第2話 淑女の嗜み
「いたたたたた、痛いよ! エマ」
私の後ろで懸命にコルセットを締め上げるメイド長のエマニエルこと、エマ。
エマは、私が生まれた時からずっとそばにいる乳母的な存在である。
メイド長という忙しい身の上にも関わらず、私の身の回りのお世話は欠かせない。
しかし、遠慮が全くないのもどうかと思う。
他のメイドや使用人たちは私に対して無駄口を叩くなんてことはないけれど、エマはいつも私にだけズケズケとものを言う。
顔を合わせば小言ばかりだし、お菓子をつまみ食いをしようとすると馬鞭のようなもので叩いて来るし、主人である侯爵家の令嬢に対してとる態度とは思えない。
年齢も実母より一回り上で、丸眼鏡の下の鋭い目と長身で細身。
神経質な性格が外見にも表れたような姿をしている。
出来れば私の専属メイドは、同じ年頃の優しく話を聞いてくれる可愛い女の子が良かったのに、それすら叶わないとは……。
今も肋骨の何本か折れそうな勢いでドレッサーの机に足をかけて、コルセットの紐を締め上げている。
「我慢ですよ、エリザ様! 乙女のお洒落は我慢と辛抱です!」
エマは引っ張ることに必死過ぎて、声が微かに霞んでいる。
「我慢なんてするぐらいなら、お洒落なんてしたくないよ!」
私が涙目で訴えるが、エマの手は緩めることをしない。
このままだとマジで絞殺されると思った。
コルセットで圧死とか、格好悪すぎでしょ。
「そう言う問題ではございません。あなたは侯爵家の娘で、しかもウィリアム王子の婚約者なのですよ。そんな方がお洒落に手を抜くなんてこと許されるはずがないじゃありませんか」
エマはそう言いながら、紐を括った。
私はやっと終わったかと大きく息をつく。
だけどやっぱり苦しいことには変わらない。
今度は腰にポケットを装着しながら、エマは更に言葉を付け加えた。
「いいですか、エリザ様。あなたは侯爵家として多くの者から注目される存在。あなたのような人間がこの時代のファッションリーダーとしてそれ相応の格好をしないでどうするのですか。時好とは上級貴族がもたらすものなのですよ」
この世界のファッションになんて興味はない。
ああ、Tシャツとスウェットパンツが恋しい。
服装なんて、気候に合わせて動きやすく、着やすいものが一番だ。
この世界の貴族の、特に女性の服装は重ねて着るものが多く、着替えるのにも時間がかかるは、動きづらいは、不便でしかない。
これが最先端の流行とかぬかしているけど、全然合理的じゃない。
無駄な装飾も多いし、スカートを膨らませるためだけに針金の入った重いパニエを着るなんて気が知れない。
せめて一番のストレスの根源であるコルセットだけでも辞めたい。
胸を潰して、腰を細く見せるなんてナンセンスだ!
私はエマの指示でスカートをかぶりながら、提案した。
「ねぇ、せめてコルセットだけでもどうにかならない? これがあると何かと不便だし」
そういうとエマは私を睨みつけ、はっきりと言った。
「なりません!」
まぁ、そうなるわなとは思っていた。
「女性の美とは腰が細く、ヒップが出ている姿を言うのです。それに胸を押し上げ、たおやかな胸と谷間を見せることで女性らしさを表現しているのです」
なぜそんなことが必要なのか私には理解できない。
そもそも私には既に最上級の婚約者がいるのだから、殿方を魅了するようなドレスなど必要ないと思うけど。
これは単なる貴族の見栄というものではないのか?
その時、私はふとあるアイディアが浮かんだ。
着づらいなら着やすくすればいいじゃない!
私は名案だと思い、エマに笑顔で自分の頭に浮かんだアイディアを話した。
「そうよ! ドレスに全部くっつけてしまえばいい。そうすれば余計な布を使わなくていいし、着替えさせる時間も短縮できる。毎日、ドレスを着るために何時間も早く起きるのはもう嫌。もっと効率よくいきましょう!」
それを聞いた瞬間、エマはとんでもないものでも見たような顔で言った。
「何を言っているのです! そんな全てを付けてしまうなど懈怠な考え、どこから湧いてくるのですか? 身だしなみに時間をかけることはどこの貴婦人でもしていることですよ。それが女の嗜みというもの。そんな馬鹿々々しい考えなどせず、お嬢様はもっと淑女たる心得の何たるかを学ぶべきです」
『淑女』ねと、私は心の中で笑う。
エマは何かとつけて、『淑女たるは』と話になる。
どうして女性をそんな決め事で縛りつけたいのか意味が分からない。
「エマは頭が固いのよ。これからはもっと頭を柔軟に使わなきゃ。その方がよっぽど流行についていけると思うけど?」
頭が固いと言われ、ショックだったのか一瞬固まるエマ。
悔しいのかキリキリと歯ぎしりしながら、私に言った。
「エリザ様! あなたは余計な事を考えず、周りの教えを素直にお聞きなさい。ただでさえあなたは雑念が多いのですから、奇抜な発言は避け、従順に振舞うのです。それにその話し方。いつも言っているでしょう。淑女らしい話し方をなさいと!」
また出たよと心の中で悪態をついた。
淑女らしい言葉遣い、淑女らしい身の振舞い、淑女らしい配意。
そんな偽りだらけの自分で生活しろなんて拷問に近いものがある。
どうしてもっと自分に正直に生きられないのか。
私は物心がついた頃から前世の記憶があって、自我のようなものが既に芽生えていた。
だから、急にこうしろ、ああしろと前世の時にしてこなかったことを強要されても正直、困るのだ。
時間をかけて訓練してきたのだから、それなりの作法や技術は身についている。
淑女の心配りってやつも理解している。
けれど、心まで貴族社会の思想に染まるわけではない。
もし私が前世の記憶なんてなくて、もっと従順な素直な子供だったら疑いもしなかっただろう。
しかし、残念ながらそのエマの理想を叶えてあげられそうにはない。
「あ、わかった!」
私はその場で手を叩いて新たなる提案を口にした。
着付けが終わりかけていた頃に、私は足置き台に足を乗せ、スカートを捲し上げ、太ももをちらりと見せつけた。
この世界の靴下はストッキングと呼ばれていても実質ニーハイソックスと同じで絶対領域が存在するのだ。
「このチラリズムで王子を誘惑するのはどう? きっと王子も喜ぶよ!」
それを見た瞬間、ショックが大きかったのかエマはフラフラと後退って真っ青な顔をしていた。
そして、腹の底から出したような大きな声で怒鳴りつけた。
「なんてはしたないっ!!」
そこまで怒ることでもないだろうにと思いながらも、私は私の言葉で一句一優するエマを見るのが楽しかった。
実母である母は私には全く関心がなかった。
口うるさくても私にとってこの世界の母は、やはりエマだけだ。
今日は午後から王子の茶会に招かれている。
そのために今日はいつも以上に気合の入った服装をしているし、エマも気を張っているのかもしれない。
髪を整えますとエマはドレッサーの椅子を引き、私をそこへ座らせた。
そして、その長い髪を優しく手に取り、丁寧に櫛でといていく。
髪も随分伸びたから管理もヘアセットも毎日大変だ。
それでもエマは毎朝欠かさずセットし、毎晩の手入れも忘れない。
言動がもう少し優しかったらとは思うけれど、これもエマなりの精一杯の愛情を私に注いでくれているのだろう。
髪を整え終えたころ、エマは私の名前を呼んだ。
「エリザ様」
私は軽く振り返って、返事をする。
「何?」
彼女の手には私の髪色に合わせたウィッグ、つまりカツラが持たれていた。
「今日こそはこちらをお付けになって、お出かけされてはいかがですか?」
私は苦い顔をして答える。
「絶対にイヤ!」
髪にボリュームを付け、豪華に見せるために婦人が活用するものらしいが、私は絶対にかぶらないと決めていた。
物語に登場する令嬢の毛量が明らかに多いと思ったら、あれはズラだったのかとこちらに来て初めて気づかされた。
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