2話

 朝早いアラームを一度止めて再び瞼を下ろし、そうして二度目に覚めてまず視界に入るのは金木犀の刺繍があしらわれた柔らかい黄色のカーテンだ。あくびをしながらシーツから抜け出してエアコンを消し、窓を開けると微かに波の音が聞こえてくる。清々しい快晴というわけではないが、深呼吸をすればとても気持ちが良くて、まるで町が自由な私を祝福しているようだった。

 ベッドに再び寝転んで、スマホを立ち上げ画面録画を再生する。少しだけ早起きして昨日の君の活躍を見返す。これが最近できた、私の日課だった。

 君は画面の向こうで、月明かりを背景に内臓の塊のような化け物と対峙している。脈をうつその肉塊から目玉がギョロリと現れたかと思うと君を捉え、君に向かって体を引きずっていく。その図体から出る速度とは俄かに信じ難いほどのスピードだった。

 君はそれを俊敏な動きで避けると、化け物は勢いを殺せないままブロック塀にぶつかって水っぽい音を立てる。化け物が体勢を整える前に、君は腰に装着していた銃を構えて目玉に打ち込んだ。化け物は奇妙な叫び声をあげて崩れ落ちていく。その上に立って初めて現れた日からずっと続けているお決まりのポーズをとる君を映して、そこで映像は終了した。

 端末の電源を落として目を閉じ、「ありがとう」と囁く。それだけで私の心は満たされて、どうしようもなく幸福になれるのだ。こんな黄色の部屋だって、何とも思わないくらいに。

 リビングからパンの焼けた良い匂いが漂ってくる。勉強机横のハンガーラックから制服を取って着替え、学生鞄に課題のプリントを入れたファイルがちゃんと入っているか確認し、私は部屋を出る。

 朝の七時。三人で囲む食卓はとても静かで穏やかだった。

「このジャム美味しいね。ラベル無いけど、どこの?」

「ああ、ふふ、今朝ご近所さんに貰ったの。手作りなんですって。毎日食べてたら飽きちゃったのが本音だけど、これ食べて元気出して、って。優しい人よね」

 他愛のない会話をしながら朝食を終えて、食器を洗ってから洗面所に向かった。顔を洗って、歯を磨いて、寝癖を整える間、当然鏡の中には同じ動きをする私がいる。ふと思いつき口角を上げてみると、歪な笑顔だ。数分格闘して、やっとできた柔らかな微笑みのあまりの既視感に吹き出してしまった。

「そろそろ行くね」

 黄色い弁当箱を受け取りながら、私はついさっき鏡の前で作った顔を母に披露する。

「行ってらっしゃい、琴音」

 母は微笑む。目の下の隈は濃く、自分で引っ掻いたらしい首や頬にはまだ赤い傷がたくさん残っている。

「うん。行ってきます」

 七月七日。いや、実際には七月二十日の暑い日。

 姉の靴を履き、私は軽い足取りで玄関を出た。


 1


 姉が死んでから、変わったことがいくつかある。

 一つは、カラス頭の人間が居なくなったことだ。姉という恐怖が存在しない今、周りの人間をカラスにしておく必要がないと判断したらしい私の頭は、呆気ないほどあっさりと世界を元通りにした。姉と私の顔の違いなんてほとんど無かったから一人一人違う顔を持った他人というのが新鮮で、そしてそれを見つめても姉が奪わないという安心感も手伝って、気をつけなければ人の顔をまじまじと観察してしまう癖がついてしまった。

 二つ目は、母だ。母はとても可愛がっていた姉が死んだことを受け入れられず、姉が死んで数日間はサイレンの音に泣き叫んでいたが、姉ではなく私が死んだことにしてなんとか心に折り合いをつけたようだった。

 本人から直接そうだと聞いたわけではないが、七月七日を繰り返す町で葬儀なんてできない上に、墓も作れないし、遺体を家に置いておくわけにもいかないし、他に場所もないから、姉の体は腐り落ちるまであの公園に放置するしかないと警察に言われた時が、母の正気の目を見た最後だったように思う。

 狂ったように叫び、暴れ、やっと落ち着いた辺りから私のことを「琴音」と呼び始め、周りが訂正する度に泣いて暴れる様子を見て察した。私の部屋にはほとんど物が無いし、背格好が同じ姉と持ち物を交換したって何ら問題がない私はそれを受け入れている。父は時折そんな私に何か言いたそうにしているが、やっと落ち着いた母をこれ以上傷つけたくはないのだろう、やはりだんまりを決め込むだけだった。

 そして最後に、これだけは正直、迷惑している変化なのだが──

「蜂谷先輩、おはようございます!今日こそお話聞かせてもらいますからね」

 蝉の声が騒がしい朝に、それを軽く上回る高音が突き刺さる。眉間に皺を寄せる私の前にカメラのシャッター音と共に登場したのは、その小さな体にはひと回り大きいサイズの体操着を着た少女だ。腕には痛々しい痣があり、頬の絆創膏は日に日に増えている。ショートカットの黒髪を無理やり高い位置でツインテールにして、メガネ越しの大きな目を輝かせながら見上げてくるその姿は元気な小学生を連想させるが、実際は一つ年下の高校一年生だ。

「おはよう。どいて」

「嫌です。ヒーローとあの日何を話したのか、聞かせてくれないと退きません!」

 彼女は山野という──下の名前は知らない。新聞部に所属していて、毎日面白そうなものを探して町中を走り回っているらしい。

 そんな彼女には、姉の救出に間に合わなかったヒーローに怒るどころか、なぜか感謝して抱きしめた私がとても魅力的なネタのように感じられたのだろう。あの日から、毎日こうして付き纏われるようになってしまった。

 今日は捕まらないようわざわざ遠回りの裏門から入ったというのに、目の前に鼻息荒く仁王立ちする彼女にため息が出そうになる。私たちを避けて駐輪場に入っていく生徒たちの不思議そうな視線が痛かった。彼女を避けて通ろうと思ったが、私の動きに合わせて立ちはだかってくるためそれは叶わないらしい。仕方がないので体当たりをして突破した。

「痛あ!強行突破は酷いですよ先輩!」

 早歩きで進む私の隣を「このカメラ壊れたらどうするんですか、これすぐにスマホにデータ飛ばせるやつで、高いんですからね」と彼女は小走りで着いてくる。

「止まってくださいよう」

「止まらない。ホームルームに遅れる」

「じゃあもう歩きながらでも良いです。インタビュー始めますね〜」

 山野はポケットから何かのキャラクターが描かれたメモ帳とペンを取り出した。どちらも傷や汚れがついてくたびれており、常に持ち歩いているのが見てとれる。しかし彼女はすぐメモをしたって意味がないと気づいたのか、スマホを取り出しメモ機能を立ち上げた。

 彼女が所属する新聞部が不定期に発行している「海窓新聞」は、設部当初から校内の情報をまとめたものではなく、この町のあらゆる場所から面白そうな話題を探して掲載するというスタイルを続けているらしい。そして町の誰でも手に取れるよう校門前に箱を設置して配布しているのだ。私は一度もそれを手にしたことは無かったが、校内外にファンが存在していると姉に聞いたことがある。

 元々部員たちは熱心に部活動をしていたが、新しい娯楽が生まれなくなった今、この町の心の支えになれたらと六人の部員全員が今まで以上に活動に力を入れ、今はリセットされる紙に印刷することなく繰り返しが介入しないSNSで掲載しているのだと山野は誇らしげに語っていた。いや、無視していたのだが一方的に語られてしまった。志は素直に立派だと思うが、その熱心さが今は鬱陶しい。せっかく長く囚われていた檻の外に出たというのに面倒な網に絡まった鳥のような気分だ。

 それに山野の話を聞いていると、人の為という大義名分を背負って気が大きくなっただけの自分の好奇心を満たす行為でしかないようにも思えた。

「今日こそ、ヒーローを抱きしめるに至った経緯を聞きたいですね」

「助けてもらえて、テンションが上がってただけ」

 何度も聞いた質問に、全く同じ解答をする。嘘はついていない。しかし彼女は今日もあまりにも単純な理由に納得してくれないようで、頬を膨らませている。

「髪型も制服の着方も、持ち物だって揃えてたくらい仲良しだった姉の救出が遅れた事に対して、何にも思わなかったんですか?」

 私が返す無言を彼女は肯定と見做したらしい。奇妙なものでも見るような視線を向けられる。姉と私の気持ち悪い関係を彼女に説明しても理解してもらえるとは思えないし、そもそも理解してもらいたいとも思わないから私は姉との関係を誰にも話すつもりは無かった。

「ヒーローを恨んでないんですか?」

「恨んでない。感謝してる」

「助けてくれたのはありがたいでしょうけど、でももう少し早ければ!って、ちょっとは思いますよね?お姉さんと手を繋いで登校してたって目撃情報ありましたよ。仲が良かったんでしょ?」

 私は立ち止まって山野の目を見る。彼女は少しだけ怯んだが、その好奇心に満ちた目は揺るがない。厄介だなと思った。

「まあ、良いです。じゃあ次の質問で。警察署……はこの町には無いんでしたっけ。あの後警察に連れて行かれて、交番で先輩とヒーローは何を喋ったんですか?」

「山野が欲しそうなことは、特に何も喋ってないと思う」

「分かんないじゃないですか!教えてくださいよ」

 警察が困惑しながら私と君を引き剥がし、パトカーに乗せた時のことを思い出す。一人が自転車、もう一人はパトカーに乗ってやってきた警察官二人は、片方は現場に残ってもう片方は私たちを交番に連れて行った。放心している君、姉が目の前で死んだとは思えないほど笑顔の私、そのどちらにも怯える警察官という異様な車内の空気は最悪だったが、あの時の私にとってはどうでも良かった。

「ヒーローは故意に琴音の救出を遅らせたわけじゃないことを確認されて、頷いたところで解放されてた。私は身元の確認だけされて家に送ってもらった。それだけ」

「ええ、つまんない!ヒーローと何も喋らなかったんですか?」

「うん」

 姉を助けられなかったことが酷くショックだったらしい君は、どこかずっと上の空だった。君を怖がっていた様子の警察官に幾つか質問された後、「あなたはもう帰っても良いですよ」と言われて、交番を後にする直前に、私の前に膝をついた。私が「感謝してるし、君は何も悪くない」と言ってもしばらく「ごめんなさい」と消え入りそうな声で謝っていたが、それは山野に話すことではないだろう。

「絶対嘘だあ。嘘じゃなくても、インパクトないなあ。せっかく初の犠牲者を目の前で見て、しかも妹なのに、記事にするには淡白すぎますよ。ヒーロー初の犠牲者!悲しみに暮れる妹に直撃インタビュー!みたいな見出しにしたかったのにな」

 気づいてはいたが、山野は相当図太い精神がありデリカシーというものが欠落しているらしい。私が姉を好きでは無かったから良かったものの、本当に仲の良い姉妹に同じことを言えば頬の一つは叩かれるのではないだろうか。

「私は一度も記事にしていいなんて言ってない。それに、ヒーローが見たら悲しむような記事も書かないでほしい」

 間に合わなかったと分かった時の、君の悲痛な声を思い出す。そんな君を追い詰めるような記事を書こうとしている山野が、私には邪悪なものに見える。話している間に教室前に到着した私はこれで話を終わりにしようと扉に手をかけるが、その手を山野に掴まれてしまって開くことは叶わなかった。

「本当にヒーローは悲しむと思いますか?」

 山野はニヤリと笑う。

「大怪我をしても一日後には完全復活。常人離れした身体能力を持っていて、助けてって呼べばどんなに小さな声でも、どこにでも駆けつけて来る。ヒーローは明らかに人間ではなくて、むしろ化け物に近い存在なんじゃないかって思うんです。というか、侵略者そのものなんじゃないかって噂ですよ」

 そういう噂があるというのは姉に聞いていたから驚かない。それに、薄々私もそうだろうなとは思っていたのだ。確証を得たところで現状はどうにもならないし、「ヒーローを応援する」という侵略者が課した役割から外れてしまいそうで考えないようにしているだけで、きっと町中の人間がそう思っているだろう。

 私は、君の正体と目的が何であっても、どうでもよかった。私の檻を壊してくれたのは君で、それは揺るがない事実なのだから。

「もしヒーローが侵略者本人だって確信できたとして、それで何になるの?」

「何にもなりませんよ、ただ私の好奇心が満たされるだけです。それだけ?って顔をしましたね。それだけなんですよ、私にとって大切なのは」

 山野の大きな目が私を射抜いている。居心地が悪くて視線を逸らすが、彼女の目の輝きは増していく一方だった。

「新聞部は最高ですよ、先輩も入っちゃいます?好奇心のままに生きても、この町で唯一ペナルティを気にしなくていい部活なんです」

「どういうこと?」

「『いつも通り』を外れてないからですよ。今までずっと、新聞部は自分の好奇心の赴くまま取材をしていました。だからこれからも、自分の興味に忠実に生きていけるんです」

 彼女の声が段々と大きくなり、鼻息も荒くなり始めたところで予鈴が鳴る。まだ話し足りないという顔をする彼女に「これ以上話すことはないから、もう構わないで」と言い捨てて教室に入った。

 朝からハイカロリーな物を無理やり食べさせられたような疲れが全身を襲って、その日の一限は生まれて初めて居眠りをしてしまった。先生は姉を失ってひと月も経っていない私が気を病んで寝不足になっていると勘違いしたのか、それを咎めることはしなかった。


 昼休み、弁当箱を取り出そうとしたところで、席の持ち主が食堂へ行って空席になっていた目の前の席に山野が座る。当然のように私の机に椅子を寄せる彼女を冷ややかな気持ちで見つめた。

「これ以上話すことはないって言ったと思うけど」

「まあまあ。先輩、どうせ一緒に食べる人いないでしょ、一緒に食べましょうよ」

 彼女は持ってきたビニール袋からクリームパンを取り出して、小さな口を大きく開けて齧った。頬いっぱいにパンを詰め込んで咀嚼する様はハムスターにとても良く似ている。

「あれ、今日はパンじゃないんですね。ここ最近購買で見かけませんでしたけど、弁当派になったんですか?」

 あの子のためにパンを買いに行っていたところを見られていたらしい。彼女と会話をするとドッと疲れてしまうことを身をもって知っている私は、彼女の問いかけを無視して弁当箱を開けた。オムライスに、冷凍のたらこパスタとブロッコリー。食事に対して美味しそうだ、と思える喜びを噛み締める。姉への恐怖心は自分で思っていたよりも大きく私の生活を蝕んでいたらしく、私は食事にさえ関心を向けることを恐れていた。だから姉が死んでからというもの毎食が幸せだと感じるようになった。

 七月七日の冷蔵庫が繰り返される中で作れるレパートリーはあまりないと母は言うけれど、同じものが続いたって私にとってはご馳走だった。今日も目の前のオムライスへ浸りたいのだが、目の前の彼女がノイズとなってうまく味わうことができない。甚だ迷惑である。

「まあいいや。先輩、明日から夏休みですけど、どこか行く予定はあります?」

 私は夏休み全部使ってヒーローの謎を探ろうと思いますよ、先輩もどうですかとまた鼻息を荒くするが、私は無言を貫く。小さな体に似合わない大きな声で騒ぎながら一方的に喋り続ける彼女とそれを無視して黙々と食べ進める私が気になるのか、クラスメイトが数人ちらちらとこちらを見ていた。

「お喋りしましょうよ〜、一人で喋ってるの悲しいんですけど!」

「……」

「じゃあ最近私が発見したこの町のルールをクイズ形式で教えちゃいます。新聞に掲載済みなんですけどね。どうせ新聞読んでないしクラスの話題も興味なさそうだし、新聞部が情報を回してるSNSもしてないか見てないでしょ、先輩」

 ずいぶん棘のある言い方だが、こんなに情熱を注いで作っているものに全く興味がなさそうな人間が目の前にいるのだから仕方ないのだろうなと他人事のように思う。実際は、そうでもないのだけど。

「一問目です。ジャジャン!ヒーローは呼ばれたら些細な困りごとでもすぐに駆けつけて助けてくれますが、一度だけ『僕には無理、他をあたって』と解決しないまま帰っていったことがあります。それは何故でしょう」

「夫婦喧嘩の仲裁に呼ばれたから」

「おお、正解ですよ。では二問目。ジャジャン!ヒーローが一度だけ新聞部の取材に応じてくれたことがありました。『ヒーローはなぜ素顔を出さないんですか』という質問をされたヒーローはなんと答えたでしょう」

「『僕のこと、あんまり良く思ってない人も、怖いと思ってる人も居るって聞いたし、正直なところその感覚の人の方が多いと思う。気持ちはわかるし、それを責めたりもしないよ。町中で僕を見かけたら怖くなっちゃう人も居ると思う。それは申し訳ないから、できるだけそう言った人たちの前には表れたくないと思ってるんだ。でも、猫が好きだから日課の散歩は続けたい。だから素顔は隠したままにして、素顔で散歩してるんだ。この先も明かすつもりはないよ。──え?ああ、時折ヒーローの姿で散歩しているときは、高いところにボールを投げて取れなくなっちゃった子に呼ばれた時とか、化け物とは関係ない助けを求められた後だよ。人が多い時間帯なら一旦返って変身を解いて素顔で散歩に出かけるけど、少ない時間帯ならそのまま散歩しちゃったりするんだ』だったはず」

「どっちも正解じゃないですか。二問目に関してはほぼ完璧で気持ち悪いですし。もしかして新聞読んでくれてたんですか?」

「姉が海窓新聞がSNSで更新されたら全部保存していたことを思い出して。それを毎晩、ヒーローに関する記事だけ読み込んでる。最近の記事も、姉のアカウントから見てる」

「お姉さんの遺品……悲しくならないんですか?」

「少しも」

「本当にお姉さんのことどうでもいいんですね。あんなに仲良さそうな目撃情報あったのにな。でもそこが面白い!良いですね先輩、私、ヒーロー絡みだけじゃなくあなた個人にも興味が湧きました。ね、友達になりましょうよ」

「……」

「だめかー」

 オムライスの中身はグリーンピースと細かく刻まれた人参、それからささみ肉だ。口に入れるたびに、バターのいい香りが広がった。再び口を閉ざした私に山野は果敢にも話しかけ続けるが、今は弁当を堪能するのに忙しい。

「他にも先輩の興味をひきそうな話題は……うーん……。あ、最近、新聞部全員で『いつも通り』がどの辺りまでか探るべく、命をかけた検証をしているんです。一段階進むごとに新聞に掲載しているんですけど、それも知ってますか?殴り合いの大喧嘩とか、窓を割ってみたりもしましたけど、特に何のお咎めもありませんでした。新聞部だからなのか、それとも『いつも通り』の範疇だからなのかわかりませんが、そこは今調査中です」

 彼女の腕の痣や頬の絆創膏は、それが由来なのだなとどうでも良いことに合点がいく。

「命懸けって、死んでも良いの」

「そりゃまあ、死にたくはないですけど。でも私がそのデッドラインを超えた最初の人間になれるのは何だかワクワクしますよ」

「ペナルティが、町全体に課されるものだったらどうするの」

「その時はその時です。みんな仲良く死にましょうね」

「理解できない」

 顔を顰めると、彼女はニンマリと笑う。喋り続けているのにどのタイミングで咀嚼し飲み込んでいたのかもうクリームパンを平らげて、購買横の自販機で売っている甘い紅茶にストローを刺した。甘党なのだな、と関係のないことを考える。

「もう、先輩ったらすぐ黙り込んじゃうんだから。いっぱいお喋りしましょうよ。はあ、他の話題を用意してあげます。えーと、あ、そうだ。先輩のお姉さんが殺された時の中継見てましたけど、寝転んでた先輩の隣に、カラスの死骸が置いてありましたよね?あのカラスは何だったんです?」

 箸で掴んでいたブロッコリーがボトっと弁当箱の中に落ちる。

「お、それです。私の求めてた反応は」

 癖なのだろう。山野の手が首からかけているカメラに伸びている。

「……友達、だったと思う」

 頭の奥で、カアカアとあの子が鳴いている。

「え?」

 歯切れの悪い返答に山野は怪訝な顔を一瞬だけ見せて、すぐに笑顔に戻り「何ですかそれ、面白そう!詳しく聞かせてください」と好奇心の塊を突きつけてくる。私が再び沈黙すると、彼女は分かりやすくむくれた。

「また無視ですか?ちえ、つまんないの」

 彼女が立てるストローの音を聞きながら、私は最後に見たあの子の姿を思い出す。

 事情聴取を終えた警察官が「家まで送りましょうか」と親切な申し出をしてくれるのを断って、警察官と共に再びあの公園へ立ち入った。

 そこには姉を慕う人たちと、両親の姿があった。中継で事の顛末を見ていたのだろう。皆泣いていた。母なんて見ていられないほどの取り乱しぶりだった。警察官は気まずそうに姉の死体を綺麗に並べていて、私がご苦労様ですと声をかけると驚いた顔をしていた。

 姉の死体の横に沈むあの子の死骸を見た。もう傷口には虫が集っていて、姉の方を先に食べてくれたらいいのにななんて思う。

 あの子を眺めている間、目がカラカラに乾いていることに驚いてしまった。

 あの子の目ではなく、私の目の話だ。

 私はあの子のために泣けなかったのだ。あの子が奪われたと理解した時、体がバラバラになりそうなほどの悲しみに暮れたのに、あの子の死骸を前にしてそんな感情は一切湧いてこなかった。

 もちろん寂しさは多少あったが、それだけだ。私はあの子を姉に反抗している気分に浸るための装置のようなものとしか思っていなかったのだと気づいてしまって頭を抱えた。私は姉に壊されていた感情の全てを今から取り戻せるのだろうかと思いながら、泣き喚く周りの人々の中で取り残されたような疎外感に襲われた。

 あの日から、私はあの子に会い行っていない。

「なんか暗い顔してるとこ申し訳ないんですけど、先輩、さきちゃん先生が呼んでますよ」

 暗い公園に思いを馳せていた私は山野のその声に慌てて顔を上げる。山野の隣にはいつの間に居たのか担任である佐々木が困った顔をして立っていた。佐々木は生徒に友達のような接し方をされており、「ささちゃん先生」なんて呼ばれては困った顔で控えめに注意をしているような気弱な新任数学教師だ。

 侵略者がやって来てから最初の授業なんかはとても酷くて、あんなに人間は怯えて震えることができるのだなと感心するほどの怯えっぷりであった。もちろん町の全員が「いつも通りにしなければ何が起こるかわからない」という恐怖に駆られて恐る恐る外に出てきた状態であったから、気持ちが分からないわけではないが、その見事なまでの怯えっぷりに見ているこちらが冷静になってくる始末だった。

 カラス頭で当時はどんな表情をしていたかはわからなかったが、姉が「ささちゃんの怯えた顔、本当に凄かったよ。クラスメイトも怯えてる子はいっぱいいたけど、そんなの比じゃなかった。私でさえちょっと悪寒が走ったもん。パニックホラー映画とかに出たら良いのにね、きっと売れるよ。静音にも見せたかったな〜。……やっぱりだめ」などと呑気に言っていたことを思い出す。

 用件を聞くために「何ですか」と声をかけると、なぜか怒られたかのように縮こまってしまう彼女の胃が心配になってしまう。

「蜂谷さん、同前先生から、放課後美術準備室に来てくださいと……伝言で……」

「分かりました、ありがとうございます」

 これ以上の要件は無いだろうに、佐々木はそこを動かない。「どうしましたか」と聞くと、佐々木は「お願いが、あって……」と、何もしていないこちらが悲しくなってしまうような萎れた顔をする。

「何ですか?」

 佐々木は少し考えた後で、山野に聞こえないよう私の耳に唇を寄せて、クラスメイトたちの会話ですぐにかき消されてしまうような声を出した。

「同前先生とお話しした後、何を言われたか教えて下さい」

 どういう意図があっての頼みなのだろうかと不思議に思いながらも了承すると、彼女はほっとしたような顔をして深く頭を下げ、ワタワタと教室を出ていく。

「ちょっと先輩、目の前で内緒話なんてされたら気になっちゃうでしょ。何言われたのか教えて下さいよ。暴れ出しますよ!」

「暴れないで。同前先生との話の内容を教えてって言われただけ」

「ええっ!先輩、それは恋ですよ!授業以外ではほとんど学校内で見かけないし、滅多に生徒を呼び出さないどころか先生たちとさえ最低限の会話しかしてないあの同前先生がいきなり先輩を呼び出した理由が、さきちゃん先生は気になって仕方がないってことですよね?もう、そういうことじゃないですか!前髪上げたらかっこいいなんて噂も流れてますけど、同前先生も隅に置けないんですねえ」

 山野の話を適当に聞き流しつつ「同前先生」という聞きなれない名前に首を傾げていると、ビニール袋にゴミをまとめた山野が意地悪そうな笑みを浮かべている。

「同前先生の名前にピンと来てませんね?ほら、一年と三年にある芸術選択科目の美術担当の先生ですよ。授業がない時間は美術準備室に籠って、毎日閉門ギリギリの十九時まで絵を描いてるって噂の……。ああ、先輩は音楽を選択してたからほとんど面識がないんですね?ちなみに忘れてるみたいですけど、美術部顧問です。先輩、美術部サボりすぎて怒られちゃうんじゃないですか」

「……部活動も授業選択も、どうして知ってるの」

「取材させてもらう人のバックグラウンドは詳細まで調べて把握しておくことが、スムーズなインタビューをするための基本ですよ、先輩。美術部の人に聞きました。入部届だけ出して一回も来てないって。何で入ったんですか」

 そこは誰に聞いてもわかんなかったんだよなあ、先輩教えてくださいよ、と笑う彼女を無言のまま見つめるが、あまり返事は期待していなかったのだろう。彼女はそれ以上追求しなかった。

「それにしても先輩、同前先生って怖いらしいですよ。なんか怪しい噂もいっぱいあるし……」

 どんな、と聞こうとしたところで、昼休みの終わりの五分前を知らせるチャイムが鳴る。山野は「もうこんな時間かあ」と背伸びをした後、唐突に私の左腕を引っ張った。そしてそのまま、黒い油性ペンで何か数字を記入していく。

「これ私の連絡先です。紙で連絡先を渡せたら良かったんですけどね、0時になったら消えちゃいますから。先輩のこと気に入ったので、いつどこで何をしてても出ますよ、気軽に電話してください。あと、話す気になったらヒーローとの会話の詳細、聞かせてくださいね。諦めてないんで!」

 何度聞いても同じだというのに。消そうと擦ってみてもそのペンは驚くほど強力で、文句の一つでも言おうと顔を上げた時には既に彼女は教室の扉に手をかけていた。すばしっこさがますます小動物らしさを加速させている。

「じゃあ、また!」

 そう言って教室を出ていく後ろ姿を見送ると、やはりドッと疲れが押し寄せてくるのだった。


 2


 美術部準備室、と書かれた表札を見上げる。放課後になってすぐ来たは良いものの、扉には鍵がかかっていて、ノックをしても扉の向こうは静まり返っていた。裏側から絵画のポスターが何枚も貼られて中を見ることはできないし、すれ違う美術部員らしき生徒たちに同前を見なかったかと尋ねてみても、皆一様に首を横に振る。

 一棟二階の職員室に行って、座席表を見て同前の机を見つけたが誰も座っていない。近くにいた佐々木を捕まえて行方を尋ねたが、同前は会議がある時間と授業がある時間の前後以外はほとんど職員室に居ないらしく、美術準備室に居ないのなら学校のどこに行ったのか全く分からないと申し訳なさそうな顔をした。確かに同前に割り当てられている席は他の教師の机に比べて異様に物が少なく片付いていた。

 困ってしまう。今日はまだ化け物が現れていないから、これから君の活躍を見れるはずなのだ。さっさと用事を終わらせて、早く姉の部屋に戻りたい。姉の部屋で君の活躍を見ることで、生きていることの実感と優越感が湧き上がってくるのだ。私はいつも放送が始まると同時に画面録画を開始しているため見逃すということはないが、可能であるならリアルタイムで見たい。何回か授業中に化物が現れてしまったため、画面録画はできてもスマホを堂々と取り出すことはできず、歯痒い思いを何度か経験したのだ。

「同前先生、居ませんか」

 他の先生にも同前を見かけなかったかと尋ねたが首を横に振られるばかりで、校舎をぐるりと回って再び美術部準備室前に戻って来てしまった。声をかけるが、やはり返答はない。もしかして、この中で寝ているのではないだろうかとドアに耳をつけ、室内の音に集中すると、シャ、ザリ、と微かに何かの擦れるような音が聞こえた。同前はずっとここに居たのだ。私はノックする手に力を込める。

「先生、同前先生」

 コンコン、からドンドン、へと変えていく。近くを通りがかった生徒たちが私を怖いものを見るような目で見ていくが、私もいい加減に疲れていた。無視しているのか耳栓でもしているのか分からないが、とにかくここから出さなければ。

「同前先生」

 半ばヤケクソのようにバン!と扉を平手で打ったところで、目の前からカチャリと開場の音がして、うわ、と思った時にはガララと音を立てて扉が開いた。

「うるせえな」

 そう言いながらヌッと出てきたのは、二十代後半辺りの長身の男だった。まっすぐで硬そうな黒い髪には寝癖が所々跳ねており、見ているこちらが鬱陶しいほど伸びている前髪の奥からは鋭く冷たい目がこちらを見下げていて、その下には濃い隈が張り付き、不健康を形にしたような風貌をしていた。上下セットの青いジャージを着て、そこに様々な色の絵の具がこびりついているからこれは作業着なのだろう。首からかかる職員証には「同前正太郎」の文字と、今となんら変わらない不健康そうな証明写真が載せられている。

 若者の青春が詰まった学校という場において負のオーラを纏いすぎている同前に心の距離を取りつつ、私は「すみません、聞こえていないのかと思って」と心にも思っていない謝罪をした。同前はあくびをするだけで返事はしなかった。

「ここに来いと佐々木先生から聞きました」

「あ?……あー、お前が蜂谷静音か」

「はい」

 同前の背後にキャンバスがあるのが見えて目を凝らす。そこにはこちらを振り向く美しい少女が描かれていて、背中には天使のような翼が生えていた。モノクロで柔らかいそれは恐らく鉛筆で描かれているのだろう。さっき聞こえていたのはキャンバスを鉛筆が滑る音で、絵を描くことに夢中になりすぎて私のノックに気づくのが遅れたということか。同前は私の視線を遮るように扉を閉めて、首から下げていた鍵をかける。

「ついて来い」

 そう言って振り返りもせず歩き出すので、私は慌ててその後を追った。

「用件は何ですか」

「お前に会いたいって言ってるやつがいる」

「誰ですか」

「……」

 今朝の山野と私を追体験しているような気分になった。いや、私は同前よりももっと愛想は良かったはずなのだが。

 私に会いたいと言っている人物がいるらしいことしか分からないが、私に用があるとして、一体何だというのだろう。例えば、琴音が死んで私が生き残っていることが気に入らないから謝ってほしいだとか、大好きな琴音と同じ顔が町の中にいるのが耐えられないから顔を隠して生きてほしいとか言われるのだろうか。ちなみに、どっちも実際に私が既に言われたことのある言葉だ。

 新聞部は余計な事をしてくれたな、と思う。彼らが独自に調査した「いつも通り」のボーダーラインを掲載する所為で、普段喋らない人たちが臆せず私に文句を言いにくるようになってしまった。姉の本性を知らずに、作り笑いに気づかないまま過去を大事に抱えて生きている彼女たちは、とても幸せだと思う。

「ああ、そうだ。先生、私は美術部を退部します」

「お前美術部だっけ」

「一応」

 そこからは会話せずに廊下を歩いて、階段を登った。同前に続いて最上階である四階を過ぎ、立ち入り禁止の屋上への階段を登っていく。

「立ち入り禁止ですよ」

 念の為声をかけるが、同前は屋上の扉を開く。鍵がかかっていないことに驚いたが、どうやら許可は先に取ってあるらしい。同前に続いて屋上に出ると、まだ明るい夏の空が広がっていた。私たちの方が先に来てしまったのだろうか、「私に会いたいと言っている人」は見当たらない。それにしても、同前に屋上の鍵を開けさせてまで私に何の用だろう。フェンスもあるし同前も居るというのに、屋上から突き飛ばそうとでも思っているのだろうか。姉は男女関係なくとても人気があったから、私に恨みを持つ人間も少なくないはずだ。「いつも通り」を越えてでも私を殺したいと思うような人間が私に抑えられる気はしないが、何としてでも返り討ちに合わせてやりたいと思う。せっかく君に救われた命なのだ、限界まで大切にしていたい。

 そんなことを考えている内に頭のてっぺんが熱くなってくる。何にも遮られない日差しが痛くて給水タンクの日陰に入ると、同前も隣にやってきて「あちいな今日も」と私に向けたわけではない文句を言いながら貯水タンクを見上げる。

 すると、タンクの上からトントンと足音が聞こえた。あんな高い位置、危ない場所を、誰かが歩いているのだろうか。

「お、来たな」

 同前はそう言うと、タンクを支える柱を軽くノックした。カン、と固い音が響く。鍵は同前が持っていて、扉からは当然私と同前しか屋上に来ていない。それなのに同前が頭上の人物が今ちょうどここに来たかのような反応を見せている意味がわからない。だって、それならこの上にいる人物は扉以外からこの屋上に来たことになる。例えば壁を登って、あるいは飛んで。

「おい、連れてきたぞ。こいつが蜂谷静音だ」

 その言葉を合図に、タンクの上から白い影が軽やかに落ちてくる。見間違えるはずがない、その人は間違いなく──

「こんにちは、蜂谷さん。来てくれてありがとう」

 華麗に着地すると、ゴーグルに私の姿を反射させて、ヒーロー──君はそう言った。


 蝉の声も、バレー部が外周を走る掛け声も屋上では遠くに聞こえる。もう県大会も他校との練習試合も未来永劫開催されないのに、いつも通り練習をする彼らは一体どんな気持ちで今体力作りをしているのだろうなどと考えながら、タンクの日陰に、私と同前で君を挟んで横並びに座った。

「それで、私に何の用ですか」

 姉以外の同年代と喋り慣れていない私は、どうしたって言葉も表情も固く冷たくなってしまう。今朝母に見せた姉によく似た笑顔だって、鏡で確認した後でないとできない。君はそれを怒っていると捉えたのか、躊躇うように体育座りしている自身の膝に視線を逸らした後で、意を決して、という風に立ち上がり、君は私の前に膝をついた。

「僕は、あの日取り返しのつかないことをしてしまった。あの日、僕は動転してたからちゃんと謝れてなかったと思う。……謝っても、今更って思うかもしれない。許さなくても良い。でも、謝らせてほしい」

 間に合わなくて、ごめんなさい。と言いながら、君はあの日のように土下座をする。私はポカンとそれを見つめ、五秒ほどかかってやっと君が何を言っているか理解し、私は君の肩を掴む。

「ヒーロー、顔を上げてください」

「でも……」

「私は感謝しているんです。あの日も言ったでしょう、ありがとうって」

 ようやく地面につけていたおでこを上げて、私の方を見てくれた君のゴーグルの奥にあるはずの目をじっと見る。

「私の話も、して良いですか。誰にもしたことがない、姉と私の話です」

 君が深く頷くのを見て、私は目を閉じあの悪魔のような少女を思い浮かべた。

「私の姉は、恐ろしい人でした。私のことを愛していると言いながら、私の好きなものを壊していく、嫉妬と独占欲に狂った化け物のような人だったんです。軽々しく口にできないことも、よくされました。……それでも、私以外には優しくて人気のある人でしたから、私が姉の狂気を訴えたところで信じてくれる人はいませんでした。だから、諦めていたんです。ずっと。誰かに助けを求めることを」

 目を開くと、白く、美しい翼のようなスカーフが風に靡いている。

「でも君は来てくれた。あの小さな声をちゃんと拾ってくれたんです。君は私にとって命の恩人であると同時に、姉の作った檻から出してくれた、かみさまのような存在なんですよ。間に合わなかったなんてとんでもない、あのタイミングじゃなきゃ私は一生救われなかった」

「そう……なの?」

「だから、ありがとうって言ったでしょう。君が気に病むことなんて、本当に何もないんです」

「そっか……」

 君の肩をぐっと押して体育座りに戻すと。君は自身の両足を抱き抱えて膝に頭を埋める。自分の気持ちに整理がつかないのだろう。君は私にいっそ怒って欲しかったのかもしれない。私に弾劾され、一生その罪を背負うことで、救えなかった一人の命に償おうと考えていたのかも知れない。

「できればご両親にも謝りに行きたいと思うんだけど、その……、」

「母は私と違って姉のことが好きでしたから、姉を失って数日は不安定になっていました。でも今は自分を騙しながら安定しています。君が来たら現実を直視せざるを得なくてまた不安定になってしまうかもしれません。だから謝りにこなくていいし、そもそも君は謝る必要はないんです。悪いことなんて何にもしてないんですから」

 君は私の言葉を時間をかけて咀嚼して、まごまごとしながら「そっか」と小さい声を絞り出した。それが精一杯だったのだろう。私が何度「気にしないでほしい」と言ったところで、君は罪悪感に苛まれる。医者が罪人であろうと命を救うのと同じで、ヒーローである君には救う人間の良し悪しは関係がないのだ。

 しかし私は本当に君を恨んでいないし、姉の死を喜んですらいる。宙ぶらりんになってしまった君の罪悪感が君の首を絞めているのがわかるから、君が望むのなら嘘でも怒ってしまおうかなんて考えが過ぎったが、君が求めていても君を否定するような言葉は使いたくなかった。

「用は済んだか?」

 心底興味がないというような何とも抜けた低い声が、私と君の沈黙を切り裂き、同前は首を鳴らして立ち上がる。これでこの場はお開きという空気が感じてとれた。

「うん……ありがとう、同前。蜂谷さんを呼んでくれて。蜂谷さんも、来てくれてありがとう」

 君は顔を上げて、取り繕ったのがばればれの揺れた声で言う。姉と違って表情が見えないのに手に取るように分かる感情の起伏が、とても人間らしいなと思った。

「じゃあ、まあそういう事だ。蜂谷、もう帰っていいぞ。ああ、あと俺がヒーローと通じてることは誰にも言うな。新聞部は特に」

 同前が君の隣にしゃがんで固そうなメットを軽く叩いた。傷心中の君がここに留まることを察して、私をこの場から退場させたいのだろう。そういうことなら帰るべきか、と思ったが、これで君と喋るのが最後なら、気になっていたことを聞いてからでも良いのではないかと山野のような好奇心が湧く。

「同前先生は、ヒーローと友達なんですか」

 聞くと、すぐに「お前には関係ない」と冷たく切り捨てられてしまった。この人は一体どうやって教師になれたのだろうと疑問に思いながら「そうですか」と返すと、私と同前の間で話を聞いていた君が慌てて同前の頭をはたく。

「痛え!何だよ」

「同前、そんな冷たい言い方ってないぞ」

「じゃあ何て答えたら良いんだよ、実際関係ないし、説明がめんどくせえだろ」

「僕が説明する」

「説明したところで口止め料が増えるだけじゃねえか」

「蜂谷さんはそんなことしないよ」

 ね、と同意を求められて、私は頷いてみせる。君が望むなら、口が裂けて頭が二つに割れても私は君との約束を守ると誓おう。

「会って間もないくせに何が分かるんだよ……」

 同前は悪態付きながらもやれやれという顔をして再び腰を下ろし、君がその隣に座るので私も並ぶ。最初のフォーメーションに逆戻りだ。いつの間にか辺りは赤みの強い夕焼けの色に染まっていたが、君のヒーロースーツの赤いラインはやはりそれに負けないほど煌々と発光していた。

「じゃあ、同前と出会う少し前から説明しようかな。ちょっと長くなるかも知れないんだけど……それでも聞いてくれる?」

 私は迷いなく頷いた。君のために使う時間以外に、有意義なことなんてこの世にありはしないのだから。


 「人と話すことが極端に少ないから、僕の喋りは拙いと思う」と断ってから、君は話し始めた。

「僕がこの町にやってきたのは、今年の六月の終わり。つまり宇宙船が地球に降り立つ前だった。やってきた、と言うのはもしかすると適した表現ではないかも知れない。僕はそれ以前の記憶が無いから、自分がどこから来たのか分からないんだ。

 目が覚めるとこの屋上に寝転がってた。辺りは薄ら明るいくらいで、多分早朝だったと思う。自分が誰かもここがどこかも分からなくって、半泣きになりながらさ、裸でここをうろうろしてた。何で裸って?僕も分からない。屋上から移動した方が良いのかなって扉に近づいた時に、同前が扉を開けたんだ。驚いてたけど、僕が自分の状況を説明したら冷静に話を聞いて助けてくれたよ。あ、そういえば同前、あの時なんで屋上に来たの?」

「屋上から見える早朝の空の絵が描きたくて、写真撮りに行ったんだよ」

「そうだったんだ。……それで、僕は同前に服を借りて学校を出て、そのまま同前の家に匿ってもらうことになった。同前がそうしようって言ったから。それから同前に衣食住を貰いながらぼんやり過ごしたよ。同前が持ってたヒーロー番組のDVDを見たりして。このままここに居ていいのかな、警察に行った方が良いのかなとか思いながら。そんなある日、地球に円盤が降りてきた。あの日、僕も町の人々と同じように震えてたんだよ」

「そうだったんですか……。どうして、ヒーローに?」

「それが、僕にもよく分からない。ヒーロー番組を見てた影響かな、円盤が日本に上陸した頃、画面越しに子供の泣き声を聞いて、僕に助けられる力があったらいいのにって強く思ったんだ。そしたら、体がこの姿になってた。変身ってどんな感じか?うーん、口では説明しづらいんだけど、変身しろ〜って念じたらこの姿になってるし、戻れ〜って念じたら元の姿に戻れるよ。

 それで、変身できてすぐに玄関の方から物音がしてさ、ポストを見に行ったら、僕宛に手紙が来てた。白い封筒だった。開けてみたら、あなたはヒーローに選ばれました、だって。ここに提示された決め台詞と決めポーズを忘れずに。これから毎日、化け物が現れます。毎日人を助けてください、あなたが人を救うのを諦めたら、この町は終わりますって。ほとんど脅しみたいだった。

 それからすぐに円盤は海窓の上にやって来て、ドームが現れて、そこからは蜂谷さんも知ってる通りだよ。変身した後の自分の身体能力を見誤って何度も転けたり吹っ飛んだりしたから、最初は駆けつけるのが遅くなって申し訳なかったなあ。

 とまあ、そんなわけで、今に至るんだ。随分他のことも喋っちゃったけど……、結論として、同前は僕にとって衣食住をくれてる保護者のような存在、がいちばん近いかな」

 意外だった、この無愛想を絵に描いたような男に、見ず知らずの少年を手助けするような器量があったとは。いやしかし、どうも引っかかることがある。

「警察には、どうして行かなかったんですか」

「それは確かに、今更ではあるけど僕も気になる」

 私と君の視線が同前に向いたが、同前はどこ吹く風で遠くの空を見上げている。君が同前の腕を取って「おーい」と上下に振ってやると、同前はやれやれといった顔で重いのか重くないのか掴めない口を開いた。

「似てたんだよ。知り合いに」

 だから一旦匿って、その知り合いに確認を取ろうと思っていたが、先延ばしにしているうちに侵略者が現れたのだと同前は言った。私の質問にはおそらく答える気がないと判断して君に質問の一切を任せようと口を噤むと、君は意図を察してくれたのか連絡をすぐに入れなかったのは何故なのかと質問を重ねた。同前からは「連絡し辛い相手だったんだよ」と情報の少ない返事が返ってくる。喧嘩して疎遠になった友人だろうか。君がまた質問を重ねようとすると、同前はそれを振り切るように立ち上がった。

「美術部の様子を見てくる。お前たちも、もう帰れ」

「部活動を全く見にこない顧問として有名ですよ、同前先生」

「え、そうなの?同前」

「……今日は生徒たちと楽しく喋りたい気分なんだよ。いいからほら、お開きだお開き」

 埃を払うように片手をひらひらと動かす。その動きに合わせたように、「ジャーン」と盛大なファンファーレが鳴った。そして力強いトランペットの音が押し寄せてくる。

「わあっ、同前、何?これ何、どうやったの?!」

 魔法を見せられた子供のような反応を見せる君に頭突きを喰らわされそうになり、同前は間一髪のところで胸を逸らした。

「落ち着け。俺に手を振ったら音楽が鳴る機能が付いてるわけねえだろ」

「この音楽は何?どこから?」

 よろけた同前に代わって、私が答える。

「吹奏楽部ですよ。合わせ練習をしているんでしょう。個々に練習しているとあまり気になりませんけど、一体となってメロディが聞こえてくると気になるものですね」

「へえ……。良いなあ、部活動。青春って感じがする。合わせ練習ってことは大会が近いのかな。綺麗な音色だし、きっと優勝だね」

 そこまで言って、君はハッと口を閉ざす。それもそうだ、この町の外はもう存在しないから大会だって二度と開催されない。

「吹奏楽部だけじゃなく運動部もそうだが、なんであいつらありもしない大会に向けて練習できるんだろうな。……ああ、『いつも通り』に過ごしてんのか。なるほどな」

 同前が一人で納得していると、君は首を横に振る。

「それもあると思うけど、目標を設けることが、心の支えになってるんじゃないかな。……僕はいつも野良猫を探して散歩してるんだけど、その途中で時々港の漁師さんと喋るんだ。あそこは猫がよくたまってるからね。その中でもいちばん若い漁師さんとよく一緒に猫を撫でてたんだ」

 本当に猫が好きなんだな、とそのメットに生えた二つの突起を眺める。

「その人、ドームのギリギリまで魚を取りに行くような豪胆で力強い人だったんだけど、最近はもうすっかり憔悴しちゃって。『魚を捕っても、0時を回れば店先には円盤が来た日と全く同じ魚が並んでる。毎朝それをどかして新しい魚を並べてたが、それも疲れちまった。減らない魚があるのに漁に行くなんて馬鹿馬鹿しいだろ』って言ってた」

 でも「いつも通り」にしなきゃって、毎日漁には出てるんだけどね、とヒーローは寂しそうな声で言う。

「だから本当は無いものに向けてでも、目標を立てるのはきっと健康に生きて行くための大切な要因なんだ」

「それ、現実逃避って言うんじゃねえの」

「揚げ足取らないでよ」

 流れるメロディを熱心に聞き入る君の姿を見ながら、いつもこんな音楽で包まれていたら良いのになと思う。毎日君を呼び出すあのメロディは聞くに堪えないものだから、せめて化け物がいない時は幸福な音楽で満ちていてほしい。

「良いなあ、僕も部活動してみたいな」

「ヒーローは、学校に行ってみたいんですか」

 聞くと、君は頷く。

「今転校してくるなんて、おかしいし怖いかなって。同前は気にせず入学したら良いって言ってくれたけど、僕には記憶がないから授業もろくに理解できないだろうし……」

 そう言って君はだんだんと肩を落としていく。学校に憧れがあるのだろう。

「学校、見学して行きますか。私も学校探検がしたかったのでちょうど良いです」

「学校探検?蜂谷さんが?」

「はい。姉の目を気にするあまり学校にすら興味を持てなくなっていたので、実はこの学校のことをあまりよく知らないんです。だから、しましょう。学校探検」

「でも僕を連れて校内探検なんて、『いつも通り』じゃなくなっちゃうよ」

 それに関して私には持論がある。サンプルが私しかいないから確証は得られないけれど。

「私は姉に監視されて生きるのが常でしたから、もう『いつも通り』なんてどうやったってできないんです。でもこうしてペナルティを受けないまま生きてる。新聞部が体を張って調査しているらしいですが、ペナルティを課された人は今の所いません。実はペナルティなんてないんじゃないかって、私は思っているんです。『いつも通り』という曖昧すぎるルールは、侵略者が私たちを管理しやすくするための嘘なのかもって」

「た、確かに。あ、でも僕こんな格好だし、目立つのは嫌だなあ……変身解除しても服がないや」

「少し小さいかも知れませんが、私の体操着を貸します。それなら違和感ないでしょう」

「僕、学校に入っても良いの?」

「良いですよね、同前先生」

「ん?ああ。良いんじゃねえの。俺が許可する」

「ね、現役の先生もこう言ってますし」

 吹奏楽部の奏でるメロディを切り裂いて、あの不快な不協和音が鳴り響いた。君は弾かれるようにタンクの上に飛び上がると、円盤を見上げてどんな化け物が降りてきているか見定める。その姿は勇ましくて美しく、ヒーローを怖がる声が馬鹿に思えて仕方がない。

「僕、行ってくる。本当に残念だけど……」

 聞いたことがないような萎れた声を出す君が悲しくて、私は咄嗟に叫んでいた。

「明日!」

 出したことのない声量に喉が驚いてひっくり返ってしまったが、気にせず続ける。

「ヒーロー、明日暇なら、学校に来てください。午前9時、校門前集合で。良いですか」

 少し間をおいて、君は何度も音が鳴りそうなくらい首を縦に振った。

「う、うん!行く。絶対に行く!」

 君はタンクから降りて、屋上をぐるりと囲む背の高いフェンスに着地する。

「ありがとう蜂谷さん、今日は頑張れそう!」

 言いながら背中から落ちていく君に肝が冷えるが、すぐに光のような速さで町を駆け抜けて行く姿が遠くに見えて、私は胸を高鳴らせながらスマホの画面録画機能をオンにした。


 3


 夏休み初日、私は制服に着替えて朝食を取る。

「今日の練習は、何をするの?」

 母がにこやかに聞くので、私は少し考えて「主にサーブの練習をするよ」と返す。もちろん口角は上げて。父は黙々と米を口に運ぶだけだ。

 明るいようで歪な食事を終えて学校に向かうと、夏休みが始まったからだろうか、いつもより人が少ない。リュックには菓子パンと水筒、学祭の際に配られた学校内の地図、それから私の体操着を入れた。

 時間通りに校門に着くと、部活動のために登校してきた生徒たちに道を開けながらそわそわと落ち着かない様子でつま先を見つめる姿があった。

 私の足音に気がついてこちらを見上げたその人は、被っていた白い学校指定のキャップを取り、それを振りながらこちらの目が潰れてしまうくらいに眩しい笑顔を見せた。

 短くて柔らかそうな猫っ毛の髪は鶯色で、朝日を反射して美しく輝いている。アーモンド型の目はこれでもかというほど輝いていて、髪と同じ色のまつ毛で縁取られていた。儚さがあると言うよりは明るく健康的な少年といった印象で、まさに太陽のようだ。

 あまり外見の美醜に頓着がないと自分では思っていたが、かみさまが丁寧に作った人形のように美しい少年を前にして、ただ素直に綺麗だと思った。天使がこんな見た目をしていると言われても私は疑念を抱かず頷くだろう。

 強烈な既視感に襲われるがその正体は掴めないまま、間違いない、この人が君だと直感が告げていた。

「ヒーロー、ですよね」

「うん!おはよう蜂谷さん、よく分かったね」

 嬉しさが抑えられないというような視線をこれまでの人生であまり経験したことがない私は少し気圧されながらも、君が私との約束をこんなに楽しみにしてくれたのだと思うと心が暖かかった。

「あれ、体操服持ってたんですか」

「ううん。これ同前の。ここのOBなんだって」

 そう言って少しダボついた体操着を引っ張って、インクか何かで汚れた箇所を私に見せた。同前がこの学校のOBであることに驚きながらも「今更ですけど、いいんですか、素顔を見せて」と言うと、「うん。蜂谷さんは僕のこと怖がらないでしょ」とあっさりとした返事が返ってきた。

「じゃあ、早速ですけど、行きましょうか。学校探検スタートです」

「おー!」

 君は勢いよく拳を空に掲げる。私も真似して拳を突き上げると、君は嬉しそうに笑った。

「靴箱でっかい!すごいね」

「気にしたことなかったですけど、言われてみればそうですね、学校以外で、こんなに大きい靴箱を見ることってない気がします」

 靴箱に連れてきただけで吹き飛んでいきそうなほど喜ぶ君の姿に学校探検を提案してよかったと思う。地図を渡して、「ヒーローの好きなように周りましょう。もう夏休みですから、体育館と部活動のある教室以外は貸切状態ですよ」と言うと、比喩ではなく吹っ飛んでしまった。靴箱の屋根に頭をぶつけ「痛い!」と悲鳴を上げつつも綺麗に着地する君を目の前で見ていると、やはり人間ではないのだろうなと感じるが、私にとってはかみさまかそれ以上の存在である君の正体が何かなんて些細なことだ。

 強く打ち付けたらしい頭のてっぺんを抑えながらもやはり嬉しそうに地図と校舎を交互に見る君に「海窓高校は二棟あって、それぞれ四階建てです。一棟は主に教室、二棟は特別教室が多い棟ですね。二棟一階から順に回って正面玄関に戻ってきますか」と声をかけると、君は首を取れそうなくらいに上下に振った。

 部活動の掛け声しか聞こえない廊下を、二人で窓に張り付いて、教室を覗きながら歩く。君は興味深そうに教室の中にある生徒たちが置いて行ったものに興味を示していたが、私はそれが何かを答えることはできても、どういった経緯でそれが置いてあるのかは分からないため、君の好奇心を完全には満たせないことに申し訳なく思った。

 四階まで上がって教室を一通り見終わると、君は「クラスごとに全然違う物が置いてあったりして、どういう人の席なのかな、あれはいつこの教室に運ばれてきたのかなって考えるのすごく楽しかった!いいなあ、僕も僕の席が欲しくなっちゃうよ」と笑う。

 姉の席が空いていますよ、と言おうとして慌てて口を閉じる。私にとっては居なくなってくれてせいせいする姉でも、君にとっては恐らくトラウマだ。判断力が鈍っている。仕方がない、この暑さなのだ。はしゃぎながら動き回っていた君が私の顎から汗が落ちるのに気がついて足を止める。タオルを持ってくるべきだったなと手の甲で拭いながら思った。

「休憩しようか。お茶持ってきた?」

「持ってきました。でも、せっかくなら涼しい場所に行きましょう」

 渡り廊下を使って一棟の四階に着くと、この階には南側の端に音楽室、そこから北に向かって音楽準備室、美術室、美術準備室、図書室と続いている。

「図書室はいつでもクーラーが効いていて居心地がいいですよ」

「うん、そこに行こう」

 図書室に入ると、思った通り冷風が私たちを迎え入れてくれる。私が「涼しい」と零すと、君は「良かった」と微笑んだ。

「図書室にはよく来るの?」

「一年の頃はほとんど毎日、姉の部活が終わるまで入り浸っていました。小説を読むと姉が不機嫌になるので、大体カウンターから死角になる席で眠るか、教科書を読むくらいしかしていませんでしたけど」

「……」

 君が目を伏せるのを見て、しまったと思う。私の迂闊さに暑さは関係がなかったらしい。

「今のは、君が負い目を感じるような言葉じゃないですからね」

「そう、だね」

 クーラーの風を浴びながらお茶を飲んでいると、貸出カウンターに座る司書の視線が君に突き刺さっていることに気がつく。見慣れない美しい少年に肝を抜かれているのだろうが、君が少し困ったような顔をしているので何となく私は視線を遮る位置に移動した。そこで「あ」と私は声をあげる。

「今気づきました。ヒーロー、汗かいてないですね」

「ああ、うん。実は汗かいたことなくって。暑いとも特に感じないんだ。喉も乾かないし。だから蜂谷さんがすごくしんどそうなことに気づけなかった。ごめんなさい。気をつけるね」

「いや、私のせいです。水分補給を忘れるくらい教室見学が楽しくて」

 私が素直に感じたままにそう言うと、君のぱっちりとした目に輝きが集まっていく。

「本当?蜂谷さんも楽しいって思ってくれてたんだ、嬉しい!」

 楽しんでいることが伝わっていなかったことに若干ショックを受けつつ、鏡の前で姉の笑顔を練習しておけば良かったかと後悔しかけて、慌ててそんな考えを消した。姉から救ってくれた君に、姉の笑顔を見せるのは酷いことである気がした。

「僕、こうやって誰かと一緒に歩くこと自体が初めてだから、本当に嬉しいし楽しいんだ」

「同前とは、散歩しないんですか」

「しないなあ。同前、家にいるときはアトリエというか、作業部屋に籠ってずっと絵を描いてるから。食事とかトイレのためにたまに出てくるけど、それ以外はずっとそこにいる」

「何を描いているんですか?」

「分からない。アトリエには入るなって言われてるんだ。気になるけど、居候させてもらってる身だし、覗いたことはないよ」

 そこでやっと君と校門前で会った時に感じた既視感の正体に気がついた。

「同前先生、学校では君の絵を描いてましたよ」

「ええっ!なんか照れちゃうな、かっこよく描いてくれてた?」

 一瞬だけしか見えなかったが、はっきりと覚えている。天使の翼を生やした、君の姿……いや、あの絵に描かれているのは女性だったはずだ。あれはどう見たって女体の上半身であった。

 自分の顔が青ざめて行くのを感じる。目の前の君はどう見ても生物学上の男性であり、華奢な方ではあるがあの絵に描かれていたようなしなやかな体を持っているようには見えない。つまり同前が描いているのは、いや、これ以上はやめておこう。世の中には知らない方がいいことだってあるのだ。

「……そっくり、でしたよ」

「そうなんだ、何だか嬉しいな」

 絵の内容を詳しく聞かれてボロを出す前に話題を変える。

「次はどこに行きましょうか」

「四階から順に教室を見て回って、最後に一階の正面玄関横の保健室を見て外に出よう。グラウンドと体育館も見たいな」

「いいルートですね、そうしましょう」

「へへへ……」

 図書室を出て、また一部屋ずつ眺めていく。「あの席の落書きは犬か猫か」「壁のシミはいつできたか」など取り留めのない会話をしながら回る学校は楽しくて、今まで何とも思っていなかった校舎が魅力的に見える。

 夏休みがあったことから、恐らくこの学校は生徒を進学させていくのだろうが、この町には大学はないし、就職だってこの状況下では難しい。だから卒業の先に待ち受けているのは町の清掃が主で、未来に希望なんて無いようなものだ。しかし君が嬉しそうに巡ったという事実だけで価値あるものに思えてくる。

「ここが同前の職場なんだね。中見てみたかったなあ」

 美術準備室を眺めながら君が残念そうに言った時だけは冷や汗が出たが、本当に楽しく学校探検ができていたのだ。途中、風通りの良い涼しい階段の踊り場に座って水分補給をして「今日は誘ってくれてありがとう、ヒーローになってから、こんなに楽しいことは今までなかったよ」「こちらこそ」などと言いながら、あっという間に時間は過ぎて、私たちは保健室前にたどり着いていた。

「保健室、ちょっと入るくらいなら許されると思いますけど、見て行きますか」

「うん。ダメだったら僕に任せて、多分この町でいちばん逃げ足が早いよ」

 君の軽口に小さく笑って保健室の扉に手をかけた時、保健室横の事務室から保健教師が出てきて、君を見て目を丸くした。

「……え?キズナ?」

 保健教師は持っていた資料を全て床に落とす。君が反射的にそれを拾おうと近寄ると、彼女は思い切り君を抱きしめた。

「うわー!」

「キズナ!」

 身を捩って何とか彼女の腕から逃げ出そうとする君を見てどうしようかと立ち尽くしていると、君が私に手を伸ばした。

「た、助けて!」

 困り果てた顔をした君が私にそう言った途端、私の頭は突然クリアになった。君が助けを求めている。他でもない私に。

「頭下げててくださいね」

「え、えっ?」

 瞳孔が開いていくのを感じながら、私は君を抱きしめて何かずっと喚いている彼女の右頬に向かって、廊下に響き渡るような平手打ちをかました。


 4


 冷房の効いた保健室。保健教師である加藤は真っ赤になった頬を、ハンカチに包んだ保冷剤で冷やしながら向かいに座らせた私たちに申し訳なさそうに頭を下げた。おそらく二十代、明るい茶髪をゆるく巻いた彼女は私の平手打ちが相当痛かったのか右目だけ薄く涙が滲んでいる。

「ごめんねえ、昔の友達にあんまりにも似てたから。よく考えなくても、私と同い年のあの子が高校生のままここに居るわけないのにねえ」

 私と君は顔を見合わせる。

「加藤先生、その、僕にそっくりなご友人のことを教えていただけませんか」

 少し緊張した面持ちで、君が切り出す。

「あ、僕は猫俣創助といいます。創立記念の創に、助けると書いてソウスケ。実は記憶喪失で、親族のこととか全く覚えていなくて……。もしかして、先生が知ってる猫俣さんは僕の親戚なのかもしれません」

「記憶喪失?そんな生徒、私は聞いてないけど……。学校に届けは出したの?」

「ちょっと複雑な事情があって、学校には内緒なんです」

「そう……、わかった。深くは聞かないけど、何か困ったらすぐに言いなさいね」

 あっさり明かされた君の本名に動揺する私を置いて、二人の会話は続いていく。

「私があなたと間違えたのは、猫俣創成。あなたの名前の最後を成長の成に変えて、キズナと読む珍しい名前の女の子だった」

 加藤は小学生から高校生の間、猫俣創成の同級生だったらしい。こんなに珍しい名前がほとんど同じなのだから、君と創成は親戚の類であるのは間違い無いだろう。

「元々人の役に立つのが好きな子ではあったけど、中学一年生からかなあ、あの子、ヒーローに憧れるようになって、お面被って人助けに町中走り回ってた。今でもはっきり思い出せるんだけど……私が高校一年生の頃だから、十年前かな。あの子、入学初日の自己紹介で、机に登って『困ったことがあったら僕に手伝わせてくれ!』みたいなことを宣言してね、まあ、この町の同級生なんて大抵が顔見知りだったから、高校からこの街に引っ越してきた子以外にはそんなに驚かれてもなかったけど。創成がヒーローの真似をし始めた当時は、変な子だなって遠巻きに見てる子ばかりだったけどね、次第にみんな彼女のことが大好きになっていったよ。この町の人なら、創成の名前を知らなくても、海窓高校のヒーローって言えば誰かわかるくらいには有名だったし」

「加藤先生も、彼女に助けてもらったことはあるんですか」

「あるある!好きな先輩がいてね、あの子によく相談に乗ってもらってた。彼と結婚して今は子供もいること、報告したかったな」

「今は連絡をとっていないんですか」

 君の言葉に、加藤は首を振る。

「居なくなっちゃったの。高校三年生の夏休みに。確か、あの日もちょうどこんな暑くて天気のいい日で……」

「居なくなった?どう言うことですか」

 君が聞くと、彼女は悲しそうに首を振る。

「あまり覚えてないんだけど……、創成は通り魔に刺されたみたい。通り魔自身がそう言って自首したのよ。血痕も見つかったし。でも遺体は見つからなかった。ご両親も心を病んで海に身投げしてしまって……。詳しいことは、きっと当時のニュース記事を見た方が確実だから、これ以上は調べてみてね」

 言いながら、加藤は君の顔をまじまじと見つめ、君の中に創奈の面影を探している。

「姉がいるって言ってたなあ。だから、あなたはお姉さんの息子さんなのかもしれないね」

 私が分かってるのはこれくらいかな。ごめんね、お姉さんの連絡先は知らないの。と眉を八の字にする加藤に「いえ、お話が聞けて良かったです」と君は笑顔を見せる。その横顔を見つめていると、私の頭に、君によく似た少女の絵が過ぎった。

「創成さんは、同前先生と面識はありましたか」

 聞くと、加藤は「ああ!」と何か思い出したように目を見開く。

「よく知ってるね、うん。そう、同前先生も私の同級生で、ここの生徒だった。さっき言った、高校から引っ越してきた子って同前先生のことよ。ふふ、全く変わってないの、あのだるそうな感じ。でも人気あった。今は前髪でほとんど顔が見えないけど結構かっこいい顔してるんだよ?私の夫には敵わないけどね。……同前先生、かわいそうだったなあ」

「かわいそう?」

 私が促すと、加藤は頷く。

「どういう経緯で仲良くなったのか知らないけど、同前先生、多分、創成が唯一の友達だったの。誰に対してもつっけんどんな態度の彼が軽口を叩いてるの、あの子に対してだけだったし。これは私の憶測だけど、多分、好きだったんじゃないかなあ。同前先生のスケッチブックを二人で肩がくっつくくらい身を寄せあって覗き込んでるところ、見たことがあるの。微笑ましくてね、あの二人が一緒にいるところを見るのが好きだった」

 同前が君を匿っている理由が見えてきた。とんでもない変態だと今の今まで誤解していたことを心の中で謝っておく。いや、昔の好きな人に翼を生やした絵を、ノックの音にも気付かないほどのめり込みながら描いているのはどうなんだろう。

「特別仲がいいわけじゃなかったから詳しいことはわからないけど、創成が居なくなってから同前先生は絵を描くことにのめり込んでた。そのまま美術の教職課程がある大学に進んだって噂では聞いてたけど、まさか母校の美術教師になるとはね。……ああ、そうだ。実は佐々木先生もこの学校の生徒だったんだよ。私と同前とは一歳違い。懐かしいなあ」

 佐々木に同前との会話内容を教えて欲しいと言われていたことを今思い出したが、言える内容でもないため言及されたら忘れていたふりをしておこう。密かに約束を放棄した私の前で、加藤は時計を見てから「これからちょっと用事があるの、この教室は開けておくからまだ居てもいいよ」と微笑んでくれたが、私と君は丁寧に断って校舎を出た。

 時刻は十二時。練習していた運動部は昼休憩に入ったらしい静かなグラウンドを眺めつつ、しばらく無言で、体育館の石階段に並んで腰掛けた。

「同前、そんな話一回もしてくれたことなかったのにな」

「話したくないことだったんでしょうね」

 君は知らないが、あんなに拗らせているのだ。その相手に君は顔が似ているなんてあまり知られたくはない話だっただろうなと同前に同情してしまう。

「そっか……。でも気になるな、僕は何者なんだろう。猫俣創成さんとどんな関係なんだろう。何にも分かってない時はそんなに気にならなかったけど、今は気になって仕方ないや」

「探しましょう、君の正体に繋がるもの」

 迷子の子供のような顔をする君を笑顔にさせたくて励ましの言葉をかけたいのに、今まで姉としか喋ってこなかった私の頭では気の利く言葉は思いつかなかった。だからせめて、君を心配している気持ちだけは伝わればいいと言葉を重ねる。

「君が創成さんとそっくりなのは、きっと何か理由があるはずですよ。探しに行きましょう、一緒に」

「一緒に探してくれるの?」

「はい。私で良ければ」

 君の肩の力が緩んだのを見て、私も心の中でほっと胸を撫で下ろす。

「まず何をしたら良いんだろう」

「君の正体を探るためには、まず創成さんがどんな人だったのか、一体何が起こって遺体が消えてしまったのかを調べましょう。当時の記事や当時のことを知っている人に聞き込みをして」

「そうだね。警察に話を聞きに行ってみるのも良いかもしれない」

 確かに、呼べばすぐに駆けつけるヒーローが現れてからというもの、警察官はいつも暇そうに辺りをパトロールしているところを見かける。もしこの町に長く勤めている警察官であれば、何か知っているかもしれない。

「話は逸れるけど、同前に仲良しな人がいたことが、結構衝撃だった」

 警察官に何と言って当時の話を聞き出すかを考えている隣で君が妙に深刻そうにそう零すので、私は思わず笑ってしまう。

「ふ、ふふ、そうですね。同前先生、あんまり誰かと楽しそうに喋っているイメージ湧きませんね」

 笑う私の顔をじっと見つめて、君は思い詰めたような表情になる。何事かと私も笑いを引っ込めて真剣に見つめ返すと、君は意を決したように話し始めた。

「……蜂谷さん、その、本当に良ければなんだけど……友達に、なって、くれませんか」

 硬い表情から出てきたのは存外可愛らしいお願いで、私はたまらない気持ちになる。

「もちろん。猫俣くんって呼んでもいいですか」

「うん!そうだ今朝から言おうと思ってたんだけど、敬語はいらないよ。その方が友達っぽいからね。ヒーロー番組で見たことある!」

「分かった。よろしく、猫俣くん。明日からでもいいし、今からでも調査を始めれるけど、どうかな。まずは学校の先生に聞き込みを……」

 話の途中で、空気の読めないアラームが鳴る。グラウンドに残っていた生徒たちが慌てて校舎に入っていくのを見送りながら、君は真剣な眼差しを相変わらず静かに浮かび続ける円盤に向けた。

「今日、五体満足でここに戻ってこられないかもしれないから、明日またここに待ち合わせしよう」

「時間も今日と同じで良いかな」

「うん」

「分かった」

「蜂谷さん、今日は本当にありがとう。また明日」

 君はそう言い残して、素顔のまま駆け出していくのだった。

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