第14話 少女
右大臣家への出立は、夕暮れ時だった。行光は武芸に秀でた舎人を数人用意し、自らも刀を
美緒も、久々の狩衣を身につけ、背には弓を負うて、東宮の乗る牛車の傍らをしずしずと歩いている。重く窮屈な女房装束から解放されたはいいものの、軽く風通しの良い狩衣は、不思議と無防備に思えた。女房装束もまた、鎧の
実は、犬の黒と猫の白が、東宮の牛車に同乗している。初めは美緒とともに牛車の隣を歩かせるつもりだったのだが、東宮が牛車の中でもよい、と言い出したのだ。また、右大臣家についてからは、東宮の装束の中に隠れることになった。
「あの…… よいのですか?式神ゆえ黒と白は小さくなることができますが、東宮様の懐に入れていただくのは少し、いやかなり恐れ多いというか……」
美緒が恐る恐る聴くと、東宮はむしろ上機嫌で、試しに小さくなって文机の上で遊んでいる黒と白に自らの指をけしかけながら、
「いやあ、かわいいものだなあ。このように賢く、いざとなればわたしを助けてくれるなど、ありがたい限りだ。しかしかわいいなあ……」
と、目を細めている。
行光は小声で、
「牛車でのご移動は退屈でお嫌いですから、東宮様は嬉しいのですよ」
と美緒に耳打ちした。確かに美緒も慣れない牛車での移動の時には、緊張を黒と白に慰めてもらったのだった。東宮ともなれば、自ら望んでも歩いて移動などできないのだろう。
右大臣家に到着すると、すぐに主の右大臣が出迎えた。右大臣は大きな声でにこにこと東宮に話しかける。
「これはこれは東宮様、我が家を方違えの立ち寄り先に選んでいただいて、恐縮でございます。ささ、こちらにお部屋を用意しております。この度は、乳母殿がご心配でしょう……」
その背後に、行光に聞いた通りの僧形の
黒と白のことは、お見通しか、と美緒は思った。見透かされることはあらかじめ考えていたので動揺はしなかった。が、式神の気配を消すために美緒がかけた術を破れる程度には腕の良い陰陽法師だということだ。
東宮は庭が見渡せる南殿の部屋に通された。舎人たちは部屋の外や庭に面した廊下に立ち、目を光らせている。行光も部屋のすぐ外に座して、寝ずの番をする手筈だ。外はとっぷりと日が暮れ、明かりなしでは数歩先もおぼつかない。
美緒も部屋の外を見てこようとすると、東宮に引き留められた。
「美緒殿、右大臣とあの法師をどう思った?」
「あの法師はかなりの術を使えると見てよいでしょう。黒と白を連れていることも、すぐ見抜かれましたし、わたしが陰陽師であることも、わかっている様子です。右大臣様は、あまりおかしなところはないように見受けられましたが——」
「いや、右大臣はわたしが知っているかつての右大臣とは、様子が違うように思う。
かつて、わたしが東宮になる前に、弟宮を東宮にと望んでいた頃の右大臣は、もっと厳格な、あるいはどこか暗いところのある男だった。
だが、華奈との婚姻がまとまり、輿入れの夜に会った時には、あのように妙に明るくなって——」
美緒は首を傾げた。
「東宮様に娘を嫁がせ、縁ができたのですから、態度が変わるのは不思議ではないのではないですか?」
「いや、そうではないのだ。とにかく、心根がまったく変わってしまったような、不気味な……」
その時、遠くから
外で、舎人や行光たちがざわつき出した。御簾越しに、行光が部屋の中に声をかける。
「東宮様、奇妙です。童の声は聞こえども、姿がまったく見えません」
そんな馬鹿な、と美緒は思った。こんなにも近づいてきているのに、姿が見えないということがあるだろうか。また、右大臣家の誰も、この童を探したり追いかけたりしていないのか。
「母さま…… どこですか…… 助けて…… ここは暗い…… 恐ろしい……」
声の主は、少女であるようだった。だんだんと、少女が言っていることがはっきりと聞き取れるようになってきた。
「母さま…… どこ……? 華奈を置いていかれたの?」
それを聞いて、東宮が呟いた。
「華奈……?」
その時、御簾の向こうにくっきりと少女の影が浮かび、その顔がこちらを向いたことがわかった。美緒は反射的に東宮の前に進み出て、片膝で立ちながらいつでも術を使えるように身構えた。だが、その時、東宮は美緒を抱きしめるようにして抑えこんだ。
「……え?」
美緒は戸惑った。すぐそこに人ならぬものがいるというのに、なぜ東宮は自分を抑えたのか。しかし、思っていたよりも東宮の力は強く、簡単には振り払えない。
美緒をぎゅっと抱いたまま、東宮は御簾の向こうの影に向かって語りかけた。
「そなたは華奈姫かね?」
御簾の向こうの影が答える。
「華奈を知っているの? 華奈のお母さまを知らない? 強くてやさしくてうつくしいお母さま。華奈を助けに来てくれるって約束したのに」
影は、すすり泣き、怯えた声で答える。
「お父さまが、華奈を捕まえて、閉じ込めてしまったの。怖いものから守るって。でも、ここが一番恐ろしいの。お母さま、お母さま——」
その時、遠くでバチンと音がして、たちまちに少女の影は消えた。
東宮も、美緒も茫然として身動きが出来なかった。
時がたち、だんだんと冷静になった美緒は、今度は別の理由で混乱し始めた。東宮にしっかりと抱きしめられて、その体温が身体じゅうに伝わり、息遣いもすぐそばで聞こえる。顔が真っ赤になるのが自分でもわかり、手に変な汗をかき始めた。心臓は聞いたことのない速さで脈打っている。
これは、これではまるで——恋人みたいではないか。
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