはずなのに。
課題を終わらせた僕は、兄の新居に行ってみることにした。入学式までには一度行ってみたかったのだ。長い時間、一人で電車に乗ったのは初めてだった。乗り換えをする必要があり、慎重に表示を見ながら歩いた。
改札口を出てキョロキョロしていると、ラフな白いパーカーを着た兄が手を振りながら近付いてきた。
「ユズぅ、よう来たな」
「ハルくん」
兄と並ぶと、身長差が嫌でも思い知らされた。兄は百八十センチはあるだろうか。僕は制服の採寸の時にはかったけど、ギリギリ百六十センチくらいだった。これからもそんなに伸びないと思う。
兄の住む学生向けのマンションは、駅から五分くらいのところにあった。
「古いけど、中は新しいで。さっ、こっち」
エレベーターで九階までのぼった。兄が鍵を開け、玄関に入ってみると、柑橘系の香りがした。
狭いキッチンを抜け、ワンルームに入ると、黒いソファとガラスのローテーブル、アイボリーのシーツがかけられたベッドがあった。
「コーヒー飲むやろ。ユズはソファに座っといて」
言われた通りにして、僕は香りの元はどこだろうと辺りを見回した。ベッドの側に黒いカラーボックスがあり、その上に円筒形の機械が置いてあった。蒸気が出ていた。
「ハルくん、これ何?」
「アロマディフューザー。ライトにもなるんやで」
兄はマグカップを二つローテーブルの上に置いて、僕の隣に座った。僕はリュックから包みを取り出した。
「これ、母さんに持たされた」
「おっ、クッキーやん。食べようや」
コーヒーとクッキーを堪能しながら、僕は改めて部屋にあるものを一つ一つ眺めた。
「カッコいい部屋やね」
「やろ? 安物ばっかりやけどな。見た目にはこだわった」
元の子供部屋は母のセンスで組まれていた。学習机が二つ並んでいて、兄と僕がベタベタ貼ったシールがそのままになっていた、幼い部屋だ。それとは丸っきり変わってしまった。
「なあ、ハルくん……なんで一人暮らししたかったん?」
「そりゃあ、自由になりたかったからな。友達とかできたら呼びたいし。インテリアも凝れるし。早く自立したかったんもあるよ」
「僕のことが嫌いやからとか、そんなんやないよな……」
「アホ。違うって。ユズはいつまでも俺の可愛い弟やで」
そうして頭を撫でてくれる大きな手が好きだ。それだけではない。大きな目も。広い背中も。そして何より、その優しさが。
本当は、行かないでとすがりついて引き戻したかった。いつまでも僕の側にいて。そう言いたかった。
兄は言った。
「バイトも目星つけてるねん。喫茶店にしようかなって。昔ながらのとこ。シフトの融通きくみたいやしな」
「そっかぁ……頑張ってな」
兄の世界はこれからどんどん広がるのだろう。実家に残っている弟のことなんて思い出さなくなるのかもしれない。それはきっと自然なことで、本当なら喜ばしいことで。
僕は、いい加減……兄離れをしなければいけないのに。
「夕飯作ったるわ。簡単なやつやったら一人でもできるんやで」
「ほんまに? 楽しみ」
狭いキッチンで、ぎこちない手付きで包丁を持つ兄を眺めた。正直ヒヤヒヤしてしまったが、黙っていた。兄は豚肉とタマネギを食べやすい大きさに切り、炒めた。
「ほい、豚の生姜焼」
米とインスタントの味噌汁もついた。僕は豚肉からかじりついた。
「うん……美味しい」
「よかったぁ」
その夜は兄の部屋に泊まった。シャワーを浴びた後、ベッドを使えと言われたけれど、僕はチビだからとソファに寝転がった。
「おやすみ、ハルくん」
「ん……おやすみ」
兄は寝付くのが早い。しばらくすると、すぅすぅと寝息が聞こえてきた。そんな息遣いを聞いていると、今まで通りに戻ったようだった。
しかし、僕は高校生活の不安に襲われた。届いた制服のサイズは問題なかったし、課題もできたし、そういった準備はできていた。あとは僕の気持ちだけ。
けれど、それが整わないまま、僕は入学式の日を迎えた。
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