翡翠色の空を割って

稲尾永静

翡翠色の空の下で

 雲一つない翡翠色の空を背に、首のない人型が空を飛んでいる。

 首無し鳥。彼女はそれをそう呼んでいた。

 「鳥だ」イヌ科のマズルに似た、面長の防護マスクの下で彼女は呟いた。

 瓦礫の山に立ち、見上げていた彼女には、一瞬、それが動いているように見えなかった。

 背負っていた弓を構え、矢をつがえて引き絞る。

 第三世代新人類として与えられている視力が、獲物の飛行している様をしっかりと捉える。人間と同じ構造の灰色の体躯、腰部の翼、そして翡翠色の噴射光。

 彼女の頭頂部に備え付けられた、髪の色と同じ、狼のような白い獣の耳が風に揺れた。

 矢を放つ。

 果たして矢は命中し、灰色の影が大きくその軌道を揺らめかせた。

 彼女が目を凝らすと、それはまだ機能していて、向かってくるのが見える。

(仕留めきれなかったか)

 首無し鳥が彼女の前に降り立つ。全身に翡翠色の燐光を纏っていた。その右胸には彼女が放った矢が刺さっている。

 弓を地面に置き、腰からナイフを取り出すと、彼女はそれを鳥に向かって投げた。

 鳥はそれを回避しない。しかし、ナイフは鳥に当たる直前で何かに弾かれたように空中を飛ぶ。

 直後、鳥は足を上げ、優雅に、後ろに向き直るように回った。

 その先には背後に回ろうとしていた彼女がいる。

 鳥の蹴りが直撃する寸前、彼女はその足にしがみつく。

 足の重量が変わったことで鳥がバランスを崩した隙を見逃さず、彼女は二本目のナイフで鳥の左胸を刺した。

 纏っていた燐光が消え、首無し鳥としての機能が停止する。彼女はため息を吐いた。

 解体し、必要なものを回収する作業に取り掛かろうとして、鳥が見慣れないものを握っていることに彼女は気づく。

 それは古いメディアだった。何かが入っているかもしれないと彼女は思い、持ち帰ることにする。無意識に尻尾が揺れていた。

 瓦礫の山の中で辛うじて原型を残しているビルの一角が、彼女の家だった。ひび割れたガラスドアを押し開けて帰宅する。

「ただいま」

「おかえり。ミミ」白衣を着た黒髪の少女がミミを入口で迎えた。「まずはチェックさせて」

 少女の指示に従い、ミミはジャケットを脱ぎながら顎をわずかに上げる。彼女の首に嵌った首輪のインジケータに少女は人差し指で触れた。

「うん。ナノマシン濃度は許容範囲内。マスク外すね」

 口元を覆っていた防護マスクが音を立てて外れる。宙に落ちたそれをミミは左手で受けとめた。

「エイダ。古いメディアを拾ったんだけど、読める?」

 ミミからメディアを受け取り、エイダはそれを眺める。

「どこで拾ったの?」

「鳥が持ってた」

ミミの返答に、エイダは片目を細めて沈黙する。彼女は足早に室内に戻るとメディアを検査機器の容器に放り込んだ。

「ナノマシン汚染はなし……なら一体どこからこんなものを」

「エイダ?」

 ミミの呼びかけに、エイダは振り返り、首を横に振った。

「大丈夫。ちょっと用心しただけ。これなら私が持ってる端末で読めると思う。それで、今日の成果は?」

 エイダの問いにミミは満面の笑みを浮かべ、躰の後ろに隠していた麻袋を見せつける。

「大量。鳥を追って移動した先で色々使えそうなものを見つけてきた」

 麻袋の中に詰めていたものをミミは床に並べていく。

 鳥の部品、食料、燃料など、普段の探索であればどれか一つでも見つかれば十分な量がそこにあった。

「これだけあれば、しばらくは大丈夫でしょ」ミミが言う。

「そうだね。ありがとう」エイダはミミを抱き寄せて頭を撫でる。「いつも任せきりでごめん」

「これが第三世代の役目でしょ。エイダは第二世代なんだから、外に出てもできることほとんどないし」

 自分を抱きしめる力が強くなったことにミミは気づいた。

「言ったなぁ」ミミの頭を乱雑に撫でまわしながらエイダが言う。

 その撫で方が、ミミには心地よかった。

 不意に、聞き覚えのある音に頭頂部の耳が反応する。エイダを躰から離し、ミミは入口に向き直った。

 翡翠色の光が地面に降っているのを彼女は見る。

 首無し鳥が降り立とうとしていた。

 鳥はガラスドアを粉々に砕き、室内に侵入する。

 同時、防護マスクを装着したミミが鳥を蹴り飛ばした。しかし、機械である鳥は重く、入口付近に押し戻すに留まった。

「奥の部屋に」鳥から目を離さずミミが言う。

 エイダの足音が遠ざかるのを確信してから、ナイフを取り出し、逆手に持つ。

 目の前の鳥は、やはり翡翠色の燐光を纏っている。光は室内に広がりつつあり、その状況が良くないことをミミは理解していた。

(まずは、外に出す)

 ミミは鳥に接近し、急所である左胸を狙う。しかし、それは鳥の装甲表面に波打つ翡翠色の光で阻まれた。

 鳥の動きが止まる。その隙にミミは外に出た。

 自らが敵対者として定義したものに鳥は執拗に攻撃する。ミミはその習性を利用し、一撃を与えて敵対者と認めさせ、室外へと誘おうとした。

 鳥はミミを一瞥することもなく、室内を見ている。その様子に、ミミは目を見開いた。

 何故、と思うと同時に躰が動き、鳥の背に向けてナイフを突き立てる。再び翡翠色の光が波打った。

(三秒過ぎてたか!)

 ミミは腰からもう一本ナイフを引き抜き、背中側から左胸に向けてナイフを刺す。

 鳥の動きが止まったが、その身に纏う燐光は消えていない。

 胴体が捻られ、横を向く。自分に反応しているとミミは直覚した。

 しかし反撃の様子はなく、鳥は室内に進もうと一歩を踏み出す。今までの経験と異なる事態にミミは舌打ちした。

「こっち向けって!」

 背中に刺し込んだナイフの柄を蹴って押し込むが、それでも鳥は止まらない。室内をゆっくりと、奥へと進んでいく。

 腰に手を回すが、帰宅してから装備を外している最中だったため、予備のナイフがないことにミミは気づいた。使い慣れた弓も、最初の襲撃時の影響で室内のどこかに飛ばされている。

(このままじゃエイダが……)

 目を閉じ、ミミは防護マスクに手を掛けた。

「ミミ、下がって」

 聞き慣れた声にミミは即座に反応し、その指示に従う。

 何かが爆発したかのような音が響いたかと思うと、鳥の胸に穴が開いていた。その躰からは翡翠色の燐光が消えている。

「エイダ!」

 主室となっている奥の部屋は、鳥に侵入された前室代わりのフロアと同じくらい荒れていた。

 足を踏み入れたミミはエイダの姿を探す。彼女は地面に仰向けになっていた。

「大丈夫?」防護マスクを外してミミが言う。

 彼女の問いかけにエイダは無言で二度頷いた。

「ナノ・コートを貫通できる銃弾を撃っただけだから……反動に耐えられなくて大変なことになっちゃったけど」

 苦笑するエイダを見てミミは安堵の息を吐く。

「鳥がもう一体いたのかと思った」部屋の荒れ具合を見て思い浮かんだ可能性を彼女は口にした。

「もう一体いたら、ミミが大変だったよ」

「それでも、エイダを守るのが私の役目でしょ」

 ミミの言葉にエイダは目を細めて笑みを浮かべる。

「私のところに来たってことは、鳥は機能停止したんだよね?」

「うん。確認してから来たよ」

 躰を起こし、エイダは顎に手を当てて思案した。

「じゃあ、どうにかなるかな……」

 しばらくして、首無し鳥の残骸をエイダが調査する。残骸を一目見て、彼女は首を横に振った。

「ジェネレータが粉々。これじゃ駄目か」

「ジェネレータ?」

「これが入ってきたせいかわからないけど、発電装置がダメになっちゃってた。だから代わりになるものが欲しいんだけど……」

「私が取ってきたやつは?」

「そっちも鳥が分解してた。重要部品はすぐナノマシンに食べられちゃうからね」

 眉根を寄せて、エイダは唸る。

 生活の大部分を担う発電装置を失うことは生存の危機を意味する。

 これまでも拠点が崩落するなど、それまでの生活を維持できなくなることはあったが、発電装置の破損は前例がない。

「もう一回、鳥が降りてきてくれればいいんだけど」ミミが空を見上げる。雲一つない翡翠色の空には影一つない。

 ジェネレータを確保するために首無し鳥を狩ることはミミにとって容易いことだが、鳥と遭遇するのは容易いことではない。

 先ほどの鳥に対する警戒が薄かったのも、平時は数日に一機遭遇すれば良い方だからだ。

「谷底……」ミミが呟く。彼女の記憶の中では、確実な解決案だった。

「駄目」エイダが強い口調で言う。「マスクを改良したとはいえ、あそこがあなたにとって危険なことには変わりない」

「でも、確実に発電装置はある」

「それはそうだけど、駄目。本当にそれしか方法がないってなっても、私が行く」

「エイダじゃ無理だよ。第二世代はそういう設計じゃない」

 先ほどエイダが鳥に発砲したことをミミは思い起こす。あの銃も銃弾も、ミミが使うのであれば反動はないに等しいものだ。

「それはあなたも同じ。第三世代は谷底に行く設計じゃない。これはあなたたちを設計した私だからこそ断言できる」

 意見の相違。二人はしばし睨みあう。エイダの黒い瞳を見ているうちに、ミミはそれに吸い込まれそうになる錯覚を覚え、目を逸らした。

 そしてふと、鳥が何かを握っていることに彼女は気づく。

「こいつも何か持ってる」

 彼女が鳥の指を開くと、そこには見覚えのあるメディアがあった。

 エイダは胸ポケットからメディアを取り出すと、両方を比較する。

「同じ形式のだね」エイダが言う。

 彼女は端末を取り出してメディアを読み込んだ。中身は映像ではなく、テキストのようで、エイダがそれを読む様子をミミは見ているしかできない。

 メディアの内容に目を通したエイダは端末をしまうと、目を閉じて腕を組んだ。彼女が思考に集中するときの姿勢。

 やがてエイダは目を開き、ミミを見る。

「谷底に行くよ」

 ミミは谷の際から眼下の翡翠色の霧煙る谷底を見下ろした。頭頂部の耳で音を探るが、何かが動く気配はない。

 谷底。人類が栄えていた頃の名残。かつては、さる国の首都であったと、エイダが言っていたことをミミは思い出す。

 背後にはエイダが立っている。白衣を脱ぎ、テックウェアに着替えていた。彼女もミミと同様に谷底を観察している。しかし立っている場所はミミよりも地面寄りで、遠い。

「降りる準備はオーケー?」ミミが問う。

 エイダはそっと一歩を踏み出し、その足を元の位置に戻した。

「もう少しだけ待って」

 ミミは肩を竦める。「この辺もナノマシン濃度が高いから、近寄るなって言ってたのは誰だっけ」

 茶化すようなミミの物言いに、エイダは彼女を睨みつけた。彼女の反応が愛おしく、ミミは口元を歪める。

 エイダは深呼吸を何度かすると、ミミを見た。そして両手を広げ、彼女に差し出す。

「いいよ」

 ミミはエイダを抱きかかえ、斜面を蹴って飛び降りた。落下中にふとエイダを見ると、力強く目をつぶり、叫ばないようにか、口元を固く結んでいる。彼女にも怖いものがあるのだなとミミは小さく笑みを浮かべた。

 谷底へ着地すると、耳を周囲に向ける。二メートル先も見えない濃霧の中では聞こえてくる音だけが頼りだ。

 谷を作る構築物に目を向けると、かつて高層ビルだっただろう灰色の壁。ガラスが嵌っていたであろう無数の穴は今や風を通し、音を鳴らすだけになっている。

「ミミ」

 呼ばれて振り向くと、首輪のインジケータに触れられた。

「こまめにチェックするからね」エイダが言う。

 ミミは頷く。事前に谷底では可能な限り声を出さないようにと言われていた。

 谷底はパウダースノーのような踏み心地だった。何ものも踏み入れることがないためか、地面に様々な痕跡が残っていることにミミは気づく。

 前方を歩くエイダの足跡、谷の上から落下してきた岩の転がった跡、そして、鳥の残骸。

 歩いていると、ビルが一棟、行く手を塞ぐように倒れている。二人は窓だった穴から内部に侵入した。

 居住用のビルだったようで、室内にはまだ形をとどめたものが多く残っていた。エイダを見失わないようにしながら何か使えそうなものがないか横目で確認していたが、持ち運べそうなものはどれも灰色にまみれている。

 室内を奥へと進むと比較的大きな部屋に出た。そこには巨大な木製の机があった。凝った装飾から手の掛かっているものだとミミは理解する。

 思わずエイダの肩を叩き、ミミは机を指した。

「まさか持ち帰るつもり?」

 エイダの問いにミミは首を横に振る。ただ、このようなものが残っていることに感動し、その感情の共有をしたいだけだった。

 その意図を汲んだのか、エイダは頷く。

「これだけ形が残っているなら、きっとかつてはいいものだったんでしょうね」

 不意に、ミミは近づく音を捉えて反応する。その速度に彼女は顔をしかめた。エイダを抱え、室内からの脱出を試みる。

 直後、音の正体が別の窓から侵入してきた。それは壁に衝突し、室内のものを散らかす。風圧でミミはエイダを手放しそうになった。

 首なし鳥が翡翠色の光を纏っているのをミミは確かに見た。

 風圧がなくなると同時、ミミは窓に向かって走る。

 エイダを抱えて窓から飛び出すと、翡翠色の霧が晴れていた。

「ミミ、降ろして」

 呆気に取られていたミミはエイダの指示に従う。

 ミミが鳥の姿を探すと、鳥は窓のへりに脚を掛け、周囲を索敵する素振りを見せていた。そして二人を見つけると腰部の翼を広げて急降下してくる。

 反射的に弓を構えて迎撃しようとしたが、エイダが前に出てそれを制した。

 果たして鳥は二人の前に着地する。

 エイダは端末を起動し、件のメディアを読み込むと、鳥に向かって突きつけた。

「約束通り、来たわよ」エイダが言う。

 すると鳥は翼を畳み、彼女の前に跪いた。

「ようこそお越しくださいました」男の声。

 背後からの声に二人は振り向く。そこにはスーツ姿の男が立っていた。

 全体的にモノクロで、線が細いという印象をミミは受ける。エイダよりも肉体的な能力は劣るのではないだろうか。

「私は第一世代新人類、ノアと申します」ノアは慇懃に頭を下げる。「以後、お見知りおきを」

「私は第二世代新人類、エイダ」

 自己紹介のあと、エイダはミミにもそれを促す。

「第三世代新人類。ミミ」

「エイダさま、ミミさまですね。了解いたしました」

「ノア。あなたが私たちを呼んだ理由を教えて」エイダが訊いた。

「呼んだ?」ミミが反射的に口を開く。

「理由……我々の存在意義に関わる問題の解決のためです。人類再生のためのね」

 人類再生。それはミミにも生まれたときから本能に刻まれている、新人類に与えられた任務だ。この惑星を、かの地に眠るかつての人類が生きられる環境にせよと。

「あなたたち第一世代はその問題解決に失敗してる。数百年前に大気汚染をナノマシンで浄化しようと鳥を作って、地球をナノマシンの巣にした。緑色の空と大気がその証左」エイダが指摘する。

 第一世代新人類は、人類を再生するためにはまず大気汚染を解決すべきという結論を出した。そしてそのために汚染された大気を取り込み、ナノマシンへと変換する機械――鳥を作り出す。

 結果、鳥は大気汚染を解決したが、地球上の大気は活性状態のナノマシンと混合し、それが地球の大気圏を包み込んだ。

 翡翠色の空も、谷底の霧も、すべて鳥の生み出すナノマシンが作り出した光景である。

「そうですね」ノアが頷いた。「だから、我々は次に託すことにした。あなた方、第二世代に。そして……」

 ノアはミミを見る。

「あなたが設計した第三世代は我々の不始末を解決してくれる。そうですよね?」

 彼の問いかけに、エイダは不承不承に頷いた。

「私の設計した第三世代なら、理論上、ナノマシンを大気圏から排除できる」

「しかし、鳥を通して見ていましたが、第三世代の量産体制が整っていないようですね」

「それは……リソースが足りないから」

「今日、ここにお呼びした理由はそれです」ノアが微笑む。「私なら、量産のためのリソースが確保できます」

「本当に?」エイダが言う。

「ただし、条件が一つ。そこの第三世代……ミミさまを私に譲渡してください」

 エイダは目を見開いた。「どうして! 第三世代のデータなら私が持ってる。私にリソースを渡してくれればいい」

「量産が行えるとは言いましたが、その施設を動かせるのは第一世代だけなのです。加えて、私は第二世代以降のフォーマットに対応していません。あなた方と連絡を取るために使ったメディアも、我々からすれば最新のものですが、あなた方から見れば古いものでしょう」

 ノアは続ける。

「私が第二世代以降のフォーマットに対応するよりも早い方法が、直接サンプルを分析することです。そのために、ミミさまが必要なのですよ」

「もしサンプルになったら、私はどうなるんだ?」ミミはノアを睨む。想像される返答は、必ず自分を不愉快にするだろうという確信があった。

「生物として死亡するでしょうね」ノアが無表情で言う。

「エイダ」ミミはエイダを見た。「ごめん」

 ミミはノアに向かって跳躍する。その手にはナイフが握られていた。

 ナイフが振り下ろされる寸前、一機の鳥が二人の間に割って入る。ミミはそのままナイフを振り下ろすが、黒い装甲に阻まれた。

「黒い鳥?」距離を取りながらミミが訝しむ。

「彼女は現存する最後の完全な鳥です」ノアが言った。「交渉が決裂したとは思いませんが、テーブルを壊そうとするならば、対応させてもらいますよ」

 それは首無し鳥ではなかった。人間と同じ構造の灰色の体躯、黒い装甲、腰部の翼、翡翠色の噴射光。そして、完全な頭部。

 人間の頭部を模したそれは、目元がバイザーで覆われている。自分とは覆われている場所が逆だなとミミは思った。

 直後、黒い鳥はミミに接近し、彼女を蹴り飛ばす。不意を突かれた彼女はビルの壁面に叩きつけられた。

「ミミ!」エイダが叫ぶ。

「安心してください。彼女の身体的強度は過去の鳥との戦闘で推測しており、あれはそれを超過しないように設定されていますから」

「あなたとこれ以上の交渉なんてしない」

 ノアは首を横に振る。「いいえ。我々は人類を再生するという使命に背けません。私が第三世代を量産できるという情報を渡した今、あなたはそのことを考慮し始めているはず」

 エイダは口を噤む。ノアの指摘が正しかったからだ。

 新人類は人類を再生することが最優先であり、個人の思想、嗜好はそれよりも下位に置かれる。

 人類再生という使命に対して合理的判断を下すべきだと、彼女の理性が告げていた。

 押し黙ったエイダを見て、ノアは目を閉じる。

「時間は有限ですが、今は十分あります。ゆっくりお考えください」

 黒い鳥が動き出したことで、周囲は再び翡翠色の霧に包まれつつあった。

 叩きつけられたことに気づいたミミは即座に起き上がり、弓を構える。

 しかし黒い鳥は既に至近距離にいた。弓は捨て、予備のナイフを取り出して迎撃する。黒い鳥の顔面に向けて刺突するが、それは翡翠色の光に防がれた。ナノマシンによる防護機能だ。

 防護機能の冷却期間である三秒のうちに、ミミは鳥の胴体に蹴りを入れて距離を取る。通常の鳥と異なり装甲に包まれているそこは一切の損傷がなかった。

「硬すぎだろ!」

 黒い鳥は低空飛行で接近する。ミミも応じるように近づくと、ナイフで鳥の顔面を切りつけた。翡翠色の光が波打ち、彼女は弾き飛ばされる。

 地面を転がりながら、ミミは拳銃を取り出した。それにはナノマシンによる防護機能を貫通する銃弾が装填されている。鳥が振り向くタイミングを見計らって左胸を狙い撃つ。

 銃弾は命中したが、黒い鳥は翡翠色の燐光を纏ったままだ。胸部を覆う装甲は砕けていたが、重要機関までは届かなかった。

 残りの銃弾も撃ち込むが、正面からでは狙いを読まれて当たらない。その間隙を縫って接近した黒い鳥はミミを再びビルの壁面に向かって蹴り飛ばす。

 叩きつけられた壁面から起き上がろうとしたミミの腹部を黒い鳥の足が上から押さえつける。

 四本の大きな爪で構成されるそれは、人間の足というよりは生物としての鳥のものに近い。

 爪が壁面に食い込み、かすがいのようにミミを固定する。彼女は鳥の足にナイフを突き立てるが、装甲に弾かれていた。

「おとなしくしてください」黒い鳥が言う。

 鳥が言葉を発したことに不思議なおかしさを感じて、ミミは不敵な笑みを浮かべる。

「鳥も、しゃべるんだな。じゃあ、今までのやつも、しゃべれたのか?」

「頭部のない鳥は、リサイクルされた探査用の機体です。会話する機能も知能もありません」

「なるほど。罪悪感に苛まれることがなさそうで良かった。あんた、名前は?」

「カラス」

 見た目のままの名前だとミミは思う。

「カラス。一つだけ頼みがある」

「解放は拒否します」

「違うよ。マスクを外してほしいんだ。息苦しくてさ」ミミは頭頂部の耳を下げて苦笑した。「ただでさえ苦しいのに、胸まで押さえられてちゃね」

 カラスは無表情で三秒停止する。

 果たしてカラスの手によって防護マスクが外される。

 ミミは深呼吸した。

 すると首輪のインジケータが発光し、警告音が鳴り響く。

「あれは……」

 その様子を見ていたノアがエイダに問うように呟く。

「ナノマシンを処理する機能の異常を示す警告。放っておけば、彼女は死んでしまう」エイダが言った。

「その発言が真である根拠は何もありませんが……分の悪い賭けですね」ノアはカラスに指示を出す。「カラス。ミミさまをこちらへお連れしなさい」

 ビルの壁面ごとミミを固定したままカラスはノアとエイダの下へと参じた。

 ほんのわずかな時間で、ミミは苦しそうに呼吸している。心配そうにエイダが駆け寄った。

「エイダ……」ミミは腰から刃のないナイフの柄を取り出すと、それを口に咥える。

 それを見てエイダは一瞬目を見開くが、すぐに彼女の意図を察し、頷いた。

 エイダは首輪の側面に両手を当て、インジケータに両手の親指で触れる。

 警告音が止まった。

 ミミは咥えていた柄を右手に持つ。すると茜色の刀身が現れた。

 変化は周囲にも表れる。翡翠色の霧が、色を失っていく。

 周囲のナノマシンが、すべて茜色の刀身に集まっていた。

 カラスが動くより先に、ミミは身を起こし、茜色の刀身で切りつける。

 翡翠色の燐光を失い、斜めに切断されたカラスの体躯が、ゆっくりと崩れ落ちた。

「これが第三世代の、ナノマシンの排除方法ですか」ノアが言う。「大気中のナノマシンを収集し、熱によって破壊するとは」

 ミミは目を見開き、息を荒げている。喉が焼けるように熱い。

 この機能がまだ完全でないことを彼女は知っている。だからこそ、エイダは防護マスクを用いてナノマシンを過剰に収集しないようにしていたのだ。

「これが第三世代の解決方法」エイダが言う。「だから、彼女を失うわけにはいかないの」

 ミミはノアを睨む。再び同じような条件を突き付けてくるなら、茜色の刃で切りつけるつもりだった。

 しかし、想定外にもノアは微笑み、拍手をする。

「見事なものです。第二世代をデザインしたものとして誇らしい結果だ。これならば……」

 ミミが聞こえたのはそこまでだった。首輪が警告音を発し、彼女は意識を失う。


 あれからどれだけの月日が経っただろうか。ミミは青さを取り戻しつつある空を見上げて思う。

 エイダはノアを説き伏せ、第三世代新人類のデータをエイダがコンバートするという形でノアに託した。その後、彼の持つ施設で第三世代が量産され、彼らの存在によってナノマシンはその数を減らしている。

(結局、試作型だった私は全然ナノマシンを減らせてないんだけど)

 旧来の人類の数十倍の寿命を持つ新人類の端くれとしては恥ずかしい話だとミミは思う。

「ミミ」

 呼ばれて振り向くと、そこには変わらぬ姿のエイダがいた。

「そろそろ時間だよ」

「みんな大丈夫かな……」

「心配しなくても、みんな、あなたみたいにいい子だから成功するよ」

 すると翡翠色の空が割れ、青さを取り戻す。

 大気圏でのナノマシン除去に成功したのだ。

 ナノマシンの流動によってその青はすぐに翡翠色に侵食されていくが、一瞬垣間見えた確かな青さは人類再生の希望だった。

 本能的な欲求が満たされたことで、ミミは気分が良くなる。

 しかし、同時に一つの疑問も浮かんだ。

 人類を再生したら、自分たちはどうなるのだろう?

 斑になりつつあるこの空のように混ざりあうことができるのだろうか。

 それともナノマシンのように排除されてしまうのだろうか。

 人類再生の日が訪れるまで、その答えはわからない。

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翡翠色の空を割って 稲尾永静 @Escaper

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