二話 月と踊る
畑作業を終えた真南風の次の仕事は水汲みだ。
八重山は狭い土地面積の割に高い山があり、かつ頻繁に津波で陸地を削られるため斜面が多いのが特徴だ。
井戸では
「真南風、顔色が悪いねえ。これ食べなさい」
玉皿は真南風のやつれた顔を見て、
「いいの? ありがとう! お腹が空きすぎて倒れそうだったの」
月桃の葉を剥くと、解き放たれた芳醇なもち粉の香りが鼻腔をくすぐった。真南風は昨夜から何も食べていなかったので、勢いよく餅を頬張った。
「おいしい……! さすが玉ねえ、むぐっ」
喉を詰まらせる真南風の背中を、玉皿が笑いながら叩く。完食するのがもったいなくて、真南風は半分だけを食べ、残りは懐にしまった。
水汲みを終え、玉皿と一緒に井戸の横にある
御嶽とは琉球における聖域のことである。主に木や石などが神の依代になるとされ、八重山の島内にはおよそ四十ほどが点在している。この
八重山の御嶽としては比較的歴史が浅い。百年前のオヤケアカハチの乱で手柄を挙げた
御拝を終えて帰ろうとした真南風を、玉皿が呼び止めた。
「真南風、忘れてるよ」
「……うん」
真南風は御嶽の横にある
八重山では真乙婆御嶽で御拝をしたらこの墓を踏むことが慣例となっていた。ここで眠るのは真乙の妹、
真南風はこれをするたびに胸がざわついた。先祖崇拝が根強い島人は、死者の尊厳を生者よりも丁寧に扱う。よって墓を踏むとは最大級の侮辱行為だ。縁のない人間だとしても強い抵抗がある。しかし幼い頃から義務として繰り返していると、人は思考を放棄し、罪悪感は薄れてしまう。
姉妹でありながら姉の
「今夜、
帰路につく道中、玉皿が楽しげに言った。浜遊びとは男女が浜辺に集まって歌や踊りを通し交流を図ることだ。現代で言う合コンである。
「玉ねぇ、旦那さんの喪中じゃないの?」
玉皿の夫は子供が生まれた直後、海難事故で亡くなっていた。
「そんなこと気にしてられないさ。この子を食わしていかなきゃならないもの。島の男は情に厚いからね。一度でも関係を持ってしまえばこっちの手駒さ」
背中の息子はすやすやと寝息を立てている。玉皿は夫を失った悲しみをとっくに乗り越え、したたかに、この幸せな寝顔を守っているのだ。
「そうだ真南風、私たちで男どもをおだてて魚を獲らせよう。競わせるのがコツだよ。お腹いっぱい食べられるよ」
「お腹いっぱい……」
浜遊びの経験は無いが、たまに遠目に見かけるので興味はあった。それにお腹も空いている。最後に満腹になったのは遠い過去の話だ。
「真南風は顔立ちが整ってるし、赤毛もかわいらしいさ。おめかししたら絶対
真南風の放射状に伸びた赤毛は、野生味があってキジムナーを連想させる。一方、玉皿の艶々とした黒髪は木の
真南風が抱える桶の水面に自分の姿が映る。玉皿と見比べて恥ずかしくなった。
「ごめんなさい。行ってみたいけど、明日も朝早くから伯母さんに仕事を命じられてるから」
真南風が断ると、玉皿は「あのあばずれ女、真南風ばかり働かせて本当腹立たしいね」と憤慨した。
自分のために怒ってくれる、その気持ちが嬉しかった。顔も名前も知らない両親や意地悪な伯母なんかより、玉皿の方がよっぽど親身に感じられた。
帰宅するや否や、真南風は伯母にぶたれた。着物の内側に隠していた餅が見つかったのだ。
「他人から恵んでもらうなんて、まるで私が飯を与えてないみたいじゃないか。これは没収だよ」
真南風はぶたれた拍子に桶を落とした。水が溢れたため、再び井戸まで汲みに行かねばならなくなった。もう「日暮れまでに全ての仕事を終わらせる」という要求は守れない。本日の飯抜きが決まった。
「悔しいかい? 恨みたいなら恨めばいいさ」
伯母が見下ろして言った。何を考えているのか分からない。なぜこんなことをするのだろう。
今すぐ逃げ出したかった。でもこの小さな島に逃げ場なんて無い。一人で生きる強さも生活力もない。山に逃げれば猪の餌になり、海に逃げれば
全ての仕事が終わったのは、とうに日が沈み、梟の鳴き声と鈴虫の音色が交互に聞こえる夜半だ。
真南風はアダンの葉を食べて空腹を紛らわせたが、毒抜きが不充分だったようで、お腹を下した。
腹痛で眠れないでいると、どこからか三線の音と笑い声が聞こえてきた。真南風は寝静まった伯母に気付かれないようにそっと家を抜け出し、木陰から浜辺を覗く。玉皿を含めた数人の男女が
玉皿の
真南風の目には、真鍮の輝きが滲んでみえた。下っ腹が唸り声をあげるので、強く手で押して気を紛らわした。
青春を謳歌する玉皿たち。一方、真南風は木陰で涙ぐみながら腹痛に悶えている。
「何でこんなに惨めなんだろう……」
玉皿がかわいらしいと褒めてくれた赤毛を指で梳いてみた。何度も枝毛に引っかかり、指はついに毛先から抜け出せなかった。
男が弾く三味線に合わせて、玉皿が八重山民謡の『
『赤ゆらぬ花や
二三月どぅ咲ちゅる
我がけーらぬ花や
いつぃん咲ちゅさ』
(でいごの花は
二、三月ごろ真紅に咲くが
私の青春の花は
四季を通して咲いている)
こらえていた涙が溢れ、頬を伝った。
日々労働に追われる真南風に、きっと青春は来ない。来るとしたら伯母が死んだときだけだ。そんなことを考える自分が嫌だった。他人の死を願うくらいなら自分が死んだほうがましだと思った。
真南風は踊った。身体の内側でじりじりと燻る悲哀の灯火を、手首の返しと共に夜空に吐き出す。
挫けそうになる夜は月に向けて踊るのが彼女の習慣だった。体が生み出す律動と脳内で奏でる三線の旋律は、真南風のかなしい境遇を慰めてくれた。
彼女の踊りの気配を察知したそれがどこからともなく寄ってきた。まるで夜にのみ咲き、明け方には花びらを閉じてしまう
人の目には見えないそれが横で踊っているなどとはつゆ知らず、真南風は、星空の海をゆっくりと漕ぐ三日月だけを見ていた。
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