琉球神舞

国仲

一話 八重山の孤児

 東シナ海と太平洋の狭間に、琉球という海洋国家がある。


 北東には一世紀半続いた内乱を治め、満を持して外海に目を向けた大和やまとの国があり、西には古くから東アジアの雄として文化や経済を牽引けんいんしてきたみんがある。

 その二つの大国が生み出す巨大な潮流ちょうりゅうに翻弄されながら、琉球は独立国として広大な海域を支配下に置いていた。


 遠く離れた南西の海に佇む八重山やえやま――現代では石垣島と呼ぶ――も、琉球の版図はんとに組み込まれた島の一つだ。大和や明から見れば米粒のような小島だが、琉球国内においては最高峰である於茂登岳おもとだけを有している。


 は、いつものように於茂登岳おもとだけの山頂から一歩踏み出した。雲ひとつない空の青に全身が溶けていく。特に用事もないのでそのまま風に身を委ねていると、海岸に面した新川あらかわ村の上空に差し掛かった。


 陽射しの反射光が海面をきらきらとまたたかせる。水平線の先には竹富島が霞んで見えた。季節は若夏うりずんだ。まもなく最盛期を迎える瑞々しい草葉が、空に向かって力強く背を伸ばしている。


 西暦一五〇〇年。琉球王府は八重山で広く信仰されていた土着どちゃく神、「火喰ひくいの神」を邪教と断じ、祭祀さいしの一切を禁止した。八重山は反乱軍を組織し抵抗したものの、王府から三千もの兵が投入され、首謀者は一族郎党皆殺しとなった。


 これは琉球の正史に記された唯一の宗教紛争だ。首謀者の名をとり、「オヤケアカハチの乱」と記録されている。


 そのいくさから百年余りが経った。紛争後も秘密裏に信仰が続けられたが、王府による度重なる弾圧を受け、やがて当時生きていた島民もいなくなると、の存在はすっかり忘れ去られてしまった。


 は空から新川村の一角を見下ろした。何人もの村人が仕事に精を出している中で、畑を耕す一人の少女が目についた。羽織っている袖のない着物はところどころ破れ、薄汚ない。


 彼女の名は真南風まはえ。歳は十二になる。


 子供が一人で耕すには広大な畑だ。その証拠に、額の汗を拭う手の皮はめくれ、肉の表面にマメができている。しかし血が出ていないことから、その状態が彼女にとっての常であることがわかる。


 過酷な労働をこなしているにも関わらず、真南風の表情は晴れやかだ。身の丈の三分の二ほどもある大きなくわを手足のように使いこなしている。

 土を刺す音の間隔は一定で、一拍の狂いもない。その規則的な律動りつどうに蝉の合唱が乗ると、もはや立派な演奏と化す。自前の音楽で体を揺らす真南風は、苦役を楽しむすべと精神性を身につけていた。


 その微笑しい姿に、通りすがりの薪を背負った青年も思わず笑顔になった。真南風の頭上でふわふわと浮かぶもなんだか楽しくなってきて、つい踊り出してしまう。


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 そんな中、三十代半ばの女性が肩をいからせ足早に歩いてきた。鬼の形相で真南風に詰め寄ると、躊躇ためらいなく頬を殴った。


 骨と骨がぶつかる鈍い音がした。真南風の小さな体が土の上を派手に転がる。伴奏を失った蝉の声が虚しく響いた。


 青年はぎょっとして立ち止まったが、女性にひと睨みされると震え上がり、逃げるように去っていった。踊りの気配が消えたので、も風と共にその場から流れて行ってしまった。




 殴られて畑に伏した真南風は、真っ先に「土が冷たい」と思った。南国の陽射しを浴びた土より、早朝から鍬を振り続けていた自身の肌の方が熱いのだ。やがて土の香りは鉄の匂いに変わり、流れ出る鼻血が畑に吸われていくのに気付いた。


「真南風! 遊んでないで働きなさい!」


 女性の怒鳴り声が降ってきた。真南風は鼻血を手首で拭い、体を起こす。


「伯母さん、私はちゃんと仕事をしておりました」


「足りないね。もっと、もっと死に物狂いで働くんだ。そんなんじゃ今年の年貢を納められないよ」


「それなら、伯母さんも一緒に耕してください……」


「私にはやることがあるんだよ」


 伯母さんのやることとは、蔵元くらもとの役人に媚を売ることですか?


 真南風はそう尋ねようとして、思い留まった。そんなことを言ったらまた殴られてしまうだけだ。


 蔵元とは、琉球から派遣された役人が常駐する出先でさき機関だ。主に離島の行政や司法を目的としているが、彼らが何よりも重視しているのは島民の収穫量の把握である。貢物を少しでも多く取り立てるために、どれだけ蓄財があるかをめざとく監視しているのだ。


 伯母は真南風に仕事を押し付け、頻繁に蔵元に出入りしている。日中はほとんど家にいない。噂によると役人の愛人をしているらしい。村の者が、伯母が八重山上布やえやまじょうふを贈り物として役人に渡しているところを見たという。

 伯父は海人うみんちゅだ。年の三分の二は海にいるので、伯母の不貞に気付くことはない。


「畑を耕した後は水汲みだよ。その後は薪拾い。墓掃除もある。帰ったら夕餉ゆうげの支度だ。日が暮れる前に全て終わらなかったら飯抜きだよ。ほら、いつまでも座ってないで立ちな。本当に出来の悪い子ヤナワラバーだね」


 真南風は無言で立ち上がった。いい年して実の子も持たず、他人に仕事を押し付け、不貞の恋に胸を躍らせながら織物をする伯母を想像すると反吐が出そうだった。


「何だいその顔は。不満でもあるのかい? 孤児のお前を育ててやってるというのに」


「……いいえ、申し訳ありません」


 真南風が頭を下げると、伯母はふんと鼻を鳴らし去っていった。真南風は作業を再開したが、くわ捌きに先程までの小気味良さはない。彼女を取り巻く空気が澱んでいた。


 真南風は物心ついた頃から伯母夫妻の家で育った。実の両親は出稼ぎのため那覇なはにいると聞かされていたが、五歳のときに母が病で亡くなり、七歳の誕生日には父が乗っていた船が難破なんぱして行方不明になったと告げられた。一度も両親に会ったことはない。



 畑作業を終えた真南風の次の仕事は水汲みだ。勾配こうばいの険しい坂道を上り、井戸カーに向かう。

 八重山は狭い土地面積の割に高い山があり、かつ頻繁に津波で陸地を削られるため、斜面が多いのが特徴だ。


 井戸では玉皿たまざらが水をすくっている途中だった。生まれて七ヶ月になる息子を背負っている。


「真南風、顔色が悪いねえ。これ食べなさい」


 玉皿は真南風のやつれた顔を見て、月桃げっとうの葉に包まれたムーチーを手渡した。隣の家に住む玉皿は姉のような存在だ。伯母に虐められる真南風をよく助けてくれる。


「いいの? ありがとう! お腹が空きすぎて倒れそうだったの」


 月桃の葉を剥くと、解き放たれた芳醇ほうじゅんなもち粉の香りが鼻腔をくすぐった。昨夜から何も食べていなかった真南風は、勢いよく餅を頬張った。


「おいしい……! さすが玉ねえ、むぐっ」


 喉を詰まらせる真南風の背中を、玉皿が笑いながら叩く。完食するのがもったいなくて、真南風は半分だけを食べ、残りは懐にしまった。


 水汲みを終え、玉皿と一緒に井戸の横にある御嶽おんに御拝した。


 御嶽とは琉球における聖域のことである。主に木や石などが神の依代よりしろになるとされ、八重山島内にはおよそ四十ほどが点在している。この真乙婆御嶽まいつばーおんの依代はアコウの木で、細い幹が複雑に絡み合った大木だ。


 八重山の御嶽としては比較的歴史が浅い。百年前のオヤケアカハチの乱で手柄を挙げた神女ノロ真乙まいつを祀っている。


 御拝を終えて帰ろうとした真南風を、玉皿が呼び止めた。


「真南風、忘れてるよ」


「……うん」


 真南風は御嶽の横にある蝸牛つだみはかを踏んだ。通常の墓とは違う造りで、平らな墓石が地面に埋め込まれている。


 八重山では真乙婆御嶽で御拝をしたらこの墓を踏むことが慣例となっていた。ここで眠るのは真乙の妹、古乙くいつ。反乱軍の首領だったオヤケアカハチの妻である。


 真南風はこれをするたびに胸がざわついた。先祖崇拝せんぞすうはいが根強い島人は、死者の尊厳を生者よりも丁寧に扱う。すなわち墓を踏むとは最大級の侮辱行為だ。縁のない人間だとしても強い抵抗がある。しかし幼い頃から義務として繰り返していると、人は思考を放棄し、罪悪感は薄れてしまう。


 姉妹でありながら姉の真乙まいつは神として祀られ、妹の古乙くいつは逆賊の妻として尊厳を踏みにじられている。真南風はそれに慣れた島人たちと、慣習に従ってしまう自分が怖かった。


「今夜、浜遊びもーあしびーするんだ。真南風もおいでよ」


 帰路につく道中、玉皿が楽しげに言った。浜遊びとは男女が浜辺に集まって歌や踊りを通し交流を図ることだ。現代で言う合コンである。


「玉ねぇ、旦那さんの喪中もちゅうじゃないの?」


 玉皿の夫は子供が生まれた直後、海難事故で亡くなっていた。


「そんなこと気にしてられないさ。この子を食わしていかなきゃならないもの。島の男は情に厚いからね。一度でも関係を持ってしまえばこっちの手駒さ」


 背中の息子はすやすやと寝息を立てている。玉皿は夫を失った悲しみをとっくに乗り越え、したたかに、この幸せな寝顔を守っているのだ。


「そうだ真南風、私たちで男どもをおだてて魚を獲らせよう。わざと男同士が競うように仕向けるのがコツだよ。お腹いっぱい食べられるよ」


「お腹いっぱい……」


 浜遊びの経験は無いが、たまに遠目に見かけるので興味はあった。それにお腹も空いている。最後に満腹になったのは遠い過去の話だ。


「真南風は顔立ちが整ってるし、赤毛もかわいらしいさ。おめかししたら絶対美人ちゅらかーぎーになるよ。仕事が終わったらウチにおいでよ」


 真南風の放射状に伸びた赤毛は、野生味があってキジムナーを連想させる。一方、玉皿の艶々とした黒髪は木のジーファーでちょこんと結われ、品が良い。垂らしたままの髪が当たり前の八重山において、玉皿のような身なりに気を遣った女性は珍しい。

 真南風が抱える桶の水面に自分の姿が映る。玉皿と見比べて恥ずかしくなった。


「ごめんなさい。行ってみたいけど、明日も朝早くから伯母さんに仕事を命じられてるから」


 真南風が断ると、玉皿は「あのあばずれ女、真南風ばかり働かせて本当腹立たしいね」と憤慨した。


 自分のために怒ってくれる、その気持ちが嬉しかった。顔も名前も知らない両親や意地悪な伯母なんかより、玉皿の方がよっぽど親身に感じられた。



 帰宅するや否や、真南風は伯母にぶたれた。着物の内側に隠していた餅が見つかったのだ。


「他人から恵んでもらうなんて、まるで私が飯を与えてないみたいじゃないか。これは没収だよ」


 真南風はぶたれた拍子に桶を落とした。水がこぼれたため、再び井戸まで汲みに行かねばならなくなった。もう「日暮れまでに全ての仕事を終わらせる」という要求は守れない。本日の飯抜きが決まった。


「悔しいかい? 恨みたいなら恨めばいいさ」


 伯母が見下ろして言った。何を考えているのか分からない。なぜこんなことをするのだろう。


 今すぐ逃げ出したかった。でもこの小さな島に逃げ場なんて無い。一人で生きる強さも生活力もない。山に逃げれば猪の餌になり、海に逃げれば時化しけに飲まれて藻屑もくずとなる。伯母を恨みながら、ここで生きるしかないのだ。



 全ての仕事が終わったのは、とうに日が沈み、ふくろうの鳴き声と鈴虫の音色が交互に聞こえる夜半だ。

 真南風はアダンの葉を食べて空腹を紛らわせたが、毒抜きが不充分だったようで、お腹を下した。


 腹痛で眠れないでいると、どこからか三線の音と笑い声が聞こえてきた。真南風は寝静まった伯母に気付かれないようにそっと家を抜け出し、木陰から浜辺を覗いた。玉皿を含めた数人の男女が松明たいまつを囲み、踊っている。浜遊び中のようだ。


 玉皿の簪が炎を煌々こうこうと反射させていた。昼間は木の素材のものを刺していたのに、今は上等な真鍮しんちゅう製だ。琉球は身分によって身に付ける簪の素材が決まっているが、八重山にはまだその文化が根付いてなかった。


 真南風の目には真鍮の輝きが滲んでみえた。下っ腹が唸り声をあげるので、強く手で押して気を紛らわした。


 青春を謳歌する玉皿たち。一方、真南風は木陰で涙ぐみながら腹痛に悶えている。


「何でこんなに惨めなんだろう……」


 玉皿がかわいらしいと褒めてくれた赤毛を指でいてみた。何度も枝毛に引っかかり、指はついに毛先から抜け出せなかった。


 男が弾く三味線に合わせて、玉皿が八重山民謡の『桃里節とうさとぶし』を歌っている。澄んだ音色に乗せた歌詞の一節が、真南風の胸に沁みた。


『赤ゆらぬ花や

 二三月どぅ咲ちゅる

 我がけーらぬ花や

 いつぃん咲ちゅさ』


(でいごの花は

 二、三月ごろ真紅に咲くが

 私の青春の花は

 四季を通して咲いている)


 こらえていた涙が溢れ、頬をつたう。


 日々労働に追われる真南風に、きっと青春は来ない。来るとしたら伯母が死んだときだ。そんなことを考える自分が嫌だった。他人の死を願うくらいなら、自分が死んだほうがましだと思った。


 真南風は踊った。身体の内側でじりじりとくすぶる悲哀の灯火を、手首の返しと共に夜空に吐き出す。


 挫けそうになる夜は月に向けて踊るのが彼女の習慣だった。体が生み出す律動と脳内で奏でる三線の旋律は、真南風のかなしい境遇を慰めてくれた。


 彼女の踊りの気配を察知したがどこからともなく寄ってきた。


 人の目には見えないが隣で踊っているなどとはつゆ知らず、真南風は星空の海をゆっくりと漕ぐ三日月だけを見ていた。



https://kakuyomu.jp/users/shinkq7/news/16818093073488636439

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