鬼だった強者のワタシは人間なんかに転生して弱者に生まれ変わりました

@smiler

第1話:「鬼生さよなら」

絶望する人間ニンゲンの表情が好きだ。




人間は死の境地へと苛まれると、恐怖をその身に顕にする。


命乞いなどという何とも無様な醜態を晒す、人間の愚かな姿がたまらない。


ワタシはミラ。どこにでもいるような平凡な一匹の鬼。



近頃は、夜になるに連れて人の地へと顔を出し、一家を他の家々から選び出すと、その世帯の人間を蹂躙することにハマっている。



日の出ている刻限では人気ひとけの余すことなく賑わいを見せても、小夜にもなれば街並みからそんな感も失せ、静けさを呼ぶ。


そんな時刻こそ、我々鬼という者が活動するのに何かと都合の良い、絶好の機会である。



今宵も人間をつかった強者の遊戯を堪能しようと、下界へとやって来た。




―――いつものように。



 しかし、今日この日がミラの運命を変える人生最大の分岐点になることをこの時ミラは知らなかった。








「ミラ、今日はどの家にする?」



こちらに目を向けたミラとは違った鬼の顔に、宵の落陽がフェードアウトする。



そうさも愉し気に語り掛けてきたのは、ミラと二百年の長い付き合いのあるセシルだ。


セシルは鬼の中でも赫々たる優等な鬼だが、何故だか正反対ともいえるミラのことを慕っている。




容貌に関しても異なる特徴を備えていた二匹。

ミラはガサツな紅の髪に薄ピンク色の体色。

一方セシルは対照的な青色の艶のある髪に黒色の肌。



そして、二匹とも人肌とは異なる硬質な肌に身を包んでいた。


加えて一際見た者に強く印象付けるのは、なんと言っても、前頭部からスラリと伸びた二本の大層立派なツノである。 

  

たくましくも生やした角は、彼らが鬼であることを示す象徴ともいえる代物だった。



二匹は夜になるといつも決まった山頂へと立ち、その高所から高みの見物が如く、静寂になりつつある人間の街並み広がる夕闇を見下ろす。



「ううん…そうだなぁ」

ミラは眼下に広がる街並みを眺める。



「決めた!セシル、あの家はどうだい?」


ミラは人間たちが住む家から連鎖的に家明かりが消えていく中、その一角にまだ部屋明かりが灯っている一軒の家を指差した。


その家の窓からは、人間の年齢でいうところの2,3歳ほどの子供が見える。



ミラは長い経験から幼年の人間の方が特に興味深い反応を示すことを知っていた。


「いいね」セシルもその意図を察したらしくそれに賛同した。



二匹は山から一気に飛び降りて、ミラが先程指し示した家の前に立つ。


表札には”石松’と書かれていた。

 


ミラは優れた脚力で跳び上がり、その家の二階に当たる窓枠に爪を引っ掛けて乗り上げる。

それに続いてセシルも―――。



腕力で身体を支え、窓を地にした状態で、

ミラは窓を一度強く蹴り上げると、その勢いで窓ガラスを破って部屋内へと大胆にも侵入する。



ガラスが硬質な音を立てて割れ、床にガラス片が木の葉のように散る。



中には遠目で窓から垣間見えた小さい子供と、その子供より少し大きい子供の二人が、唖然とした表情を浮かべながらこちらを怪訝に見つめていた。



小さい方の子供は、"桃と鬼の描かれた絵本'を手にし、大きい子供の方は一方の子供を何故か庇うかのようにして左手を横に広げていた。



「何だお前らは!?」




暫しの沈黙の後そう大声で叫んだ、ミラたちを炯々けいけいとした眼光で捉える大きい子供の方を、ミラは二人のうちの兄だろうと推測した。



その兄の子供の頬からは、今しがたミラが粉砕したガラスの破片によって、ツーッと線を引くように傷が現れ、そこから赤が滲んでいた。


微かな痛みと僅かに滲みる風の通気を感じてか、右頬を手で押さえる。



ミラはよこしまな笑みを浮かべ、その子供へと歩み寄る。


それに連れて、兄の子供は小さい方の子を引いて、尻を地に据えながら、後退る。


"背を向けてはいけない'


獲物でもそれくらい勘づいたのだろう。


ミラが迫り子らが後退る。


それは同時に、そして同じ移動距離で行われたので、相互の間隔は遠のきも近づきもしなかった。


迫る。後退る。迫る。後退る。


しかし、そんな茶番も終わりを告げようとしていた。


ミラはクスリと悪戯に微笑む。


何故なら、ミラと子供らの距離が近づかなくとも、その子供らと彼らの背にある壁が近づいていたから。


そこで必然的に無用な追いかけっこは終わった。



追い詰められ、逃げ場を失った獲物へと辿り着いた補助たるミラは、兄の子供の顔から滴る血を舐めた。



その瞬間、口に甘味が広がる。


賞味された兄の子供は身体を小刻みに微動させ始める。


その傍らにいる小さい子供の方はというと、幼いながら特に怯える様子を見せておらず、ただミラをずっと見つめているだけで、むしろ兄の方が恐怖に慄いていた。 


自分が危険に晒されているのを分かっていなのだとミラは思った。その点、兄は状況を理解できているからこそ、そこに恐れを抱いていのだろう。


顔はみるみるうちに蒼く染まっていき、恐怖を顕にする。


期待していた表情が見られ、ミラの心は増々そそられる。


そしてそんな姿がまた、晩餐の良きスパイスとなる。



「う〜ん♪美味♥」


ミラは思わず舌鼓を打って、すぐに子供の芳醇な至高の味わいの虜となるのだった。


「やっぱり人間の子供の味は格別だなぁ」



「ミラだけずるいよぉ。ボクにも分けてよ」

とセシルが口を挟む。


セシルは獲物を半分にしようと言ってきたが、半分と言われると何だか損をしたような感じがするので嫌だ。


ミラは顎に手を当て、少し考えてから掌を拳でポンと打って答えた。


「分かった。じゃあこうしよう。人間の子供は二人いるんだ。それぞれ一人ずつで分けようじゃないか」



ミラは名案を思いついたつもりで自信げに言ったが、実際この提案は一見合理的に思えても、些か妥当性に欠けるものであった。


何故なら、分けるものの品格が、"量と質'という食材において極めて普遍的な観点に置いてまるで相違していたからだ。


「別にいいけど、じゃあどっちがどっちにするの?」


ミラの意向を先に伺おうとセシルは態態尋ねたのだが……


「じゃあワタシは大きい方にするから、セシルは小さい方ね」


ミラは独りよがりにも自分に都合よく事を運ぼうと、セシルの言い分を聞きもせずにそう言ってのける。


 


――――人間は若年層謂わば若ければ若いほど、新鮮で良質な味わいを示す。


だがこれは一概には言えず当然例外もある。


低年齢でもさほど好ましくない味の者もいれば、

壮年でも良き味を堪能させる者もいる。


 


食事を取る上で美味しいことは最もだが、鬼の空腹を満たすには量が必要と判断したミラは、兄の方を選定した。



「まったくミラは欲張りだなだぁ」セシルはからかうように言った。


「うるさい。ワタシは腹ペコなんだ。今朝から何も食べていないからな!」


「でもボク達鬼は人間と違ってそんなに頻繁に食事を取る必要がないだろう?ミラが大食いなだけだよ」


セシルが笑い混じりに言ったのだが、ミラは少し気に食わなかった。


加えて、セシルの言い分は事実に基づいているというのがまた癪に障ったのだろう。


ご立腹のミラは言い返したくなったようで…


「そういうセシルは好き嫌いも多いし、いつも食にこだわって面倒くさいよな」


「そういうの人間の言葉で何て言うか知ってるか?…たしか…ええと…何ていうんだっけ?」


ミラは自分で言い出しておいて、セシルに尋ねた。




「"美食家'でしょ?」セシルが自慢げに答える。



「そう、それだ!」


元の憤りはどこへやら…




「まぁボクがグルメだって言うのは否定するつもりはないよ。舌の肥えたボクを満足させてもらわないと困る」


「でも絶対食事は質より量のほうが大事だ!」



「そうかなぁ。ボクは量より質だと思うけど」


この点に関しては、二匹の意見は相違していた。



二匹がすっかり夢中になって、そんな質と量を巡った小競り合いしているすきに、一階、そして外へと繋がる部屋のドアへと、兄の方は弟の手を引き、ミラらを伺いながら忍び寄っていた。


「ちょっと待った!!逃さないよ?」


しかし、既のところでセシルが気付き、そのドアと子を隔てるように立ち塞がった。


彼は悔しそうにセシルを睨みつける。


「おいミラ。ボクが気付かなかったら逃げられるところだったじゃないか」


「なら早く喰っちまおう!」


「そうだね。ミラの言ったようにボクは小さい方で良いから早いとこ頂こう」



そう言って、ミラとセシルはそれぞれの獲物に迫る。



その時だった。



「ママァ!!」


今の今まで大人しくしていた幼き子供が、ミラを見て叫んだのだった。


「なに!?…一体どうしたっていうの?!!」


子の言葉に呼応するように、先程まで微塵も音のしてこなかった下の方から不安を纏った誰かの声が返ってくる。



ドアが閉ざされていても、届くいてくるほどの大きな声が。


「やっぱり下にも人間がいたみたいだな」


セシルは承知の上のだったらしい。



恐らく今の一声で、一階で寝ていた親が目を覚ましてしまったのだろう。



どの道すぐ子の窮地を察した両親が、此処2かいへと駆けつけてくる。


とはいえ、いくら数が増えようが、大人が来ようが

鬼のミラ達に何ら問題は無かった。


  

所詮人間の微弱な抵抗は、我々鬼たちに何ら脅威とはなりえない。


それはミラの数百の経験上、未だかつて打破されなかった不変的な事実が物語っていた。


かくして、ミラは微温湯に浸かったような心持ちでいた。(そんな長い歳月による固定観念と、その中でこしらえた油断こそが、この後の想定外を予期できなかった素因となったのだろう。)


 

但し、そんな中で、唯一最深の注意を払わなくてはならないのは、"鬼ヶ島のルール'だった。



「ミラ、分かってるだろうな?人間は一人も逃がすなよ?」そうセシルが釘を刺す。


「そんなの分かってるさ。でないと、鬼神様に怒られる」


   

それは、鬼たちの故郷ふるさとである鬼ヶ島で生まれ育った全員の鬼が厳守させられる、鬼神の言伝ことづてである。


その中には、"人間に鬼の存在がバレてはならない'という決まりがあった。


これは昔から言い伝えられており、当然鬼であるミラたちにもこれを律する責務がある。



そのためミラたちは、これに則って鬼の姿を見た人間はひとり残らず即刻殺すことを委ねられている。



我が身を見た者が死せず、他言して鬼の存在が露見することだけは避けねばならなかった。


「だったら、全員殺せばいいだけだろう?」 

ミラはまるで無慈悲且つ冷徹に言った。



そうこう談話してるうちに、下の方からここ、上の方へ規則的なリズム、それでいて些少ズレの生じている調子で迫ってくる音があった。


その階段を駆け上がってくる跫音からは、満点の焦燥感を漂わせていることを、秘匿すること無く明け透けに示していた。


力強い勢いでドアが開かれる。


鬼の食事会に乱入してきたのは、ひとりの女だった。


「こいつらの母親か?」


そんな溢れたセシルの言動に応えるように彼女は行動を示したと言えよう。もっとも、本人らはそうさせるほどのワケを真に知り得ぬだろうが。



「どうして…母さんが?」と長男は地へと降下するような調子でぼそっと呟く。


ミラたちと面と向かった母親の人間は突然奇声を上げると、セシルの方へ(↺次男の方へ)無謀にも突っ込んできた。


未知の存在を前にして、自己犠牲的な猛威を振るって飛び込んだというのは、無謀と言えるだろう。



しかし、無謀と果敢は紙一重。



例え僅かでも子の逃げるいとまの時間稼ぎあための行為。


そんな彼女が取った行動は誰もが傍から見ても、言わずもがな"母親'だったはずだ。


鬼という強大な捕食者に対しては実に非力な腕力を働かせ、セシルに組かかった。


そしてただ一声「逃げて!」と叫んだのだった。

後はひたすらに大声で叫び続けた。


「何なんだこの女!?」


セシルはそう言って女に掴まれた腕を振り払った。



ミラの目からは、普段冷静でいるセシルがこの時だけは動揺しているように見えた。


ひ弱ながら勇ましいアウラを放っている彼女に動揺したのろうか。


そしてセシルはその母親の腹部に強い打撃を喰らわせた。


「ヴゥッ!」



蛙のひしゃげた声のような、女性の声帯にしてはやたらと低い声を上げて、そのまま地面によろよろと倒れる。


それから彼女は一切の一挙一動を見せはしなかった。


鬼の重い打撃は、人間の肋骨を軽く粉砕し内蔵を破裂させ、彼女を死に至らしめるのに優に足るものである。



この家の女親をセシルが今、亡き者に変えたのだった。


「母さん!?…お前!よくも母さんを!!」


色の失った亡き母の姿を目前にした長男は、顔面蒼白の状態で激昂し、今しがた母の命を奪った鬼であるセシルの元へ繊弱なくせに突進しようとした。


しかしミラの捕食対象だったために、長男の子供はセシルと母の元までより近場にいたミラに首根っこを掴まれ、そのまま羽交い締めで抑え込まれる。


「クソッ!離せ!離しやがれ化け物が!」

抑えられた子供はジタバタと暴れる。

 

この直後、ミラに眠る悪戯好きの思考が頭をよぎったのは否定できない。



「化け物?…それは心外だな。ワタシたちは鬼だよ」

ミラは子の耳元でそう囁くと、その細々とした喉頸に手を掛けた。



そして、そのまま片手だけで子の首を力いっぱいに締めた。


それまで地についていた足が宙へと浮く。



狭められる呼吸器官に子はえずく。



先程からのミラの手を振りほどこうとジタバタさせていた手足の所作をさらに激しくして。



鬼の僅かに長い爪が首の肉に喰い込み、刺激する。



それによってヒリヒリとした、凍てついたような痛みが伴う。


子は短い足をバタバタとさせてミラの足を蹴る。



それで抵抗のつもりなのだろうか。




ミラは腕に徐々に力を加えていく。


それに比例するように、子の唸る声がボリュームを下げていく。


過激な動作も、その力を失っていく。

 


そんな状態で、子は何かを言いたげに口元を動かした。

         


ミラは子の言い淀んだ言葉を聞くために、首を絞める力を少し弱めた。







「○ね」


その子供はそうほざいたのだった。



ミラはその瞬間、反射的に腕にぐっと力を込めた。

寸前にぼやかれた言葉に憤りを感じて。 



再び苦悶の表情を見せる兄。




「o"-u-a"-u-o-e-e-a"…」




絞り出した声でまた何かを言っていたが、今度はミラが腕の力の緩めることはなかった。



そのため、彼が終いに何を言っていたのかは、本人以外もはや誰にも分からなかった。



首を絶え間なく締め続けたともなれば、子の無呼吸間の意識も長続きする訳も無く、とうとうその子の息も事切れたようで…



今まで頗る壮大だった動きが、子供の身体にかけられていた強い力が、ピタリと静止した。



「もう死んでるよ」



セシルにそう促されてミラはやっと腕に込められた力を抜く。


それと共に、今までミラによって宙で支えられていた兄の肉体は重力に逆らうことなく地へと引かれ、地面に叩きつけられた。



ミラは兄の方の子供を今なきものにしたのだ。



「あれ?…もう死んじゃったのかぁ。人間て脆いね」

ミラが間の抜けた返事をする。



ただ、そんなヒトに対する無知からなるミラの無情な発言にも、どこか皮肉めいたものが込められていた。



ミラは少々苛立っていたのだ。



といっても、ミラさそんな煩わしさのワケが判然としなかった。



確かなのは、兄の言い放った戯言たわごとがやたらとミラの心を抓るような感じがしたということ。



悪辣な鬼の死を望む例の下品な言葉は、非常に幼稚で滑稽なもので、ミラが本来愉悦するはずのものだった。


正直、そんな反応を求めて自らの邪気な好奇心に身を任せて行った振る舞いである。



圧倒的な生命の上下関係をミラに感じさせられ、抵抗する手立ても万策尽き、追い詰められた末に悲哀悔恨と怨恨を抱いて吐き出された叶わぬ声を上げる。



まだ心の幼い、負けん気のある子供に相応しい、そんな負け犬の遠吠えを見聞きすることができたのだ。




しかしこの感覚は何たるや。



まるで死しても尚息吹を感じさせるような、心中でミラの感情を掻き立てるような、そんな心掛りがあった。


ある意味、兄の子供が間際に吐いたその放言は、兄の唯一のミラに対する攻撃であり、それによってミラが心を乱されたのならそれは彼にとって願ったり叶ったりである。



実際、それは実質的な効果を齎した。



ミラ自身どこか後味の悪いような、そんな今まで抱いたことのないようなモヤモヤした感情が渦巻いていたのは拭えない。



そのワケをはっきりさせようとしても、ミラは考えることが嫌いで、物事を深くまで追求し、模索する習慣もなかったので、兄の子供が言った妄言を考えることをやめにした。

 


その妄言がやがて真言となることも知らずに。



ミラはモヤついた悪感を振り払おうと、食を営むことに乗じて気持ちを切り替えようと考える。



部屋内は先程までのけたたましい空間がまるで嘘のようにシンと静まり返っていた。


鬼と人間の混同するこの異質な一室の床には、2人の人間が横たえていた。

(今この部屋には『立ち・二、座・一、寝・2』の生き物たちがいた。)


しかしながら、幼い方の子供はこれまでの一連の騒ぎを通しても、自ら進んで初期位置から動くことなく座り込んでいる。


幼き子は母親の方を目を疑った様子で、ただ見つめているのだった。



「よし、これでやっと落ち着いてゆっくり食べられるな」ミラが手をすり合わせて言った。


しかしセシルは首を横に振る。



「いや、まだ一階に誰かいるかもしれない。一様下を確認しておいたほうが良さそうだ」  


「そっかぁ。じゃあセシルが確認してきて〜」

ミラが鬼任せに言う。


「はいはい。分かったよ」

セシルは呆れるように言ったが、それ以上何も言わず素直に階段を降りていった。



培ったセシルの経験上、強情なミラを丸め込むのは何分時間の無駄だと判断してのことであろう。



ミラはようやっと食にありつけると喜び、動かなくなった横たえる兄の子供の元に屈み込むと、大口を開いた。


全体的に鋭利な牙を揃える中、より突出しているのは、まるで八重歯のように鋭く尖った二本の下歯である。


鬼は人間の骨をも噛み砕くほどの強靭な顎の力を持ち、その歯も強固なものだった。



頭あたりから一口頬張ろうと顔を近づけたところで、「ミラ、来てくれ!」というセシルの呼ぶ声が聞こえてきた。


ミラは仕方が無しに食に口を付けずして、その場を立つと、転がった2品の料理を避けるようにしてドアまで行き、戸を開ける。


ドアから先は夜であるからに、暗くらどこまでも闇が続いていて、その先にかね折れ階段が下に伸びていた。


その最上段の手前、壁沿いには電灯スイッチが備え付けられていたが、押す必要も無いのでそのまま下りていった。

 

暗い足取りで階段を下る途中、一階から声が聞こえてくる。


セシルの言った通り、まだ一階に誰かいるようだ。



「……金槌はどこだ?!」



そして咆哮のような低い大声が階段内を反響しつつ下から駆け上がってきた。


声からして、セシルではない。


そして勇ましく威勢のある力強い声。

甲高い子供らの声より一層低温なその声から、大人の男であることは間違いない。



父親といったところか。  




となると、親子含めて4人の料理があるということになる。


中年の男となると、味はあまり期待できないが、女子供の食材と比べ、歯ごたえがあることは確かだ。



人間が計4人いるのなら、セシルと2人ずつで分けるとしよう。


父親の方は試食してみて美味ければ喰って、不味ければセシルにあげるか…



そんなことを考えながらミラは最後の段を降りて、照明の消えた中、一つだけ明かりの点いている光源を追って部屋へ入った。




そこで目にしたのは、部屋の真ん中で地に伏したセシルの姿だった。


呆気にとられて、その今までにない光景を暫く目に刻んでから、倒れたセシルの元へと駆け寄る。


「セシル!一体何があったっていうんだ?!…」



ミラがセシルの身体を抱き寄せると、セシルはミラの顔を見上げて、拙く途切れ度切れの声でこう告げた。



「ミラ…気をつけろ!…あいつは…鬼だ…」



その時、背後に殺気のある気配を感じ、咄嗟に振り返って目に飛び込んできたのは、所々穴や破れの見受けられる作業着のような服に身を纏った大男。



そして次に、その男の剛腕が振り下ろされ、ミラはギリギリのところで片方の腕を前にして防ぐ。


「ヴッ!」


金属のような重みのある強い衝撃が、ミラの腕に伝わる。



男の手には金槌が握られていた。



「お前がセシルをやったんだな?」



ふと自分の腕を見ると、心做しか薄っすら青く痣のようになっていた。


その部分がジンと痛む。



「こんなの痛くも痒くもないね!」


しかしミラは虚勢を張った。


ミラは手負いの腕をもう片方の腕で根元付近を抑え、動かしてみる。


決して使い物にならないわけではない。





ミラと男は向き合う形となる。



ミラは俊敏な動きで真っ向から飛びかかった。


そして、男の筋肉質な実にたんぱくのある腕に噛み付く。



鬼の備えた鋭い牙は、たとい皮の厚い硬質な男の腕の皮膚さえ申し分なく通す。





爪による斬撃。鬼の優れた運動能力による強力な打撃。



何れも鬼のミラが取れる常套手段だったが、真正面から噛みつきに行ったのにはそれなりの理由がある。



一つは、相手の真正面から向かうことでより威圧を感じさせるからである。


これは、恐怖が最大のデバフとなることを心得ていたミラが、威圧による恐れを抱かせスキをつくるためである。



あいにく男は恐怖という感情などよりも強い、また別の感情を抱いていたようだが…。



もう一つに、人間の血を接種して先の金槌による腕へのダメージを治癒しようと魂胆である。


これが悪手だった。



ミラがつけた咬み傷。


そこから血が口内へと流れる。



「ヴェ!…マズッ!!」



ミラは思わずそう叫んだ。



舌先から痺れるような感覚が走った。

と同時に、吐き気を催すほどの嫌悪と不快感がミラを襲った。

 

第一に吐き気、次に不快感、次に寒気、次に激痛。



そんな多種多様な苦が、同時多発的に身体中を巡って伝導する。


ありとあらゆる体の器官がが拒否反応を訴えていると感じた。



まるで鬼が決して口にしてはならない禁断のものを、口にしてしまったかのような…



そんな形容が、決して飛躍でないことはそれらの事象がありありと証拠づけている。



立ち上がるどころか動くことすらままならない。


 

ミラは自分の身に何が起きたのかも分からないまま、よろけるように前のめりに倒れ込んでしまった。 




嗚咽と喘ぐ声を上げながら。



そして次の瞬間、後頭部に衝撃が打ち付けられる感覚があった。



頭蓋ずがいを叩き割るように。


何度も。何度も。



脳震盪をお越しているのか、ぐわんぐわんと揺れる感じがした。



ミラは何とか足掻こうと、直様体勢を立て直そうとするも、男の血を口にしてからの謎の苦と脳への衝撃の連続が身を制す。



さらにミラの立ち上がろうと言う試みを防ごうと、男が彼女に体重を掛けて馬乗りになる。 


そしてそのまま、一連の所業を、まるで作業のように、機械的に繰り返すのだった。

 



抵抗する余裕など無い。



ミラにできたのは、精々苦に耐えることくらいだった。




どうしてこうなったのか。


何故自分が苦しみに悶えているのか。


何故自分は今上下左右の判別すらつかないのか。


何故セシルの声が聞こえないのか。


何故何も見えないのか。


何故目的の食事を成し得ていないのか。


それ以上に、この鬼が苦しみを覚えさせられる血の味は何なのか。


人間などという下等生物のザコに、何故敵なしの鬼である自分が為す術無く地に伏せているのか。



溢れる疑問と湧き出る屈辱。

 


こんなことになるはずはなかった。



鬼が人間に殺されることなんてまずあり得ない。



油断こそ最大の大敵。 


ミラは自らの強さと経験によって、身を滅ぼしたのだ。



一階の床でミラはのたうち回りながら悶絶する。




ミラにとって最も辛かったのは、鬼という処遇からなる己の体の耐久性であった。

 


本来、人間などは一度ひとたび頭に金槌などの鈍器を振り下ろされれば、即時に意識を失うだろう。

或いは死の淵を彷徨っても可笑しくない。



然れども、頑丈である鬼のミラときたら、そうとと叶わず、鈍器で頭を打ち付けられる程度では、すぐに気を失うことは依然として無く、意識を保っていられた。



意識が遠のいては、金槌で頭を打ち付けられて意識を覚醒させられ、常に苦痛を味わい続けるのだった。



これなら、いっそ死んでしまいたい。


ミラがその刹那に、そんな思いもよらぬ思考を思い起こすほどに。



とはいえ、そんな永遠的とも思える負の連鎖も、ミラの意識が再び戻るまでに間隔が置かれるようになる。



最初は一度きりで戻った意識も、二度頭を打ち付けられてやっと正気を取り戻すようになり、

次は三度、四度と…。




「ドガッ…ドガッ…ドガッ…ドガッ…!!」



ミラの頭を痛めつける打撃は止まない。


何度も。何度も。何度も。






何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も





――――それからどれほど経っただろうか。



やがてミラの意識も、とうとう再び呼び覚ますことは無くなる。



だがそれはあくまで、"ミラという存在'でというとに限る話であった。



まだ遠くの方で、絶え間なく叩きつけられる重い音が微かに聞こえる中、視界が盲目にうずまれ、暗転した。








 




次に彼女が目を覚ましのは、今まで見たこともない場所で、見たことのない世界で、ミラであってもミラでない存在になった時のことだった。

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