唯今ヒーロー

ぽぴ太

1話

 周りの人間がカラスに見えるようになったのは、小学三年生の夏頃だったと思う。カラスに見えると言っても全身が真っ黒な羽に覆われているわけではなくて、首から上がカラスでその下は人間という、古代エジプト神話に出てくる神様のような姿のカラス人間に見えるのだ。

 事の始まりは掃除の時間。仲の良かった隣の席の少女が、塵取りに集めた埃をゴミ箱に捨てようとして突然泣き始めた。そしてなぜか私を指差して、酷い、酷いと罵った。

 意味が分からずゴミ箱を隣から覗き込むと、誰かに引き裂かれた兎のマスコットを見つけた。頭が真っ白になった。それは昨日、少女が頬を染めながら「仲良しのしるし」と私にくれた物だったのだ。身に覚えのない私は弁明をしようとして顔を上げた。するともう、いつもの世界ではなくなってしまっていたのだ。

 突然知らない場所に放り込まれたようで、幼い私は恐ろしさのあまり泣き喚いた。宥めようとする教師も、困惑するクラスメイトも、泣いていた隣の席の少女でさえ全員がカラス頭に見えた。その異様な光景に耐えられなくて、私は持っていた箒を放り投げ、制止の声も聞かず小学校を逃げ出した。

 ランドセルも背負わず泣きながら駆け抜けていく小学生に不思議そうな目を向けて、心配して話しかけようとする様子の人々も例外なくカラスの頭を持っていた。行き手を阻むモンスターのようにしか見えない彼らも振り切って、時折転んで膝や肘から血を流しながらも必死に走った。そうしてやっとの思いで辿り着いた家のインターホンを鳴らし、「あんた、学校どうしたの?」と玄関の扉を開けてくれた母の頭を見た瞬間、私はその日いちばんの悲鳴を上げ、とうとう意識を失ってしまった。

 次に目が覚めた場所は病院のベッドの上だった。一度気を失ったというのに悪夢からは覚めておらず、室内に入ってきた母頭は依然としてカラスのままだった。取り乱してベッドから転がり落ち、再び逃げようとしたが、悲鳴を聞いて駆けつけてきた数人に抑えられてベッドに逆戻りしてしまった。その後、なんとか心を落ち着かせてカラスの頭を視界に入れないよう俯きながら診察を受けたが、結局原因も病名も分からず仕舞いだった。

 医者も困惑しているようで、数日経過を見ましょうといきなり泊まることになった病院はあまりに静かで不気味だった。一人では心細く、服などを取りに帰った母が早く戻ってこないかなと思ったが、その頭がカラスであるというのを思い出してしかめ面になってしまう。擦りすぎて目の周りが腫れぼったくなってきた頃、控えめなノックの音が病室に響いた。私は慌てて鼻を啜り「どうぞ」と掠れた声で入室を促す。すると、現れたのは双子の姉だった。

「静音、私、全部聞いたよ。元気……、じゃないよね。……お母さんは、何か書類を書きに行ったよ。すぐには戻ってこないと思う。先に静音の所に行ってあげてって言われて……」

 頭を見るのが怖くて俯いたまま黙り込む私に、姉はゆっくり近づいてきた。

「……ねえ静音、罰だと思わない?」

 ベッドのすぐ側で歩みを止めた姉は、そう言って小さく笑った後に私の頭を撫でた。どんな難しい算数の問題だってわかりやすく説明をしてくれる姉が、何を言っているのか分からなくて混乱してしまう。

「双子はね、生まれる前からずうっと一緒で、これまでも、これから先もずっと、永遠に二人なの。鏡や影と同じで、片方が居ないと成り立たないんだよ」

 ポス、と軽い音を立てながら姉が私の目の前に何かを落とした。恐る恐るそちらを見ると、それはクラスのゴミ箱に入っていたはずの引き裂かれた兎で、落下の衝撃で白いシーツの上に散らばっていく。

「なのに、静音は血も繋がってない赤の他人に目移りして、双子の間に障害物を置こうとしたでしょう?そんなの、あり得ないことだよ」

 頬を両手で包まれて、無理やり上を向かされたそこには、人間の頭のままの姉がいた。私と同じ髪型、同じ顔、同じ声の、不気味なほどそっくりな二卵性の双子の姉。私が震えながら「顔、なんで……」と零すと、その先に続く言葉を汲み取ったのか「当たり前でしょう、私たちは双子なんだから」と明るい笑顔を見せる。

 私は気づいてしまった。あの兎を見て──いや、本当は兎を見た時よりもさらにずっと前から気づいていたのだ。

 いつからだったかはっきり思い出せないが、物心ついた時には既にそうであったように思う。私の姉はどこかずっとおかしかった。言動に出したことはなかったが、私に向ける視線の一つ一つが、じっとりとして時折薄気味悪く感じていたことを、気のせいだと見て見ぬふりをしてきただけだった。その不気味さの正体を、胸糞悪い長編ミステリの答え合わせをするようにこの時はっきりと掴んでしまった。

 今回は兎のマスコットで済んだけれど、次はどうだろう。その手を赤く染めても何でも無いように微笑む姿が容易に想像できてしまって、背筋が凍てついた。

「嬉しい。静音の世界は私だけになったんだね」

 姉は心底幸せそうに微笑んで、私を抱きしめた。

 私の頭は私の周りの人たちを守るため、姉以外の存在に興味を持たないように、視界に映る人々を判別しづらい外見に変えてしまったのだった。


 1


 私たちの住む海窓町は、海に面した穏やかな港町だ。磯の香りがする方へ歩いて行けば大抵海に出ることができる。家を出てすぐ見える海は朝日を反射して今日もキラキラと輝いていた。それを眺めているのを咎めるように背後から伸びてきた腕に抱きしめられて、思わず「ギャっ」と潰れた間抜けな声が出る。振り向くと、相変わらず鏡写しのような顔がある。肩につかないボブカット、半袖のセーラー服に、学校制定の学生鞄。どちらも無表情なら、靴下の長さまで揃えている私たちを見分けられる人なんかこの世に存在しないだろう。

「静音、お待たせ。行こっか」

 目の前に差し出された姉の手を取った。幼稚園児の頃から続く、私たちの習慣のようなものだ。繋いだ手の間でお互いの汗が混ざる。高校生活二回目の夏休みが見えてきた七月七日。今日も相変わらず私たちは手を繋いで通学路を歩く。

 時折通り過ぎるご近所さんは相変わらず皆カラスの頭を持っている。なんでも切り裂けてしまいそうな黒い嘴を大きく開けて「おはよう」「行ってらっしゃい」と声をかけてくる彼らに姉は笑顔を浮かべながら「行ってきます」と返し、隣の私は黙って会釈だけを返した。この年で双子が手を繋いで登校なんてきっと一般的ではないはずなのに、姉の愛嬌で塗り固めたような笑顔はそんな感覚も狂わせてしまうらしい。

「さっきのおばちゃん、今日七夕だから笹飾ってたね。帰りに短冊ぶら下げていいかお願いしてみる?なんて書こうかなあ」

「……」

「やっぱり、来世も静音と一緒にいられますように、かな」

 冗談じゃない、とは言えずに唇を噛んで耐えた。姉は青い空を見上げる。

「暑いねえ、溶けちゃいそうだよ」

 日陰を選んで道を蛇行する姉に引き摺られるようにして着いて行く。バランスが崩れて足がもつれそうになって、咄嗟に姉の腕に縋り付くと、姉は嬉しそうな顔をして私の頭を撫でた。何を考えているか分からないその笑顔はいつまで経っても慣れなくて苦手だ。もう日常と化してしまったカラスの頭よりずっと凶悪で恐ろしいと思う。

「危なかったね」

 もっとゆっくり歩こうかと笑みを深くする姉は、今日だけでなく、もうずっと前から私の手に力が込められていないことに気がついているだろう。それでも私の手を離す気はないらしく、指と指の間に姉の指が入り込んで絡みついた。姉の手を握り返さないことは私にとって精一杯の唯一できる抵抗で拒絶だったが、全く響いていないことを突きつけられているようで、自分が惨めで情けなくなる。

 海窓高校が見えてきて、周りに同じ制服の生徒たちが増えてくると、あれほど頑なに繋いでいた姉の手はするりと解ける。そのタイミングでこちらが歩くスピードを落とすと、次第に私たちの距離は離れていった。

 揃っていた足音のリズムが、別の道から次々に合流する足音に乱される。姉は私を振り返らない。まるで手を繋いでいたことが嘘だったかのように、私たちは他人になっていく。校門を超えた辺りで何か話していた女子生徒二人が姉に気付いて手を振る。二人は姉が所属しているバレー部の同期であり、毎朝この辺りで姉を待っている二人組だろう。それ以外のことはよく知らない。彼女たちの頭もカラスであるから見分けもつかない。

「琴音ちゃん、おはよー」

「おはよう!琴音」

 姉はそれに手を振りかえし、「おはよう」と彼女らに駆け寄っていく。三人仲良く談笑しながらバレー部の部室へと消えていく後ろ姿を横目に、私は一人まだ静かな校舎へと足を踏み入れた。

 職員室で鍵を借りて、全ての教室を開錠してから二年二組に入り、窓を全て開けて窓際から数えて二番目の列、そのいちばん後ろの席に腰を下ろす。グラウンドから野球部の元気な掛け声が聞こえて、彼らは一体何時に起きているのだろうとあくびを噛み殺しながら思った。

 部活動で朝の練習をする生徒だけが登校するこの時間に、教室にいるのはきっと私だけだろう。バレー部である姉が、運動部ではない私とどうしても二人で登校したいというから、部活のない水曜日以外は毎朝この時間に登校している。しかしこの時間は図書室も購買も開いていないし、課題も予習も昨晩姉と終わらせているから、この時間にすることは何もない。

 だから私はぼんやりと、澄んだ空を眺めていた。教室にカラス頭のクラスメイトが続々とやってきて、先生が今日の授業の始まりを告げてエアコンの電源を入れるまで、ただただ眺めていた。遠くで、カラスが海に向かって青空を羽ばたいて行くのが見えた。それがとても羨ましくて、放課後が待ち遠しかった。


 カラス頭に囲まれた授業を終えて放課後になると、私は誰よりも早く教室を出る。足音が派手にならないように気をつけつつ、姉のいる隣の教室前は通らずに。靴に履き替える時間すら煩わしくて乱雑にスリッパを靴箱に押し込んで先を急ぐ。校門を抜けてしまえば歩く速度を咎める先生の目は届かない。ローファーのつま先をアスファルトにトンと打ち付け、それを合図に学生鞄をリュックのように背負って駆け出した。

 髪がボサボサになっても汗が目に染みても構わずに、すれ違うカラス頭に不思議そうな目で見られても止まらない。息があがって呼吸が苦しくなっても、磯の香りがする空気を肺いっぱいに吸い込めば気にならなかった。

 通学路の反対方向へと走り続けるとだんだんと人通りの少ない道に入って、あまり手入れのされていない山道も越えたその先には広い墓場が広がっている。古いものから新しいものまで多種多様な墓に挟まれた、軽自動車が一台やっと通れるような道を絶え絶えな息を整えないまま速度を上げて走り抜ける。一秒だって無駄にしたくはないのだ。

 そうして辿り着いたのは、墓場横の小さな公園だ。色が褪せたフェンスに囲まれた、ろくに手入れもされていないそこは、近くに住んでいる子供たちはもちろん、不審者でさえ寄り付かないような不気味さを放っている。墓地を建設する際に近隣住民への罪滅ぼしとばかりに設置された公園らしいが、遊具は滑り台と名前を知らないドーム型の物だけで、他には木陰の古ぼけたベンチと誰も回収しに来ていないのに半分しか埋まっていないゴミ箱だけだ。それでも私はここがこの町でいちばん楽しい場所だと胸を張って言うことができる。だってここにはあの子がいるのだ。私は膝に手をついて息を整えてから、誰も居ない公園に向かって声をかけた。

「お待たせ」

 すると頭上からバサバサと音がして、目の前のベンチに一羽のカラスが留まった。まるで遅いと文句を言うように、「カア」と一声だけ鳴いて、一人分のスペースを空けてベンチに座り込む。そのふてぶてしい姿に苦笑しながら隣に座ると、無垢な黒い瞳で見上げてきた。幼い子供のような仕草が微笑ましかった。

「今日は苺のジャムパン」

 学生鞄からガサガサと菓子パンを取り出すと、あの子は喜びを全身で表すように飛び跳ねる。その度に趾がボロボロのベンチを引っ掻いて、カリカリと音を立てていた。

 袋を開けクリームパンのように丸いジャムパンをあの子の前に置く。あの子は私を見上げて期待するように体を揺らす。

「食べていいよ」

 声をかけると、あの子は躊躇いなくパンを啄み始めた。表情は全く変わらないけれど、夢中で食べすすめるその姿を見ていると誇らしさに近い感情が込み上げてくる。姉の目を掻い潜ってまで混んでいる昼間の購買へパンを買いに行く甲斐があるというものだ。

「おいしい?」

 タオルで汗を拭きながらお茶で喉を潤しつつ訊ねると、あの子は応えるように小さく鳴いてくれる。それだけのことが幸福で、張り詰めていた何かがゆっくりと解けていくような気持ちになる。ちゃんと名前をつけることは何となく憚られるが、カラスと呼ぶのも味気ないため「あの子」と名付けたこのカラスは、私にとって何よりも大切な友人であり、話し相手だ。もちろん会話はできず一方的に私が話しかけるだけであり、そもそもあの子は私の言葉を理解してはいないだろうが、それでも良かった。脈絡もなく話し始めても、テンポ良く話すことができなくても咎められることが無いというのは、話下手な私にとってはとてもありがたかった。

「前も言ったと思うけど、母さんは私のこと嫌いだと思う。父さんは……ここ数年会話もしてないから分からない。でも、きっと二人とも明るくて優しい琴音の方が好きだってことはわかる。周りの人間がカラス頭に見える娘なんて可愛くないし不気味に決まってる……」

 この短い人生の中で、周りの人間が人の顔を持っていた期間はもうあと数ヶ月もすればカラス人間と化してしまった期間を下回っていく。その事実が恐ろしい。

「琴音は中学生になってから高校二年生の今現在まで、周りの人に好かれることを意識して過ごしてる。全然興味ないくせにバレー部に入ったのだって、きっと人気な部活に入って顔を広くするためだよ。そうして同じ顔の私の価値を下げていくんだ」

 あの子が啄んでいるジャムパンの中身は赤々としていて、嘴で何度も裂かれたそれは刃物で刺されてぐちゃぐちゃになった小動物のようだ。

「友達が欲しかった。中学に上がった頃かな、頑張った時もあったよ。それで仲良くなれた子もいた。でも、それを知った琴音は私のふりをして、その子を放課後呼び出して何か酷いことを言ったらしい。……内容は知らないけど琴音からそう聞いた。その子は学校に来なくなった。誤解を解こうにも、琴音と私では周りからの信用に天と地の差があったし、今もある。信じてもらえるわけがなくて、……信じてもらえなかった時に傷つくのが怖くて、誰にも言えなかった」

 日はゆっくりと傾いていく。蝉の声も次第に音量が減っていった。

「だから、この場所と君だけは絶対に琴音に奪われたくない」

 ジャムパンを綺麗に食べ終わり、こちらを見上げてくるその姿が愛おしい。今まで一度もふたつパンを渡したことは無いからもう今日はこれ以上パンを貰えないとは理解している筈だ。それでもここを飛び立って行かないことにどうしようもなく嬉しくなってしまう。

「琴音の部活が終わるまであと二十分くらいはある。どうしようかな、今日は世界史の復習でもしようか」

 学生鞄の中から教科書を取り出そうとしたところで、スマホが着信を知らせる。私の帳には姉と母しか登録されていないからおそらく母だろうと画面を見ると、そこには「蜂谷琴音」の文字があった。ブワっと全身に鳥肌が立って、姉は今ここに居ないのにあの子を隠さなければと必死になった。隣でこちらを見上げたままのあの子に「逃げて」と言うが、当然そこから動く気配はない。冷や汗でスマホを滑り落としそうになりながら何とか心を落ち着かせようと深呼吸をして、震えを抑えながら通話開始のボタンを押した。

「静音?ああ良かった、繋がって。今どこにいるの?美術部に居ないから帰ったのかと思って家にしたら帰ってきてないって……心配したんだから」

 いつも感情が一定に見える姉の珍しく焦ったような声に動揺しながら、とてもまずい状況であることに唇を噛む。私は放課後この公園に来ていることを悟られないように美術部に所属しているのだ。なぜ美術部を選んだかと言えば、様々な部活を一ヶ月ほど観察した結果、美術部だけ顧問の先生が全く部活動の様子を見に来ないことを確認できたからである。もちろん入部届を出した日から一度も部室に足を踏み入れていない。何も返事をしない私に焦れたのか、姉は構わず言葉を続けた。

「まあ、繋がったからいいの。で、本題なんだけどね。今すぐ帰ってきて。大変なことになってる」

「……何が?」

 聞くと、姉は小さく息を吸う。

「世界」

 揶揄われているのかと思った。

「どういうこと」

「いいから早く帰ってきて」

 その言葉を最後にスマホからは通話終了の合図が流れ出し、私は首を傾げながらそれの電源を切って鞄に仕舞い込んだ。黒くてつぶらな瞳が変わらず私を見上げている。

「ごめん、帰らないといけない、らしい」

 学生鞄の口を閉めてベンチから立ち上がるとあの子は私が帰ることを察したのか軽やかに舞い上がり、ゆっくりと下降して公園の入り口横の古ぼけた防護柵に停まる。

「じゃあ、また」

 その横を通り過ぎて公園を後にする。時折振り返ってどこかへ飛び立ちもせずじっとこちらを見つめるあの子の姿に後ろ髪を引かれるような思いになりながらも、私は気乗りしない帰路に着いた。

 家に着くまで誰ともすれ違わなかったことに違和感を覚えながら玄関の扉を開くと、まだ仕事から帰ってきていないはずの時間だというのに父親の靴があった。姉のローファーも揃えて置いてあり、一体何があったのかと急ぎ足でリビングに向かうと家族は三人ともテレビの前で身を寄せ合っていた。仲の良い母と姉はともかく無口な父までそうしているのはとても珍しく、只事ではないことを察する。

「ただいま」

 私の声に姉だけが視線を寄越す。青い顔で私を手招くので仕方なく姉の前に座ると、姉は後ろから私の腹に腕を回し、顎を肩に乗せてきた。鬱陶しくて引き剥がしてやろうと手を伸ばそうとして、私を抱きしめる腕が震えていることに気が付いた。

 何をそんなに恐れているのかと三人ともが固唾を飲んで食い入るように見つめているテレビに私も視線を向ける。そこに映っていたのは、異国の空に浮かんだ、窓も何もない碁石のような白くてツルッとした巨大な円盤だった。

「……これ、何?」

 聞くと、すぐそばで姉が首を振る。

「分からない。全然分からないけど……」

 ニュースキャスターが強張った顔で「避難を」だとか「安全を確保」だとか言っている。

「侵略者、だって」

 こうして悪夢は幕を開けたのだ。


 2


 あの日から世界は瞬く間に崩壊していった。海を越えたずっと遠くの国の上空に音もなく現れた巨大な円盤は、その機体に突然暗い穴を開けたかと思うと、そこから次々と化け物を地上へと送り始めた。

 テレビの中継で見た限りでも化け物は多種多様で、全身が鋼のように硬い四足歩行の巨大なものや室内に入り込む大蛇のようなもの、プテラノドンによく似たものも居た。そんな化け物たちに共通するのは人間を捕食するという点で、世界は数日も経たずに地獄絵図と化した。

 どの化け物もとても頑丈で戦車も爆弾も弾丸も歯が立たなかった。ごく稀にその体に傷を負わせることができてもたちまちその傷は塞がり、殺すことは不可能らしかった。それらを生み出し続ける円盤は化け物とは比にならないほど頑丈で、放つ熱線はどんなものでも貫いた。つまり誰も止めることはできずに、円盤が優雅に世界中を巡り各地で化け物を放ってはその地の人類を滅ぼしていくのを、人々は絶望しながら見守ることしかできなかった。

 ほんの数日で世界中が壊滅し、最後に残ったのは日本だった。これは日本が奮闘してなんとか持ち堪えたというわけではなく、単純に円盤が最後にやって来たのが日本だったというだけの話だ。滅んでいく外の世界を散々見せられた後で足掻く気になんてなれるはずもない。人類に残されていた選択は、自ら命を絶つか必ず訪れる死を待つかの二択しかなかった。国は匙を投げ、テレビはひたすら町に設置されたライブカメラの映像を流している。もちろん日本だけ助かるなんてことはなく徐々に化け物の餌食となっていった。

 まだ円盤が海の向こうにいた頃、家族総出で近くのスーパーやコンビニを回りかき集めた食料や日用品、防災グッズとして用意してあった食糧も尽きない内に崩壊していった世界を、私は信じられない気持ちで見ていた。学校からの連絡も無くなって、家の外は死んだように静まり返っている。テレビはもうどこもまともに放送していないから、化け物がどこまで迫って来ているかさえ分からない。冷たく静かな絶望が家の中に充満していて、昨日の夜なんて、母が台所で果物ナイフを握りしめながボソボソと何か呟いているところを見かけてしまった。

「本当に、本当に全部ダメになったら……」

 カラスの頭でそんなことを言う母親の姿は恐ろしく尿意なんて失せてしまって、何も見なかったことにして二階の自室に逆戻りした。私の広くないベッドを半分占領して満足そうな顔で眠る姉の豪胆さがいっそ羨ましかった。今も「最後は静音を独り占めしたいの」などと宣って殺風景な私の部屋に入り浸っている。私は一日のほとんどを姉に抱きつかれながら過ごして恐怖を麻痺させ何とか耐えていた。

 侵略者が日本に降り立って三日経つと、とうとう水が止まって電気も使えなくなってしまった。隣の県に住む祖父母と連絡がつかなくなり、遠くの空に巨大な円盤とムカデに翼が生えたような気色の悪い生物が飛んでいるのが見えて、いよいよこの町も終わりが見えてくる。

 そして四日目の朝。私たち家族は四人寄り添って、窓の外の澄み渡る青空に浮かぶ巨大な円盤を静かに見上げていた。町の全てを飲み込んでしまうほどの大きさを持ったそれは、こうして近くまで迫ってくると白い天井のようで、太陽の光は遮られ町の絶望を色濃くしていく。そんな明確な終わりと絶望を前にして諦めることしかできなかった。脳裏に果物ナイフがちらついて、即死できなかった時のことを考えてしまう。首に刃を当てる時、やはり冷たいだろうか、痛いだろうか、化け物に食われるよりは苦しまなくて済むだろうか。姉はこんな時でさえ私を抱きしめる。

 テレビが言っていたが、化け物は人間以外に興味を持たないらしい。それだけが幸いで、あの子が無事でいてくれることだけが今の私にとって希望だった。今日もあの公園で私を待っているだろうか。今すぐにでも会いに行きたかったけれど、空の円盤にテレビで見た時と同じように暗い穴が開いていくのが見えた。母がゆっくりと私たちから離れていって、振り返らずともその足音が台所へ向かっていることに気がついてしまう。もうお終いなのだ、何もかも。

 せめて最後に両親の本来の顔くらいは見たかった。しかし姉はそれを許さないように私の両目を塞いで「最後まで二人きりの世界でいてね」と笑う。結局、私は姉という檻から出られないまま一生を終えてしまうらしい。背後から、「化け物が一匹、降り立ったら……その時に……」と震える声が聞こえる。父はそれが何を意味するのか気づいているのか、振り返らずに黙って窓の外を見続けていた。

 しかしそうして各々覚悟を決めても、化け物はいつまで経っても現れない。日が傾きかけた頃に、円盤はようやく暗い穴からシャボン玉のような球体を一つだけ吐き出した。円盤はゆっくりと小さくなって、代わりにシャボン玉は見る見るうちに大きくなっていく。円盤が高校の体育館程度の大きさに落ち着いた頃、シャボン玉は隣町や海も巻き込んで町全体を囲んだ巨大な半球のドームへと姿を変えていた。

 何が起こったのか分からない私たちはそれを呆気に取られながら見届けると、町中に全ての音を外したデパートの館内放送の合図のようなメロディが流れ出す。それが終わると、大きな咳払いが聞こえてきた。

「初めまして、海窓の皆さん。この町は選ばれました、おめでとうございます、おめでとう、おめでとう。外にいるわたしの作った生物兵器たちは、このドームの中に入ることができません。皆さんは自由に出入りできますが、外に出るのはお勧めしません」

 侵略者は大勢の老若男女が一斉に喋っているものを無茶苦茶に曲げてかき混ぜたような、奇妙な声で町中に語りかけてきた。空中から降ってくるように聞こえるその声の発生源は、間違いなく円盤だろう。

「このドームは、中にある人間以外の時を永遠に繰り返します。私が地球に降り立つ前の、七月七日の正午の海窓町の状態を、0時になると再現するのです。ああ、それでは不便なこともあるでしょうから、デジタル機器は通常通り動きます。百聞は一見に如かず、深くは考えなくて良いのです。確かなのは、今日から海窓はわたしのものであるということ。皆さんには、二つ役割を課します」

 耳を塞いでも突き抜けてくる町の隅々に響き渡るその声は気が狂いそうになるほど不快で、姉はたまらず床に嘔吐していた。その苦く酸っぱい匂いにつられて込み上げる吐き気を必死に耐えて、侵略者の言葉に集中した。

「一つは、『いつも通り』に生活すること。七月七日を繰り返せというわけではありません。ただいつも通りに過ごしてくれるだけで結構。町の外に職場があるとか、不可能そうな場合は、町の清掃にあたってください。0時になれば落ち葉も汚れも元通りですから、仕事がなくなるということはないでしょう」

 口を拭いながら私を見上げる姉に、「何を言ってるのか分かる?」と聞くと、「全然」と返された。混乱しているのは私だけではなくて少しだけ安心する。

「もう一つは、ヒーローを応援すること。以上です。私はいつでも狼の目で見ています。この二つに大きく反すれば、ペナルティを課します。明日からスタートです、皆さん、よろしくお願いします」

 ピンポンパンポン、と始まり同様気持ち悪い音程の終わりの合図が流れて、それ以上侵略者が何か言うことはなかった。

「……つまり、侵略者の監視下ではあるけど、私たち、とりあえずは助かったってこと、なのかな」

 姉の言葉に、誰も答えられない。重たい沈黙を気にせずに姉は続ける。

「狼の目とか、ヒーローとか、何のことか全く分からないけど。いつも通りに暮らせばいいってことだよね。明日は月曜日だし、普通に登校すればいいってこと?じゃあもう明日に備えて、今日はゆっくり休もうよ」

 いつも通りの調子にすっかり戻った姉を信じられない気持ちで見つめるが、母は姉の微笑みに気を持ち直したのか、「それもそうね、そう……」と呟きながらキッチンに果物ナイフをしまいに行き、父は無言で自室へと消えていく。戸惑ってその場から動けない私の手をとって、軽やかな足取りで私を姉の部屋へと連れていく。引き摺り込まれた姉の部屋は必要最低限のものしか置いていない殺風景な私の部屋と違って、優しい黄色で統一された可愛らしい部屋だ。好んで使っているらしいルームフレグランスの金木犀の香りが漂っていた。

「どうして……」

 そんなにいつも通りでいられるのかと聞こうとした口を、姉のそれに塞がれる。驚いて姉を突き飛ばすと姉は少しだけよろけてから尻餅をつき、クスクスと笑い始めた。カラスの頭ではないくせに、何を考えているのか全く分からないその表情に鳥肌が立つ。侵略者のようないまだに実感の持てない巨大な恐怖よりも、目の前にいる訳のわからない人間の方が、私にとってよっぽど恐ろしいものかも知れなかった。

「だって、町の外は全部崩れて、今までと同じように生活しろなんて言われて」

 言葉を一旦切ると、姉は私を見上げながら心底おかしそうに笑いながら黄色いカーペットに身を沈める。いつかこんな光景を見たことがあるような気がして、半ば現実逃避のようにその既視感の正体を探った。

「これでもう、静音は私から離れられないって思ったら、嬉しくて」

 思い出してしまう。この部屋が黄色い理由と、姉が金木犀を好んでいる理由を。

「私たち、もう死ぬまでずうっと一緒だね」

 幼い頃、私が「いい匂いがする」と言って、姉の手を引いて幼稚園裏に咲き誇る金木犀を見つけたのだ。ほとんど誰も近寄らないそこは当時の私と姉にとって宝物のような場所だった。姉はそんな幼い頃の記憶をまだ大切にしていたのだ。それは姉妹愛なんかじゃなくて、もっと重くて、どろどろとした感情を孕んでいる。

 私はとうとう耐えられなくなり、姉の部屋から逃げ出して、トイレで大して何も入れていない胃の中のものを便器の中に全てぶちまけてしまった。掠れた「助けて」の声は当然誰にも届かず、吐瀉物の中にぼとりと落ちていくだけだった。


 姉の起床に合わせて早く設定されているアラームを止めて起き上がり、いつも通り姉と玄関を出た私は、差し出された姉の手を見つめる。その手に自分の手を重ねることを躊躇していると「いつも通りにしなきゃ、どうなるか分かんないんだよ」と頭上を指差して微笑まれれば拒むことはできない。満足げに頷く姉の笑顔に、内臓が縮むような心地がした。

 この町がドームで覆われたあの日から数日、侵略者の言う通りこの町は七月七日の正午の状態を繰り返すようになっていた。

 例えば商店なら、いくら品を入れ替えても0時を回れば七月七日と同じラインナップが並び、それが食べ物でなければ0時にせっかく買った商品は購入者の手から霧のように消えていくらしい。食べ物の場合は、体に入った時点で生き物の一部として消えたりはしないのだそうだ。植物は水をやっても現状維持で伸びも枯れもせず、人間以外の動物は車に撥ねられても次の日には何事もなかったかのように歩いていた。

 他にもこの町は奇妙な動きをしていて、止まっていたはずの電気や水道が使えるようになり、電波だって問題なく使用できている。これらは全て顔の広い姉が友人やSNSを駆使して集めた情報だが、ここに来るまでに見かける店の飾りがいつまで経っても七夕であることから間違いはないだろう。町はずっと七月七日のままだ。

 しかしややこしいことに、時間は進んでいる。カレンダーはいくら書き込んでも七月七日の状態に戻されてしまうが、人間の時間は進んだままなのだ。例えば皿を割ったとして、それは0時を過ぎれば元通りになっているけれど、人間が転けて膝小僧を擦り剥いた場合その傷は0時を過ぎても治らない。かみさまが言った通り、デジタル機器は繰り返しの対象外だったため、スマホに表示される日付は毎日進んでいる。それだけが救いで、私の通う学校では、幸い全員がデジタル機器を持っていたため、板書はそれらのメモ機能を使用することに決まった。

 服に関しては、人間の一部と見做されているのだろうか、七月七日以前に所持して居たものであれば、それを着たまま0時を超えることができた。例えば0時を過ぎるよりも前の時間にパジャマに着替えて布団に入ったとする。そのまま0時を過ぎると七月七日の正午に着て居た服に戻ってしまうという事態にはならないと言うことだ。そういう、知性を持った侵略者が設定したことが分かる、細々とした人間への気遣いのようなものがあまりにも気持ちが悪い。理由は分からないが海窓の人間を生かし続けている侵略者が、人間をよく理解しているのだと察してしまうと恐ろしさが増すような気がしてしまう。

 このまま季節も巡る中、七月七日の状態が繰り返していくことに気が狂いそうだが、それでも人々は平常心を持たなければならない。ドームの発生と同時に、家の中以外のあらゆる場所に目を閉じた狼の首が生えてきたのだ。猟師が家に飾っている剥製のような見た目をしているそれは、不規則にその瞼を開き青色に光る目をギョロギョロ動かしている。侵略者は狼の目からいつも見ていると言っていたが、きっと狼の目とはこれのことで、「いつも通りの生活」から人々が外れないようにこれを使って見張っているのだろう。「いつも通り」から外れた時のことを誰もまだ知らないが、とにかく人々は自分の命を守るため、侵略者の言う通りにいつも通りの生活を送る以外に選択の余地は無かった。

 橙色に染まり始空に相変わらず浮かんでいる円盤の意味を知らないあの子は、今日も私の隣でパンに夢中だ。ここ数日訪れていなかったからか、その姿にいつもより必死さを感じる。濃い色の抹茶クリームがついて、嘴に苔が生えているように見えた。

「ここにも狼の首が生えてるとは思わなかった」

 今は目を閉じている狼の首が、滑り台の坂から生えている。元々誰かが使っているところを見たことがないし私は滑り台を使わないから問題ないが、いよいよここで遊ぶ子供は居なくなるだろうなとその異様な姿を眺める。

「私、琴音からもう一生逃げられなくなっちゃったな……」

 よほどお腹が空いていたのだろう、もうほとんど無くなった抹茶クリームパンを見てもう一つ買っておいたホットドッグの封を開ける。それにもすぐに嘴を突き刺すあの子の勢いが今はとても眩しい。食べることで飢えから逃れ、生きようとしているその姿がこの絶望に沈んだ町ではとても貴重な光景に見えた。

「侵略者は、どうして海窓を選んだんだろう。海窓に何かすごい秘密が隠されてるのかな。もしそうでも住民を生かしておく理由がない。食料を与えて、普段通りの生活をさせる意味が分からない」

 腕を組んで考えるけれど、それらしい理由は見当たらない。

「いつも通りって、どこまでをいつも通りとするんだろう。私が今、いつもなら絶対にしないこと……例えば踊り出したとして、ペナルティは課せられるのかな。狼は、目を開いている時しか監視してないのかな」

 考えれば考えるほど分からないことが増えていく。その気になればこんな町一瞬で壊滅させることができるはずなのに、一体侵略者は何を目的に海窓の上空に浮かび続けているのだろう。人智を超えている存在について私が頭を捻ることは無意味なのかも知れないが、疑問が浮かんで止まらない。

「それに、ヒーローって何のことだろう。君はどう思う?」

 ある程度腹が満たされたのだろうか、あの子は私を見上げていつものように愛らしく首を傾げて見せるその姿に「まあいいか」という気持ちになってしまう。実際、考えたって私に何ができるわけでもないのだ。姉のことも、侵略者のことも、考えるだけ無駄だ。私には話を隣で聞いてくれるあの子がいる。七月七日からこの子の時は止まっているけれど、それだけで十分な気がしてくる。

「君が居てくれてよかった」

 あの子との時間がこの先も続くなら私は多くを望まない。あの子が七月七日以降の私との会話を忘れていたって良い。これが私の幸せで、それでいいと思えた。空が焼けるような茜色に染まり、時計は姉の部活が終了する五分前を示していて、姉より先に家に着くにはちょうど良い頃合いだった。

「じゃあ、また明日」

 そう告げてベンチから立ち上がると、やはりいつも通り私を見送ってくれるあの子が愛おしい。夏休みに入れば、去年と同じならバレー部は学校の一室を借りて合宿をするはずだ。私は図書室で勉強か読書をすると言って毎日あの子に会いに来よう。待ち遠しく思いながら私は公園を出た。

 その瞬間、耳を擘くようなサイレンの音が町中に鳴り響く。あまりの音量に思わず耳を塞いで身を屈めると、視界の端であの子が音に驚いて飛び立って行くのが見えた。

「海窓の皆さん、こんばんは。侵略者です。準備が整いましたので、只今より、ヒーローショーを開演いたします。皆さん、ヒーローを元気よく応援しましょう。テレビの前に集合してください。手元に映像を見ることができる端末を持っている方は、それでもまあいいでしょう。というわけで、第一回です、張り切っていきましょう!」

 サイレンの後に、相変わらず不快な声のふざけたアナウンスが流れた。滑り台の狼が目を開いてこちらを見ていることに気が付き、冷や汗をかきながら言われた通りスマホを取り出す。電源をつけていないのに勝手に画面が明るくなったそこに映ったのは、円盤の暗い穴を地上から見上げたような映像だった。驚いて見上げると、空に浮かぶ円盤に映像と同じように穴が開いている。この映像は中継なのだ、誰が撮影して放送しているのか分からないが、間違いなくそうだ。

 そして暗い穴から奇妙な形の生物がゆっくりと降りてきた。それは幼稚園児に犬を作れと言って粘土を渡して生み出されたような、黄土色の歪んだ四足歩行の化け物だった。背景に映る住宅街から察するに、おそらく一軒家と同じ位の大きさだろう。地面に大した衝撃もなく着地したその化け物は、若い女性のような声で絶叫し、道路を走り出した。

 ドームの中は今の所安全圏だと思っていたが、そういえば侵略者は外にいる化け物はドームの中に入って来られないと言っただけで、ドームの中に化け物を放たないとは言っていない。アングルが次々に変わる映像はやけに監視カメラのような画角ばかりで、ようやくこの映像の撮影者が狼の首であることに気がつく。そして、私がいる公園からは遠い場所だが、化け物が涎を垂らしながら一心不乱に向かう先に高校があることを察して血の気が引いていく。しかし私が気付いたってどうすることもできず、ただ化け物が到着する前に生徒が身を隠していることを祈るしかない。

 とんでもない速さで木や電柱にぶつかりながら進んでいた化け物の動きが唐突にピタリと止まる。その視線の先には、ボールを持って愕然と化け物を見上げる小学生位の三人の姿があった。彼らはきっと映像を見れるものを持っておらず、化け物が今どこにいるのかを把握できなかったのだろう。化け物はもう一度絶叫して、逃げようと踵を返した少年たちに襲い掛かる。もう彼らはきっと助からない。目を覆おうとした、その時だった。

「待たせたな!」

 声変わり前の少年のような明るく軽やかな声が、濃い死の臭いを打ち消した。

 画面の上から突然現れた白い人影が、目にも止まらぬ速さで足に装着していた短刀を引き抜き、重力に任せて化け物の頭上へと降りていく。そのまま化け物は白い短刀で頭から切り裂かれ、グチャっと気持ちの悪い音を立てながら倒れていった。

 ピクリとも動かなくなった化け物の体が、ゆっくりと空中に霧散していく。黄土色の霧が晴れて明らかとなったその姿を見てポカンと口を開けてしまう。片方の手を腰に当て、もう片方の手は拳を高く掲げた、一見間抜けにも見える決めポーズを披露していたのだ。

「ヒーロー、参上!」

 場違いなほど明るいその声に、私は「はあ?」と思わず零してしまう。しかし彼─体型から推察するにおそらく男性─は、自身で言う通りヒーローとしか形容できない姿をしていた。

 全体的に白を基調とし所々に灰色のキルティングがあしらわれている、テレビでよく見る光沢のあるヒーロースーツというよりは、細身にした宇宙服のような見た目だ。人体に即した頑丈そうなヒーロースーツはいかにも新品ですという風貌で、汚れ一つない。

 同じ色のショート丈のジャケットをその上から着込み、首元に巻かれた天使の翼のような形のスカーフが、風に靡いて本物の翼のように見えた。目周りは黒いゴーグルで守られ、その部分以外がスーツ同様白と薄い灰色で構成されたフルフェイスのメットには、猫の耳のような突起が二つ立っている。そんな白い装いに一際目立つ、全身に沿い巡った赤いラインは、どういう素材なのか夕焼けの赤に負けない光を放っていた。まるでネオンのような、どこか温度のない人工的で強烈な光だった。

「侵略者から伝言がある。これから、毎日この町に化け物が放たれるらしい」

 告げられた言葉に、画面の向こうから騒めきが聞こえてくる。おそらく野次馬が集まってきたのだろう。ヒーローはそんな住人たちを安心させるように、胸をドンと叩いて見せた。

「安心して、僕は海窓の味方なんだ。僕が絶対に倒すから、化け物が現れたら建物の中か物陰に隠れて、出来るだけ音を出さないでほしい。もしピンチになったら『助けてヒーロー!』って叫んでくれ。いや、小声でも大丈夫。僕はすごく耳がいいんだ。すぐに駆けつけるから!じゃあまたね、よろしく!」

 ヒーローはそれだけ言うと、正体を明かさずに町のどこかへ消えていき、中継はその後ろ姿を見送り切らずに終了した。私は何が何だか訳のわからないまま、とりあえず今は姉より先に帰らなければと帰路を急ぐのだった。


 3


 それから数日が経っても、一向に悪夢は覚める気配を見せない。

「ヒーロー、大人気だね。学校中がヒーローの話題で持ちきりだし、いつも立ち話してる近所のおばさんたちも、最近はヒーローの話ばっかりしてるよ。バレー部だってそう。正直うんざりしてきちゃった。まあ、気持ちは分かるけどね」

 脱衣所で、姉は私の髪にヘアオイルを馴染ませながら言う。

「あれから何回化け物が現れたんだっけ。覚えてる?確か地球に降りてきたのが七月七日で、海窓に来たのが七月十一日で、今日が十四日だから……ええと……いち、にい……、ああ、四体だね。何回か危ない場面もあったけど、今のところ犠牲者0人なんてすごいよ。昨日なんて片腕を引きちぎられてたけど、それでも勝ってたし」

 私もその様子をいつもの公園であの子と見ていた。ヒーローが巨大な黒いタコのような化け物に左腕を引きちぎられて悲鳴を上げていたが、すぐに体勢を整えて化け物の頭に赤い弾丸を叩き込んだところなんか、ヒーローにあまり興味のない私でさえかっこいいと思った。

「でも、今日片腕が元通りになってるのを見て、ちょっと怖くなっちゃった。分かってたけど、人じゃないんだなあって。話を聞く限り、優しい性格ではあるみたいだけど」

「どうして分かるの?」

「ヒーロー、時々化け物がいなくても町に現れるらしいよ。それを目撃したクラスメイトが言ってたの。重い荷物もった人の荷物持ってあげてたって。空き地で野良猫と遊んでるところも目撃されてた。それを聞いた新聞部の子がインタビューをしたいって血眼になって探してて、ヒーローを見なかったかって私も尋ねられたよ」

 私の髪を整え終わったらしい姉はヘアオイルを石鹸で落とすと、正面から私を抱きしめてきた。同じヘアオイルの匂いが混ざって、二人が一つになったような奇妙な感覚がある。

「まあ、いいの。ヒーローのことなんか、どうでも。それより……」

 姉の手が、私のうなじに触れる。

「静音、何か隠してることある?」

 顔から血の気が引いて行く。

「……どうして?」

「んーん、別に。気になっただけだよ」

 身じろぐとあっさり私を解放した姉の顔には相変わらず感情の読み取れない笑顔が浮かんでいて、風呂から上がって暑ささえ感じていた体が恐怖で冷えていく。

「よそ見しないで。ヒーローも駄目。私たち双子なんだから。分かった?」

 姉の言っていることは無茶苦茶だと理解しているが、反発することもできず小さく頷いて、「おやすみ」と声をかけてから私は自分の部屋に足速に逃げた。どうか震えていた手がバレていませんようにと願いながら布団を被る。姉は何か勘づいているのだろう。姉があの子の存在を知ればあの子が無事でいられるとは思えない。あの子を守るためにも、しばらくの間あの子に会いに行くのはやめよう。それできっと大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら眠りについた。そんな呑気なことを思っていたから、取り返しがつかなくなるのだ。

 次の日の朝、いつも通りの早朝に起きたのに、姉は家に居なかった。スマホには「今日の朝練いつもより早いから先に行くね、大好きだよ」というメッセージが届いていて、その時点で何か嫌な予感はしていた。

 雨の匂いがしていた。いつもよりゆっくりとした時間に登校した私をクラスメイト全員の視線が貫いて、何かがおかしいことにすぐ気がついた。毎日ヒーローの話で盛り上がっていた教室が今日は異様なほど静かで、全員がいつもは見向きもしない私を観察するように見つめている。

 居心地が悪いが、時計は朝のホームルームの十五分前を指している。仕方がないのでそのまま自分の席に着くと、私の机の上に手のひらが置かれた。

 その腕を辿って見上げると、おそらく今まで一度も会話したことがないクラスメイトが私を興味津々という顔で見下ろしていた。もう遅い気もするが、気づかなかったことにして寝たふりをしてしまおうと頭を俯かせると、彼女が口を開いた。

「ねえ妹ちゃん、猫、殺したってほんと?」

 その声を聞いて、今まで無言でこちらを見ていたクラスメイトたちが私の周りを取り囲む。

「うわ、ちょっと何聞いてんの。やめなって」

「え、でも気になるでしょ」

「えマジ?こいつ猫殺したの?」

「マジだよ、俺見たもん」

 その声に教室がざわつく。口々に「怖い」だとか「嘘でしょ」だとか言うが、全員口角が上がっている。誰も怖いなんて思っていない。ただ目の前の好奇を楽しんでいるだけだった。しかし心当たりがないから私は首を横に振ることしかできない。

「知らない」

 それだけ言って話を切り上げ、こんな場所にはいられないと机にかけていた鞄を取るが、私を目撃したと証言する少年が食い下がった。

「いや絶対殺してたって。今日、真っ赤なゴム手袋してさ、血まみれの鋏持って歩いてるとこ見たよ。いや、猫かは分からないんだけど、なんか生き物を殺してないと手まであんなに真っ赤にはならないって」

 その言葉に、私は目を見開いて硬直する。彼が目撃したという私の姿が本当なら、答えは一つしかないからだ。

「なんで殺したん。てか、何を殺したん?」

「なんで鋏持って歩いてたの?生きたまま殺した?」

「何が起きるかわかんないのに、『いつも通り』から外れることが怖くないの?」

「ねえ妹ちゃん本当なの?」

「動物を殺したって、生き返ってくるの知ってるでしょ。人間以外は繰り返す町なんだよ」

「鋏でどっから切った?」

 私の肩に突然ズシ、と重みがかかり、沈みかけていた意識が引っ張り上げられる。肩にかけられた手から香る金木犀─おそらくハンドクリームの香りに、誰が背後に立っているのか理解して、体温が急激に下がっていく。

「どうしたの?静音の周りに集まって。静音、嫌がってるよ」

 ねえ?と頬をつつかれて、つられるように奥歯がガチガチと鳴った。

「でもこいつ、なんか生き物殺して、鋏持って彷徨いてたんだぞ」

「そうだよ琴音ちゃん、妹ちゃん結構やばいよ」

「蜂谷ちゃんに何かあったら私たち悲しいし……、妹と距離おいた方がいいよ」

 私のことを「姉の妹」としか認識していないクラスメイトたちに姉は満足そうに微笑む。

「そんなこと言わないで。私、静音のこと大好きなの」

 私は派手な音を立てて椅子を倒しながら立ち上がり、クラスメイトたちを押し退けて教室を出た。

「静音?」

 姉のわざとらしい声を教室に置いて、廊下を走る。靴を履き替える余裕もなくスリッパのまま、途中でそのスリッパも脱げて、何度も転んで足を擦りむきながら走り続けた。途中で化け物の出現を知らせるサイレンが鳴ったが、それさえも構っていられなかった。

 満身創痍になりながら、最悪な可能性を考えている。可能性というか、きっとこれが事実なのだろう。しかし私は絶対にそれを認めたくはなかった。呼吸が浅くなる。頭の中では後悔と懺悔が繰り返されている。重い足を無理やり動かして、永遠にも思えた墓場を通り過ぎ、やっと辿り着いた公園の入り口で、往生際が悪い私はまだ現実を見たくなくて目を伏せる。心を落ち着かせようと深呼吸をしても体の震えは止まらず、いつの間にか自分が泣いていることにこの時やっと気がついた。

 公園のちょうど真ん中で、翼を取られたあの子がぐったりと横たわっていた。地面の砂が血を吸って赤黒く染まっている。ピクリとも動かないあの子は、きっともう息をしていない。目の前が絶望で真っ暗になる。あの子の側で膝を折ると鉄の匂いが鼻を突き抜けて、現実が脳に染み込んで嗚咽が止まらなくなった。

 私のせい、だろうか。姉の狂気を知っていて、それでも友達を欲してしまった私のせいで、あの子はこんな目に遭わなくてはいけなかったのだろうか。

 やりきれない気持ちに任せて地面の硬い土に爪を立てる。ガリガリガリガリ音を立てて、指先から血が出るのもお構いなしに引っ掻き続けた。唸り声を上げて、狼の首がこちらを見ているのも気にせずに。

 狼の首は、あの子が殺される瞬間を見ていたのだろうか。これが「いつも通り」と判断されるなんて、侵略者は一体どこまでを「いつも通り」としているのだろう。狼の首が監視カメラだというのは本当にただの噂に過ぎなかったのだろうか。それとも、姉の狂気を知っていて、「いつも通り」であると判断したのだろうか。

 遠くで爆発音が聞こえる。そういえば、さっきサイレンが鳴っていたような気がする。きっと今日もヒーローが奮闘しているのだろう。物陰に隠れなくてはと思うけれど、体が重くて動かない。あの子の隣に寝転んで空を見上げた。暗い色の雲が埋め尽くしていて、希望なんて見えやしない。あの子が死んでしまった今、このまま化け物に見つかって死んで行くのも良いのではないかとさえ思えてくる。

「双子は鏡や影と同じで、片方が居ないと成り立たないんだよ。その間に何も置いちゃいけないって、私、昔言ったでしょ?」

 いつの間にやって来たのか、姉がゾッとするような笑顔で私を見下ろしている。言い返す気力さえない私が目を閉じるが、姉は構わず話を続けた。

「高二の春に入部なんて、変だと思った。絵を描くことなんて興味ないくせに、急に美術部に入るなんて。遅く帰ってくることの理由付けだってすぐに気づいたよ、あそこ、顧問の先生が全然部活の様子見に来ないことで有名だもんね」

 慈しむように優しく私の頭を撫でる手が、言葉とかけ離れ過ぎていてなんだか別の生き物のようだ。

「学校で友達が作れないからって、まさかひと気のない公園でカラスと友達になってるとは思わなかったな。……ふふ、あのカラス、私のことを見るなり嬉しそうに近寄って来たから捕まえるのはとっても簡単だったよ。きっと、最後まで私のことを静音と勘違いしたまま死んでいったんじゃないかな」

 怖い、私はこの少女が何を言っているのか全くわからない。

「ねえ、あのカラスは七月七日から時が止まっているんだよ。0時になれば元通り、生き返るの。わかる?私が明日ここに来たら、きっとあのカラスはまた私を静音と勘違いして私に擦り寄って、私に殺されるでしょうね」

 最悪だった。もう何も聞きたくなくて耳を塞ぐが、両手とも掴まれてしまう。

「ねえ、もう諦めてよ。私しかいないって、認めて。どうせもうあの教室であなたを愛せる人間なんていないんだから。ほら、認めて、私しかいないって、ねえ。目を開けて、開けろ、私を見ろ!」

 捲し立てる声が恐ろしくて、せめてもの抵抗に目を固く瞑っていると突然強い風が吹いた。それと同時に強く掴まれていた手が両方とも解放されて、脱力した私の両手は地面に強く叩きつけられる。

「ギャっ!」

 姉の潰れたような悲鳴が静かな公園に響いた。そして一瞬の静寂の後、何かがぐしゃりと潰れた音がして、私の顔に生ぬるい液体が飛び散る。

 恐る恐る目を開くと、そこには巨大なカラスがいた。いや、巨大なカラスに似た化け物だった。黒い巨体はまさにカラスそのものだが、クチバシがなかった。代わりにそこにあるのは巨大な人間の唇で、そこから何か棒のようなものが二本飛び出ている。それが姉の足だと理解したのは、歯で噛み切られ私の真横に落ちてきた後だった。

 まだヒーローは化け物を倒していなかったのだ。辺りに白い影はなく、もしかするとヒーローは負けてしまったのかも知れない。巨大なカラスの赤く光る目が私を写し、姉の血で彩られた唇は弧を描く。私は今度こそ死ぬらしい。

 思えば、姉に奪われてばかりの人生だった。走馬灯に浮かぶどの私も諦めたような顔をして姉に抱きしめられている。誰かに助けてほしかった。誰でも良い。一度だけでも良いから。

 この町では、それが出来ることを今更思い出す。最後くらい、助けを呼んでもいいだろうか。期待してもいいだろうか。もう手遅れかも知れないけれど。

「……助けて」

 迫り来る巨大な口に飲み込まれる前に。

「助けて、ヒーロー」

 曇天に震えた声が溶けていく。

 その直後、ザリ、と地面を踏み締める音がして、公園の入り口に、君は立っていた。

「ヒーロー、参上!」

 翼のようなスカーフがはためいてまるで天使のようだった。

 君は腰につけていた銃を手に取ると、化け物の頭に銃口を向ける。腰から銃に繋がっている透明なチューブの中を輝く赤色が進んで行き、銃本体に赤色が到達した瞬間にその引き金を引いた。

 放たれた赤く輝く弾丸が化け物の頭を貫くと、乾いた音をたてて化け物の顔が張り裂けた。どろどろとした黒い肉片が飛び散って公園中に飛び散っていく。

 今にも泣き出しそうだった雨雲は君の頭上だけ晴れていて、日光を反射して白いスーツが輝いていた。首元は怪我をしたのか真っ赤に染まっていたが、そんなことは些細に思えるほど君は美しかった。

「見失って困ってたんだ!呼んでくれてありがとう、間に合って良かった。怪我はない?」

 構えていた銃を下ろして腰に装着し、君は寝転んだままの私を助け起こす。そして千切れた人間の足と両方の翼を取られたカラスの死骸に気が付き、メットの奥で悲鳴を上げた。

「何、これ……」

「……私の姉と、姉に殺された私の友達」

 しばらく固まった後、言葉を理解した君の体がガクガクと震え出す。

「も、もしかして僕……、間に合わなかった……?」

 崩れ落ちかけた君の肩を掴んで、私はそのまま引き寄せ抱きしめた。

「ううん、そんなことない。君は私の檻を壊してくれたんだよ」

 幸福が全身を包んでいる。笑いが込み上げてきて、それを抑えることもせず私は声を上げて笑った。頬が痛い。こんなに笑えたのはいつぶりだろう。

「あは、ふふ、ありがとう、あははっ、ありがとう!」

 遠くでカラスが鳴いている。

 野次馬が次々と集まってきても、好奇の目を向けられようとも、初めての犠牲者が出たということで事情聴取したいと警察が私と君をパトカーに乗せるまで、私は固まった君を抱きしめ続けた。

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