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 水曜日の放課後、真野千織さんが文芸部を訪れた。厳密にいうとドアの前で逡巡していたところを私が見つけ、連れ立って部室に入ったのである。すみません、すみません、と彼女は頭を低くして連呼した。

「ノックしたんだけど、返事がなかったからどうしようかと思ってた」

 鍵は開いていた。琉夏さんの姿が見えないと思ったら、本や段ボールに囲まれた一角で埋もれるようにして寝ていた。椅子の周辺に物を山積みに配置して、肘掛やオットマンの代わりにしている。

「ここで冬眠しないでください。真野さんが来てくれましたよ」

 私が何度か肩を叩いてようやく、琉夏さんは目を覚ました。ふわわ、と口許を覆って大欠伸したあと、いったん廊下に出て、また戻ってくる。顔でも洗ったのか妙に溌溂としているなと思っていたら、

「私のくつろぎスペース、なかなかいい出来だと思わない? 外部の喧騒や無粋な視線をシャットアウトしてくれるし、なにより快適。足を乗せるとことか、ちょうどいい高さと安定感を出すのに苦心したんだ」

 鳥の巣のようなその空間を、部室の入口に仁王立ちして眺めながら、やたら得意げに解説してきた。なぜこの人はこうなのだろう。蟀谷が痛くなってきた。

「素敵だと思います」と真野さんが社交辞令を口にする。琉夏さんは当然のように付け上がって、

「この良さが分かるか。後で入れてあげよう。今じゃなくて後でね」

 ブルドーザーかなにかで丸ごと更地にしてやりたくなった。「待たせてごめんなさいとか、散らかってて申し訳ないですとか、寝起きで失礼しますとか、ごみ溜めの自慢より先に言うべきことがありますよね?」

「ごみ溜めとは失敬な。マイ・サンクチュアリに向かって」

「怒りで卒倒しそうなんで、もう始めましょう。部長、真野さんへの質問事項は纏めてあるんですよね?」

 琉夏さんはやたら慎重な身のこなしで「聖域」の内部へと戻っていき、それから飄然と、「まあ、だいたいは」

「じゃあやりましょう。真野さんをこの場所に居させるのが耐えがたいんで、一刻も早く開始して、終わりましょう」

 琉夏さんは勿体を付けるように空咳をして、「まず真野さん、ここに来てほしいって連絡は、副部長の緒賀から聞いたんだよね。彼とはよく喋る?」

「用があるときだけ。忙しい人ですし、迷惑かなと思ってしまって」

「澤城とは? あいつ、脚本にあれこれ口出ししてくるんだって?」

 曖昧な頷きのあと、真野さんは俯きがちに、「私が至らないからです」

「緒賀は真野さんのこと、すごく褒めてたけどね。それに澤城って、小道具にも衣装にも、全方位に満遍なく文句をつけるんでしょ? 真野さんだけ卑下する必要はないんじゃない?」

「実力不足なのは事実ですから。没になって当然、書き直して当然という気持ちでいるので、リライトを求められても別に」

「でも澤城って、ぶっちゃけセンスないって聞いたよ。そんなださいの、絶対お断りだって思ったことない?」

 短い沈黙が挟まった。「――感覚が異なっている部分は当然あります。でもなるべく澤城さんの希望に沿う形で落としどころを見つけられるよう努力しています」

「今までに求められた改変で、いちばん腹が立ったのは?」

「青がイメージカラーのキャラクターを主役に据えた話だったんですけど、彼が間違った判断をしたり、破滅へ向かう行動を取ったとき、青が紫に見えるように演出してもらおうとしたら、それは分かりにくいから駄目だと」

 色彩にこだわった画面構成。最新作でも、彼女はこの手法を用いていたはずだ。

「科白にできる部分はぜんぶ科白にしろって言われた?」

「はい。ただこの件には続きがあるんです。悔しくて、脚本自体はほとんど変えずに、色使いだけ変えて再提出してみたら、これならいいってあっさり通っちゃったんです。なんだったんだろうって」

 まともに脚本を読んでいるとは思えない。本当にその場の気分だけで、他の部員を振り回しているに過ぎないのだろうか、澤城さんは。

「いま書いてる作品、『バイバイ、ビューティフル』っていうんだってね。このタイトルについては? なにか指摘された?」

「元ネタがあるのかとは訊かれました。私の好きなバンドの曲名そのままですって答えたら、ああそう、とだけ」

「ちなみにどんな音楽なの?」と私は口を挟んだ。「ロック?」

「フィンランドのヘヴィメタルなんですけど、女性ヴォーカルでクラシックやオペラの要素も取り入れたような感じです。長年ヴォーカル担当だったターヤ・トゥルネンが脱退して初めての作品で、タイトルは明らかに彼女に向けたものでしょうね」

 ナイトウィッシュというバンドだそうだ。兄なら知っているだろうか。

「ヴォーカリストはなんで辞めちゃったか知ってる?」

「実質的な解雇だったみたいです。もう一緒にやっていくのは無理だとバンド側から声明を出していて、私も読みました。かつての少女は『ディーヴァ』に変わってしまった。ヴォーカリストしてのあなたの才能に敬意は払うけれど、ここ数年、あなたはなにもかも自分だけで決めようとしていた、と」

 思わず息を詰めた。「脚本に、その経緯は反映されてる?」

 真野さんは少し考える素振りを見せてから、「そのつもりはないんですけど。ただ書きながら、〈バイバイ、ビューティフル〉の入ってるアルバムと脱退したターヤのソロアルバムとを交互にずっと聴いていたので、無意識のうちに影響はされたと思います」

 その脚本を読ませてもらえないかと尋ねてみたが、公演前に表に出すのはさすがにご法度らしく、彼女らしからぬ強い調子で断られてしまった。仕方があるまい。

 事情聴取は想定より短時間で終わった。真野さんが去ったあと、私は部室の整理を再開しようとしたのだが、琉夏さんは聖域に深く思い入れを抱いてしまったらしく、その一帯にはいっさい手を付けさせてもらえなかった。すなわち進捗はほとんど無しである。そのときが来たら私の手で解体する、などと宣言していたが、いつになるか知れたものではない。下手したら卒業まで使いつづける気ではないか。

 下校時刻を告げるチャイムが鳴った。椅子の背に引っ掛けてあった、中学時代に買った安物のコートに袖を通す。琉夏さんは聖域に、明日もよろしく、などと挨拶していた。

 寒風に晒されながら帰宅する途中、私は向かい側の歩道に目立った人影を見出した。常人とはまったく異なったそのシルエットだけでも間違いようがない。澤城さんだ。インポート品に見えるロングコートを颯爽と着こなし、サングラスで目元を隠していた。こちらに気付いたかどうかは分からなかった。

 妹なのか親戚なのか、傍らに幼い少女を引き連れていた。澤城さんを真似てだろう、この子もサングラスを着用していて、歩き方もモデルさながらだった。ただ澤城さんの片手をしっかりと握りしめていた点だけが、ゆいいつ子供らしく見えた。

 ふたりが横断歩道を渡りはじめたので、私は慌てて狭い路地へと逃げ込んだ。鉢合わせれば盗み見を咎められるのではないかと思ったのだ。

 幸いにして、澤城さんたちは私が隠れているのとは反対の方向へ歩いていった。少女は隣の美女が誇らしくてならないらしく、私の視界から完全に消えてしまうまで、繋いだ手を一度も放そうとはしなかった。

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