あなたの声で牛になる
山田古形
あなたの声で牛になる
「かなえ先輩、アメリカバイソンの鳴き真似してもらっていいですか」
イーゼルの向こうでユキちゃんが言った。
私は両手を体の前で重ねたポーズを保ちながら、ふうと息を吐いた。ユキちゃんの鳴き真似リクエストは今朝からすでに八回目だ。それもホルスタインとかテキサスロングホーンとか牛ばかり。いくら私が今、ジャージー牛を模した被り物を頭に被っているからって、何度もモォーやブォーと言わせないでほしい。
「お願いします」
ユキちゃんが重ねて言った。被り物越しの耳にもはっきりと、透明な雫みたいに澄んだ声が届く。
私は反射的にきゅっと唇をすぼめた。ユキちゃんの声はいつだってきれいで、どんな頼み事も聞いてしまいそうになる。たとえそれがアメリカバイソンの鳴き真似だったとしても。
小さく息を吸う。前に動画で見聞きしたアメリカバイソンの姿と声を頭の中に響かせる。喉やお腹の辺りをぐねぐね動かして、私は体の奥から押し出すように声を発した。
「ブオォ、グォ、ブォーッ」
「おーっ」
ユキちゃんは歓声を上げて、ぱたぱたと手を打ち鳴らした。
「先輩ってほんと、動物の鳴き真似上手いですね」
からかっているのか本気なのか、感心した調子でユキちゃんが言う。褒められるとかえって恥ずかしい。頬や耳がじんわり熱を帯びて、元々暑苦しい被り物の内側が余計に暑い気がした。
「もう、いい加減にして。絵は描けたの?」
「あとちょっとです」
そう言ってユキちゃんは静かになった。キャンバスと向き合って筆を動かす様子が、被り物の狭い視界を通して辛うじて見える。笑点のテーマ曲を小粋に吹き鳴らすトランペットの音が遠くから微かに聞こえた。
夏休み中の美術室には私たちしかいない。美術部の展示に出す絵を描くからと、ユキちゃんは私に牛の被り物を被るよう頼んできた。既製品じゃなく自分で作ったらしい。全体としてはけっこうよくできていたけど、細かい造形や塗装がところどころ雑で、多分作っている途中で飽きたんだろう。
どういう絵を描くつもりなのか、ユキちゃんはいつも前もって教えてくれないけど、そのくせ私をモデルにしたがる。できあがった絵を見ると、私に取らせたポーズと全然違う姿が描いてあったり、そもそも人物のいない絵に仕上がっていたり、途中で飽きてカブトガニのラクガキしか描いてなかったり、「モデルの意味ある?」と呆れることも多い。
それでもユキちゃんは私にモデルを頼む。私はそれを断りきれない。断ろうと試みることもあるけど、水辺の妖精がささやくような、きれいで涼やかな声で「お願いします」と頼まれると、結局は言われるがままに流されてしまう。
額に汗の気配を感じながら、ずり落ちそうになる腕に力を込めた。こまめに休憩を挟んではいるけど、そろそろ疲れが溜まってきている。被り物は暑苦しいし、何故かミルクプリンの匂いもするし、早く脱いでしまいたい。できれば九回目の鳴き真似を求められる前に。
「先輩、スイギュウの鳴き真似してもらっていいですか」
私の望みは十秒で砕けた。
ごくごくと喉を鳴らして、ペットボトルから体内へ冷たいメロンソーダを流し込む。波立つような炭酸の感覚が口の中を通り過ぎていった。
白塗りの壁を背もたれにして、私は角ばった木の椅子にだらりと座っていた。机に置いたジャージー牛の被り物が眠たそうな視線をこちらに向けている。
ユキちゃんが椅子を持ってきて、私の隣にぴったりとくっつけた。
「一口いいですか?」
椅子に腰を下ろしながらユキちゃんが言った。
私は半分ほど中身の残ったペットボトルを手渡した。元々ユキちゃんが買ってくれたものだし構わないけど、炭酸飲料は苦手だと前に言っていた気がする。
ユキちゃんの唇が飲み口に触れて、鮮やかな緑色の水面が傾いた。
「んー」
気の抜けた声を上げて、ユキちゃんはすぐにペットボトルを返してきた。
「やっぱり苦手なんだ」
私が言うと、ユキちゃんはがっかりしたように吐息をこぼした。
「先輩が飲んでると、おいしそうに見えるんですけど」
「おいしいよ」
「おいしくないです」
おいしい、おいしくない、と私たちは不毛な水掛け論を何往復か続けた。大して意味もないやり取りだけど、ユキちゃんの声は耳元で泡みたいに弾けて、何でもない言葉も心地いい。ついでとばかりに指先で私の脇腹をつつき始めたのは心地よくないけど。
「絵はできた?」
ペットボトルで脇腹を守りながら私は尋ねた。ユキちゃんはペットボトルのデコボコしたところを指で弾いて、「んー、まあ」と曖昧な返事をした。
二つくっついた椅子の上を滑るようにユキちゃんが身を寄せてきた。体がこちら側の椅子に大きくはみ出している。押し出されたペットボトルが脇腹に食い込んで、私は「ぐえ」とうめいた。
慌ててペットボトルを引っぱり出すと、ユキちゃんは更に距離を縮めてきた。「今度はおしくらまんじゅう?」と笑って押し返そうとして、ユキちゃんが思い詰めたようなこわばった表情をしていることに気づく。こんな顔を見るのは、喫茶店で頼んだチーズケーキが店先の食品サンプルの三倍以上大きかった時以来だ。
「絵のことなんですけど」
少しの沈黙の後、ユキちゃんが切り出した。
「今日のやつ以外にも、夏休みの間に描きたい絵があって。モデルをお願いしたいんです」
ユキちゃんは早口に言った。それから半拍置いて、小さく「毎日」と付け足した。
私はペチペチとペットボトルの表面を指でつつき、パチパチと意味もなく何度も瞬きをして、パカパカと口を開いて「毎日?」とオウム返しに聞き返した。
「休みが終わるまで毎日、絵のモデルになってください」
「そっ、それはさすがに」
私は首を左右に振った。夏休みはまだ二週間以上残っている。友達や家族との予定もあるし、数ヶ月後に待つ大学受験のために勉強もしておきたい。
「毎日はちょっと無理だよ」
「じゃあ、できるだけたくさん」
お願いします、とユキちゃんは私を見つめた。目に映るまっすぐなまなざしが、耳に届く透き通った声が、真剣で切実な色彩をまとっていた。
唇をきゅっとすぼめる。メロンソーダを飲んだばかりなのに、やけに喉が乾いて仕方ない。「断る」という選択肢が、思考の土俵からじりじりと押し出され始めた。
「今のうちに描いておきたいんです。受験だ卒業だって忙しくなる前に」
「でも、絵のモデルだったら別に、私じゃなくても」
「先輩じゃないと変なこと頼めませんから。被り物とか」
「ちょっと、そんな理由なの?」
大げさに声を荒げると、ユキちゃんは真剣な顔つきを崩して、くすくすと笑い声を上げた。水滴が跳ねるような軽やかな音色につられて、私の喉からも可笑しさの混じった吐息がこぼれる。
「もう、ふふ、ひどいんだから」
「それだけじゃないですよ」
弾んだ息づかいを収めて、ユキちゃんは言葉を継いだ。
「先輩を見て絵を描くの、楽しいんです」
「魅力的なモデルってことかな」
冗談のつもりで言うと、ユキちゃんは思いのほか本気そうに「そうかも」と頷いた。まともに反応されると恥ずかしくて、顔中がちりちりと熱くなる。
「なで気味の肩の輪郭とか、小さくて丸っこい膝頭とか、ずれかけたポーズをこっそり戻す仕草とか、休憩に入った時のぽけーっとした表情とか……先輩をずっと見てると、不思議なくらい気分が乗って、筆がすいすい動くんです。すいすい動きすぎて予定と違う絵になる時もありますけど。あ、今日のは予定通り描けましたよ。ばっちり牛の頭です」
「そ、そう、なんだ」
私はしどろもどろに相槌を打った。さらさらと続く言葉が照れくさくて、余計に顔の温度が上がる。冷やそうと頬に当てたペットボトルがあっという間にぬるくなっていく気がした。
すっとユキちゃんが顔を寄せてきた。深い色をした瞳がまっすぐ私を捉える。私は手を滑らせて、落ちたペットボトルが膝に直撃した。
「無理を言ってごめんなさい。だけど、描ける間に描きたいんです、先輩のこと」
「あの、えっと、ユキちゃん――」
「お願いします」
ユキちゃんの口元がゆっくりと動いて見えた。透明な雫みたいに澄んだ声に、ためらいのような、ひたむきのような、はにかみのような、そのどれでもないようなものが混ざって、水飴のようにとろりと、私の耳に流れ込んでくる。
気づくと私は口を開いていた。何か返事をした気がするけど、感覚も思考も水飴の中に沈んで、何を言ったのか自分でも分からない。
ユキちゃんが目を見開いて、驚いたような顔をした。「やっぱり毎日でいいよ」とか、「被り物でも何でもどんと来い」とか、「ブオォ、グォ、ブォーッ」とか、おかしなことを口走ってしまったのかもしれない。
まあ、でも、いっか。
花咲くような笑顔へと移り変わっていくユキちゃんの表情を、曖昧にゆらめく視界越しに見つめながら、私もそっと口元を綻ばせた。
夏休みの終わりまで、私はほとんど毎日のようにユキちゃんの絵のモデルを務めた。
指定されたポーズを取ったり、鳥獣戯画のカエルを模したお面を着けたり、描きかけの絵を放って水族館に連れていかれたり、そこで見たアデリーペンギンの鳴き真似をせがまれたりしながら、目まぐるしく日々は過ぎていった。
できあがった絵は何枚もあったけど、ユキちゃんは最初の予定通り、私がジャージー牛を被った時の絵を部活の展示に出すつもりのようだった。
絵には牛の頭と人の体を持った人物が描かれていて、両手を体の前で重ねた姿勢を取っている。モデルをした時にも思ったけど、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」そっくりのポーズだ。
ユキちゃんはその絵に「模倣された表象」というタイトルをつけた。奥深い題名だと顧問の先生は感心していたけど、私はユキちゃんに耳打ちされて本当のタイトルを知った。
「『モォーナ・リザ』です。牛だけに」
朝露のように淡くきらめく声で、ユキちゃんはしょうもない種明かしをささやいた。
内容はくだらないのに、耳をくすぐる音色はどきどきするほどきれいだった。その落差が可笑しくて、私は弾けるように笑い声を上げた。
「こういうの、思いつくと描きたくなっちゃって。似たようなアイデアが他にもあるんですけど――」
かなえ先輩、とユキちゃんが私の名前を呼ぶ。
その先に続く言葉も、その言葉を自分が拒まないことも、私はもう分かっている気がした。
あなたの声で牛になる 山田古形 @yamadakokei
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